京都出身。1936(S11)慶応義塾大学医学部卒業。戦時中、医療宣撫員としてフィリピンに派遣。勤務したマニラの聖路加病院はキリスト教と縁が深く、牧師の献身ぶりに深く感銘する。
敗戦後もマニラ郊外の米陸軍病院で一年間働き、医療と宗教の結びつきに感得(アメリカ人は階級がどうであろうが一人の人間として治療を施し差別なく対応をしていた点。
一方日本人は地位の高い人には弱く、自分より地位の低い人には威張る体質。同じ人間でどうして違うのかと驚き、生き方に深く感動。
その人格形成の基をなしているのがキリスト教信仰である事を知った)。帰国後、「医学教育は医学の修練以外に、正しい宗教と哲学を導入しなければならない」と唱え、1949(S24)自らも東京都世田谷区のバプテスト教会で洗礼を受けた。
母校の慶応大学に戻り、日本が遅れていた肺がん手術と研究に取り組む。'53(S28)日本ではじめて肺がん切除手術を手がけ、切除後5年の生存者を出す。
作家の吉川英治(20-1-51-5)の肺がん手術も執刀した。'62国立がんセンターの創立とともに病棟部長、'76国立がんセンターの第6代総長。また国際肺がん学会会長を務めた。
専門は呼吸循環器外科。肺がんの診断と外科治療技術の向上につくし、日本のがん執刀・胸部外科の権威として知られ多くの人命を救済した。
一方、末期患者への対応は、「医療技術だけで最後まで体の治療さえすればこと足りるのではなく、心のケアこそ必要であり、常識的な治療法がなくなると、ケア(看護)の時期になる。
ケアをする人は宗教的な厚い愛情をもって患者をいたわれる人であることが望ましい」と心のケアの必要性を訴えた。 自身が没する半年前に医学雑誌に発表した論文「よりよい死とは」は、医学・死・宗教を含む人間の心のケアを訴えた文である。
'83現代癌診療学の確立業績により武田医学賞受賞。数々の肺がん摘出手術を行うも、本人はヘビースモーカーであった。親分肌で豪快な人物として知られ多くの部下に慕われた。
'85(S60)4月がんセンター名誉総長時に、自身が皮肉にも肝臓がんと知る。即座に「切ってくれ」と医師団に命じるが、すでに手術が無理な状態だった。
抗がん剤を投与して延命する道はあったが「わかった。もう何もするな」と断り、倒れる日まで普通に執務した。
死が近づいていることを知りながら「東京にもホスピスを」とホスピス建設の募金で頭を下げて回った。
ホスピスとは、もともと宗教団体の宿泊所の意味で、がんなどの末期患者が心静かに死に臨むことができるように、幅広い介護につとめるための施設である。
編著に『肺癌図譜』『肺癌の臨床』『ホルモン産生腫瘍』『麻酔』『臨床腫瘍学』などがある。末期には在宅にてターミナルケアを行う。享年76歳。
没後、妻の美代子(1918.8.1-2003.8.16 同墓)が「ホスピス」を設立。この模様は「NHKスペシャル」として石川夫妻を描いた番組で放送された。
*墓所内には正面に和型「石川家之墓」、右側に墓誌、左手側に洋型「愛 寛容にして慈悲あり 1984年7月 石川七郎」と刻み、裏面が墓誌となっている。洋型墓石の裏面墓誌に石川七郎や妻の美代子らの俗名と生没年月日が刻む。
*国立がんセンターの一隅には、「石川庭園」と称する小さい庭がある。そこに、石川の字で墓石と同じように『愛は寛容にして慈悲あり』という聖書のみことばが彫られた小さな碑が建つ。
石川は晩年、人間にとって一番大切なものは愛であり、人が豊かな生と死に向かって生きようとする時、それはイエス・キリストの示された愛に生きる事であると確信したからと述べている。
*妻の石川美代子は夫の七郎が国立がんセンター総長在職中より、同センターターミナルケア研究会に熱心に参加。夫が末期のがんで余命幾ばくもない状況時にターミナルケアを実施。
夫を看取った後も、患者のケアのためにボランティアとして活躍。『5月12日「看護の日」』の制定発起人のひとりでもある。
「看護の日」は「看護の心をみんなの心に」をテーマに毎年5月12日を含む週の日曜日から土曜日までを「看護週間」として、気軽に看護に触れる行事が全国各地で行われている。