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いそ やへい

磯 彌平

いそ やへい

1852(嘉永5.7)〜 1940.2.27(昭和15)

明治・大正・昭和期の銀行家

埋葬場所: 16区 1種 1側

 甲斐国都留郡谷村(山梨県都留市上谷)出身。山梨県人の小林林兵衞の弟。磯清五郎の養子となり、1874(M7)相続した。旧姓は小林。
 1889.7.15(M32)山梨県南都留郡谷村町に株式会社 谷村(やむら)商業銀行が設置され、1900.5.22 資本金20万円で営業開始されるにあたり初代頭取に就任した。以降、長年、取締役を務めた。
 '04 長安寺に原徴信が入山し、本堂の廊下で遊んでいる近隣の子供たちをみて、これらの子供を導かねばならぬ責任を感じて、日曜学校を設置し、また本堂を仮園舎として幼椎園を開園した。この状況を見た磯彌平ら5名が、正式な幼稚園の必要性を感じ、'05.7 青藍幼稚園(せいらんようちえん)設立発起人となり、同.11 開園した。'15.5(T4) 谷村小学校旧校舎の一部をうけ園舎を竣工。その後は10周年ごとの記念行事として園舎の増改築を行うことになる('47.8.1 私立から学校法人に機構を改め現在に至る)。
 谷村商業銀行は昭和金融恐慌の煽りを受けたこともあり、'27.3.20(S2)第十銀行へ合併し、第十銀行谷村支店となる。第十銀行は翌年に同じく資金繰りに陥っていた若尾璋八(11-1-10)が頭取を務めていた若尾銀行や、'35 大森銀行、'37 上野原銀行、'41 甲州銀行と山梨県内の銀行を買収し吸収合併させていった。'41.12.1 第十銀行と有信銀行の合併で名称を山梨中央銀行に変更。これに伴い、旧谷村商業銀行は山梨中央銀行谷村仲町支店として現在に至る。
 詳細な略歴は調査中であるが、山梨県都留に尽力を捧げた人物であった。享年87歳。

<人事興信録>
<都留市史>


*墓石は和型「磯家之墓」、裏面「昭和十六年七月 磯彌之助 建之」。右側に墓誌がある。墓誌は磯彌平から刻みが始まる。戒名は寶壽院薫譽梅窓清高居士。享年89歳と刻む。妻は せう(M16.4-S30.10.20:山梨県出身。志村眞三の長女)。1男6女を儲ける。同墓には長男は磯彌之助(M44.7-H15.4.18)、彌之助の妻は磯和子(H18.2.3没)、六女の奈々子(T11.1-S43.7.19)が眠る。

*長女の しま子(M33.5-)は日本銀行で松江支店長などを務めた吉川清七に嫁ぐ。二女の しゆん(M36.8-?)は西村三次郞に嫁いだ。三女は政子(M39.3-?)、四女は早死、五女は梅代(T4.3-?)。山梨県人の秋山庄甫の弟の久次(M20.3-?)を養子にとっていた。


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