鍋島(佐賀県)藩士の子。築地立教学校(現立教大)卒業後、立教女学校教諭となったが、この間熱心な詣縦教信者となった。
1891(M24)濃尾大地震のさい孤児貧児をひきとり、孤女学院を創設、収容中の精神薄弱児童の教育法を研究するため渡米、各地の精薄施設を視察した。
帰国後、精薄児教育に専念し、その成果を「白痴児、その研究および教育」(1904)にまとめた。
その後、東京府児童鑑別委員会委員となったり、日本精神薄弱児愛護協会を結成するなど、精薄児問題に一生を捧げた。
*妻である石井筆子は前夫との間に生まれた3人の娘が全員知的障がいであり、亮一の滝乃川学園にお世話になっていた。もともと福祉活動を行っていたこともあり、よく手伝いにきていた縁で1903(M36)に亮一と結婚。亮一没後は園長としても活躍した。
*墓石には十字架のしたに石井亮一と筆子が連名で刻む。裏面は両者の生没年月日が刻む。
※2022年(令和4年)4月、石井亮一・筆子の墓所に撤去警告の看板が立っていたため、滝乃川学園含め広く告知を展開しておりましたが、早々に滝乃川学園の関係者より連絡を頂戴し、親族と共にお墓の継承手続きをされる運びとなりました。よって、今後も墓所は存続します。とても胸をなでおろしております。
第56回 日本初 知的障害者福祉 滝乃川学園 創立者 石井亮一 石井筆子 お墓ツアー お墓の存続がピンチです!
|