鹿児島県出身。薩摩藩士の今村明清、キヨの3男として生まれる。弟(5男)に海軍造兵大佐の今村明孝、弟(6男)に内科医学者の今村明光(9-1-3)がいる。
造士館を経て、1894(M27)東京帝国大学理科大学物理学科卒業後、大学院の地震学講座に入り、後に講座助教授。1896より陸軍教授も兼任。1899当時としては異端説とされた「津波の原因は海底の地殻変動とする」説を提唱。
当時の東京帝国大学地震学教室の教授が大森房吉(3-1-24)であり、今村明恒は助教授であった。年は大森が二歳年上。関東大震災前に双方とも東京にいずれ地震が来て大火災に見舞われると考えは一致していた。しかし、1905投稿記事の中で今村は「将来起こりうる関東地方での地震への対策を訴える」と猶予はないと警告し、'11今村式強震計を開発。一方、大森は今村の発言や行動が世情を必要以上に動揺させることにつながる思い、それを恐れ、今村の説を退けていたため、両者は対立していた。今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されるも、'23(T12)関東大震災によって現実のものとなった。大森は出張先のシドニーで関東大震災を知り、急きょ10月に帰国したが、脳腫瘍の悪化で11月に没した。亡くなる前に後事を対立していた今村に託した。大森の後を継いで地震学講座教授となる。地震学科創立とともに主任。
その後、今村は地震博士として幅広い震災対策を呼びかける一方、地震発生が予想される南海道地方に私設観測所設置、'29(S4)一端解散していた日本地震学会を再設立し会長。帝国学士院会員。後に学会誌『地震』の編集、地震研究所員を兼任、また統計学的研究による磁気測定、地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に多くの業績を残した。'31定年退官。その後も私財を投じて地震研究を続けた。'33三陸沖地震発生後の復興の際に津波被害防止にため高所移転の提案をした。また、「稲むらの火」を国定教科書への収載を訴え、小学生から津波被害に関する教育の重要性の認知にも取り組んだ。
'44東南海地震発生前より、掛川から御前崎の水準測量を行い、地震前日から御前崎が隆起する動きを確認。これは現在の東海地震の発生直前の地震予知の裏付けとなる根拠とされている。
主な著書に『「稲村の火」の教え方について』、『地震の国』、『地震講話』、英文『理論・応用地震学』、共著に『星と雲・火山と地震』、地方出身者のための東京弁指導者『東京辮』など多数。従3位 勲2等。享年77歳。次男の今村久も地震学者である。