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いわさき まさや

岩崎正彌

いわさき まさや

1882(明治15)〜 1937(昭和12)

大正・昭和期の実業家(三菱・末廣農場)

埋葬場所: 8区 1種 13側

 高知県安芸市出身。三菱財閥創始者の岩崎彌太郎と妾との間に生まれた末子。長兄は岩崎久彌。岩崎彌之助は叔父。岩崎小彌太や岩崎俊彌(3-1-15-56)は従兄弟。
 1911(M44)アメリカのモルガン大学を卒業。兄で三菱3代目社長の岩崎久彌は、弟の正彌のために植林地としていた千葉県富里市の土地を解放し、'12.11.1(T1)この土地に農場を開設。正彌は農場主として養鶏と養豚の事業を始めた。初代農場長は赤星陸治。
 なお千葉県富里市の土地は、1887(M20)明治政府の土地払下げによって岩崎彌之助が購入。343町歩(およそ340ヘクタール)という広大な土地が、牧畜を目的として岩崎家の所有となる。1889 彌之助の甥である久彌によって植林事業が開始され、以降、22年間植林地とされた。提供されたこの土地は、末広がりな土地であったことから農場名「末廣の野原」と命名。ここから「末廣農場」が誕生した。
 正彌は洋式の養鶏法を導入。鶏を養鶏舎に閉じ込めて栄養価の高い餌を与えるという方法が採用され、箸でちぎれるほど柔らかで上質な肉を生産することに成功した。これらの肉は宮内省、大使館、帝国ホテル、料亭末廣などに卸された高級品であり、一般の市場に出回ることはなかった。料亭末廣では鶏肉の刺身を出し、食通に好評を博した。このようなことから生産コストが高い高級品であったため、生産すればするほど赤字となる商品であったことから、営利事業としては失敗に終わる。それ以外では、農場事業は順調に進んでいた。
 '15(T4)正彌が東京イーシー工業取締役に異動となり、末廣農場を離れたことから農場は一時休止状態となった。正彌はその後、三菱関連の重役をつとめる。享年55歳。
 なお、休止状態であった末廣農場であったが、'19 かねてから農牧事業を手掛けたいと夢見ていた久彌が農場を検分し、久彌自身が農場経営に携わった。末廣農場を継いだ久彌は、「系統繁殖法」を実施し各種鶏を交配してその産卵数量を調査するというもので、2500羽の鶏を5代にわたって完全な記録を残した。欧米においても同様な系統的調査が実施された記録が残されているが、150羽程度の記録であり、久彌の実施した系統記録はギネス的な世界記録だった。養鶏は最高時に8000羽が飼育され、産卵数は年間45万個にものぼった。また年間300個以上産卵することのできる優秀な成績は50羽以上に及んだ。当時の世界記録は青森種鶏場の361個であった。飼育法に関しても飼料、有害菌、寄生虫などの研究が実施され、この中には学会未知の発見も含まれた。しかし、「末廣農場」は第二次世界大戦の終結からGHQによる財閥解体、農地解放によって閉鎖。一部の土地が千葉県に譲渡され「千葉県畜産試験場」や成田空港建設へとなっていった。

<「末廣農場の畜産業」林田利之>
<人事興信録>


*納骨堂正面「岩崎正彌家之墓」。多磨霊園には従兄弟の岩崎俊彌(3-1-15-56)にあるが、全く同じであり、家紋も同じ「三階菱」である。墓誌などはない。妻は能勢古満(1888-1991)。

*岩崎彌太郎と正妻の喜勢との間は1男2女(久彌・春路・磯路)。彌太郎には6人ほどの妾がおり、妾との間に4男3女(豊彌・富子・秀彌・雅子・照子・康彌・正彌)。正彌は末子。


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