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いしい ふでこ

石井筆子

いしい ふでこ

1865(慶応1.4.27)〜 1944.1.24(昭和19)

明治・大正・昭和期の教育者、社会事業家

埋葬場所: 8区 2種 13側 1番

 肥前国大村玖島城下岩船(長崎県大村市)出身。肥前大村藩士で西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城談判の立会人の功績で男爵となり、福岡県令等を務めた渡辺清・ゲンの長女。旧姓は渡辺。
 12歳の時に父のいる東京へ祖父母とともに上京。全て英語教育であった東京女学校卒業。 その後も英語塾に通う。幼少より、英語、フランス語、オランダ語に堪能な才媛として『ベルツの日記』に紹介されている。 1880(M13)皇后の命により大村藩主の娘婿であった長岡護美のオランダ公使赴任の際の随行員として女性としてただ一人選ばれる。イタリアに赴き、次いでフランスに留学した。 帰国後、1884幼少より婚約していた肥前大村藩の家老の子で工部省鉱山局技師の農商務省官吏の小鹿島果と結婚。小鹿島姓となる。しばしば鹿鳴館の舞踏会に出かけた。
 1885華族女学校嘱託としてフランス語の教鞭をとる。同僚の英語教師に後に津田塾大学を設立する津田梅子がいた。1886長女の幸子誕生。 産まれて半年が経っても首がすわらず発育が遅いことに疑問を抱き、病院で検査をした結果、白痴と診断された。 当時の知的障がい者は白痴や痴愚と呼ばれ、働く能力がない者として差別を受け、法令で義務教育の対象からも除外されていた。 また世間の風当たりも強く、家柄を気にする時代であったため、病院や自宅の座敷牢に隔離されることもあったという。 その後、次女の恵子は幼くして没し、1891授かった三女の康子も虚弱児で発達障碍があった。近所での噂もひどく、また長男である小鹿島果の小鹿島家からも世継ぎを産まれないことに不満の声もあり、キリスト教徒であった筆子は教会で祈るしかできなかったという。 そんな折、交流があった勝海舟の息子の妻であるクララ・ホイットニーから、ボアソナードの娘のルイーズを介して、フランス人の法学者ボアソナードに会う。 ボアソナードは当時明治政府が不平等条約の改正を実現するために、欧米列強が前提条件としていた近代法典の整備のため、フランスの法律をモデルに各種国内法を定める顧問として招聘していた。 ボアソナードから「四海兄弟人道の基本」(人に洋の東西も老若男女もない。まして優劣もないという意)を助言され、真の近代文明とは人が人である限り生命と人格を最大限尊重することが重要であると知り、「人権」という考えが新たな心の支えとなった。
 華族女学校で教鞭を執りながら、1887付属幼稚園主事を兼任。女子教育に精力を傾け、女子高等師範の木村貞子と協力して「婦人教育ノ普及ヲ計リ其徳操ヲ養成スルヲ目的トス」る大日本婦人教育会を結成。 会員のための教養講談会の開催、雑誌の発行とともに女紅学校を開設し、細民尋常小学校を付設。また福祉活動を活発に行った。C.H.ローズ経営の静修女学校主宰も務める。
 1892夫の果が結核のため病死。夫との間に男子がなく、娘二人も障がい者であり婿を取れないと判断した小鹿島家は、末弟に家督を継がせることとし、筆子は離縁され、実家の渡辺家に戻った。しかし、実母は没しており、父には後妻もいたことから、筆子の立場は厳しかった。
 立教大学教頭や顕曄女学校校長をしながら、聖公会の支援や私財を投じて濃尾大地震の震災孤児の保護養育施設を全寮制で設立した聖三一孤女学院(後の滝乃川学園)の石井亮一(同墓 当時は旧佐賀藩医の大須賀家の養子であったため大須賀姓)を訪ねる。 亮一の素性や能力に関わりなく、生徒に同じ目の高さで接する姿に感動し、子供を預けることにした。1895孤女学院の特別資金募集の発起人となる。三女の康子が8歳で亡くなる。
 1898文部大臣の要請で津田梅子と共にデンバーで開催される婦人倶楽部万国大会に日本代表として参加するために渡米。 同時期にアーウィン知的障がい学校やセガン・スクール等の視察、知的障がい教育の先駆者エドアール・セガンの未亡人に直接治療教育法や精神薄弱児専門の教育の理論を学ぶため渡米していた亮一と渡米先で会う。 この時、シカゴの棄児院などの社会事業施設を見学した。帰国後、筆子と津田梅子は華族女学校教師を退職し、梅子は女子英学塾を創立、筆子は兼務していた華族女学校幼稚園主事と女紅学校主宰の全てを辞職し、静修女学校校長に専念。 また亮一も立教大学と顕曄女学校を辞任、大須賀家からも離籍し石井姓に戻し、聖三一孤女学校を滝乃川学園と改称して学園長となり、知的障がい児童を積極的に受け入れた。これは日本初の知的障がい児教育の学校である。
 1902静修女学校閉校に伴い校長を辞任し、女子高等教育を津田梅子に一任し、滝乃川学園に長女の幸子と住み込みで支えることを決意。 当時の滝乃川学園は普通児童約50名、知的障がい児童10数名。その時に持ち込んだものは、小鹿島果との結婚祝いで父から贈られたピアノである。 このピアノは現在も滝乃川学園に所蔵され、日本最古のピアノ(アップライトピアノ:天使のピアノ)として2003(H15)東京都国立市登録文化財指定を受けた。
 '03(M36)周囲の反対を押し切って、亮一と再婚。亮一は37歳、筆子は43歳であった。この時、周囲の反対を黙らせたのは筆子の父の弟の渡辺昇であり、6歳年長であった戸籍を二歳差に変更させたという。 なお、この叔父の渡辺昇は剣客として知られ、坂本龍馬から頼まれ長州藩と薩摩藩の同盟に大きな働きかけをした維新の志士であり、後に大阪府知事や会計検査院長を歴任した人物で、筆子が滝乃川学園に持ち込んだピアノを海外から輸入した人物でもある。
 今まで良家の子女を教育してきた環境とは正反対の環境であったが、亮一が米国から持ち帰った知的障がい教育の理論である、まず日常生活を通して子供たちの五感を刺激させ、脳の発達を促す指導を苦戦苦闘しながら指導し続けた。 知的障がい者が今まで家庭で育てられた生活を改善させることにより、少しずつできなかったことができるようになることに驚かされる。 また併設された保母養成部で英語、歴史、習字、裁縫などを教えた。'06近隣に軍事施設ができたため、滝乃川学園は滝野川(北区)から西巣鴨村庚申塚(豊島区)に移転。'16(T5)長女の幸子が三十歳で没す。
 '20男子児童の火遊びが原因で滝乃川学園が火事で焼失する。この時、取り残されていた園児を救出するためにはしごを利用し二階へ上がろうとした筆子が転倒し片足を痛め、以後不自由な身となる。 この火事で園児六人が亡くなり、学園の運営記録等も全て燃えた。後に筆子が火事の顛末と再建を綴った学園発行小冊子『火影(ほかげ)』には、「私は子供たちの手足となり、また心となることを覚悟していました。しかし、実際はそうではなかった。抱負は破れ、精神は砕かれ、ただ慙愧の想いが残るのみです」。
 火事で学園の大半が焼失したことにより、施設の再建のメドが立たず、子供たちを教育する資金もないため、亮一は一端、学園の閉鎖を決める。 学園閉鎖を聞きつけた東京女学校時代の同級生の穂積歌子(法律家の穂積陳重の妻)と、穂積の父で政財界に影響力を持つの渋沢栄一が来て、学園の援助を申し出た。 また、華族女学校時代の教え子である皇后陛下(後の貞明皇太后)が学園の存続を希望し、金一封のご下賜があり、更に、筆子の同級生、元同僚、教え子、各種政財界人たちによる見舞いや寄付金が総額10万円(現在の価値で4000万円)集まった。 これにより、財団法人として許可された学園を再建。'21初代理事長に渋沢栄一を向かえ、改めてスタートを切った。筆子はこの頃より数篇の童話集を出版している。『もしほぐさ』('21)、『鐘のひびき』('22)、「自然界とおとぎばなし』('24)など。
 '28(S3)関東大震災後の都市化により学園周囲の環境が悪化したため、より閑静で、芋や麦などの栽培法の農業技術を身につけるため広大な敷地(8千坪)を確保できる北多摩郡谷保村(東京都国立市)に移転。 将来の自立に役立てる狙いもあったが、これにより莫大な借金を背負うこととなる。移転費用は東京府の長期低利融資で調達し、巣鴨の旧学園敷地を売り借金返済にあてる目論見であったが、'29金融大恐慌により負債は当初の倍に膨らんだ。 学園運営経費の捻出に奔走するかたわら、付設の保母養成部の教師として活動をしていたが、'32過労から脳溢血で倒れる。回復し現場復帰を果したが、'37二人三脚で学園経営をしていた夫の亮一が病のため没した。
 亮一が没した同年は、盧溝橋事件より日中戦争が勃発し、学園生や職員に召集令状が届くなど、学園経営の資金繰りが益々厳しい状況に陥っていたこともあり、後任の学園長も決められず、一端は学園を閉鎖することも止むを得ないと判断する。 しかし、亮一の言葉、「人は誰かを支えている時には自分のことばかり考えるけど、実は同時に相手からどれだけ恵をもらっているかは気付かないものだ。 これを忘れてはいけない」を思い出し、'37.10.16筆子自身が2代目学園長に就任し、滝乃川学園の存続を決定した。この時、すでに半身不随の身であったという。職業訓練の設備拡充と一般小学校へ養護学級設置への働きかけを理念とした。
太平洋戦争の最中、逝去。享年78歳。その後、滝乃川学園の3代目学園長に筆子の弟の渡辺汀が就任し、戦争を乗り越え、現在は社会福祉法人・滝乃川学園として運営されている。

<日本女性人名辞典>
<日本キリスト教歴史大事典>
<無名の人 石井筆子―“近代”を問い歴史に埋もれた女性の生涯>
<その時歴史が動いた「生命の守護者編」>


*墓石には十字架のしたに石井亮一と筆子が連名で刻む。裏面は両者の生没年月日が刻む。

*墓石には慶応1.4.27生と刻まれているため、享年78歳と紹介したが、これは文章内でも触れたように、石井亮一との再婚の反対の声を黙らせるため、叔父の渡辺昇が戸籍の出生を変えたものである。よって、本当は4歳多い、1861(文久1.4.27)生まれで享年82歳が正しいが、墓石の刻みを尊重する。

*当時の滝乃川学園の建物は2002滝乃川学園本館として国登録有形文化財指定となり、2007保存修復工事を着工し、2009竣工して、現在は「石井亮一・筆子記念館」となっている。 また、2006映画「無名の人〜石井筆子の生涯〜」(宮崎信恵監督)、映画「筆子・その愛−天使のピアノ−」(山田火砂子監督)が製作される。 加えて、出生地大村の小学校内には2002大村市偉人顕彰事業として「石井筆子像」が建立された。

※「知的障害者」という表記をここではあえて、「知的障がい者」という表記にしています。


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