島根県出身。井川武・八重(共に同墓)の長男。仙台一中、一高を経て、1917(T6)東京帝国大学法科大学政治科卒業。卒業後、大蔵省に入省し、財務監督局兼大蔵属・東京税務監督局・理財局に配属。
同.9 財務書記官として中国駐在となる。'19.1 ロシア駐在(シベリア派遣軍政部付)、'20.9 副司税官・淀橋税務署長、司税官に転じ、同.11 大蔵事務官・米国駐在となる。'27.7(S2) 銀行検査官、欧米出張、'29.9 産業組合中央金庫監理官を兼任。'33.5 大蔵書記官・外国為替管理部審査課長を経て、'36.4 門司税関長に着任し、同.10 大蔵省を退官し、産業組合中央金庫理事に転職した(〜'41.5)。
'38.12 産業組合中央金庫大阪支所長、'40.7 本部業務部長に就任した。同.11 ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のウォルシュ司教と、ドラウト神父が来日した際に接触する。ドラウトの日米首脳会談案を近衛文麿首相らに取り次ぎ交渉を進める画策案が動き出す。井川は近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。
同.12 産業組合中央金庫理事を兼務して外務省嘱託になり、太平洋戦争開戦前の日米民間人交渉に従事することになる。'41.2 近衛首相と陸軍首脳部から託されて渡米。渡米してすぐの、同.2.27 ニューヨークの野村吉三郎大使から電話がかかってきて至急内密に面談したいと連絡があり、ウォルシュ司教とドラウト神父と合流。二人の神父に同行して、ウォーカー郵政長官と会見。二人の神父は井川を近衛首相の側近であり、日本政府の全権代表と紹介。ウォーカーはそれを信じ、ルーズヴェルト大統領とハル国務長官との日米会談の橋渡し役になる約束をした。これらのことを野村大使に告げると驚かれたが、井川は神父と話を進め、近衛首相と陸軍からも交渉を進める内命を受けた。陸軍省の岩畔豪雄大佐が交渉促進のため訪米することも決まった。
日米関係打開のための具体的な内容を野村大使は井川から聞いておらず、日米間の話し合いは支那事変の処理が議題と予測していたことで、中国問題に詳しい人物を補佐役に欲しいと陸軍大臣の東條英機に要請していたが、各々の見解がかみ合わず野村大使は井川を不審に思い、若杉要(6-1-16)公使は東京に問い合わせるように進言し、松岡洋右外相あてに電報を送った。
井川に会ったウォーカーはルーズヴェルト大統領に井川からの覚書を提出していた。ただし書中では井川の名前を挙げず、一人の「日本政府の全権代表」がワシントンに来ているとした。その人物が支那事変の調停を個人的にルーズヴェルト米大統領に依頼し、日本の枢軸同盟参加を無効にする手段を取り、太平洋の極東の安定のために現状維持、不侵略を誓約する用意があると伝えた。そして協定案を作成するために大統領が代表を任命し、できれば東京で協定調印するようにしたいと加えた。この覚書はハル長官に回されたが、相談を受けたホーンベック政治顧問は、本気で日本政府が極東問題の解決を米国と協議するなら、まず三国同盟を脱退、南方侵略政策の停止等々をしてからであり、認識が欠け、根本的な欠陥があると日本全権代表(井川)との接触を避けるべきと疑惑の眼を持ち、言外の結論であった。
この姿勢に対して、ウォーカーはハル長官と会見し、ドラウト神父に連絡もして、日本全権代表(井川)の覚書に対して、米国側の13項目に及ぶ具体的提案事項を掲げ、その全てに対して日本側は討議し合意することと伝えた。これを受けた井川は野村大使にハル長官と会ってほしい、ウォーカーが会見を斡旋したと告げた。
野村大使が井川についで助言を求めた松岡外相に送った電報の返信が届き、松岡外相からは「最近井川につき兎角の噂を耳にする。しかるべくご注意の上、井川をご指導相成りたく」と注意してきた。しかし、ハル長官との会談は翌日に迫っていたため、松岡外相の注意を守らず、若杉公使の進言にも耳をかさず、井川を信じて野村大使はハル長官と会談した。第一回会談は問題点を列挙するに留まり、二時間ほどの会談は双方の確認事項のみで終わった。井川は米国側に天皇の承認の下に政策転換をした事実に基づいているが、これは極秘であり、漏れれば反逆罪として暗殺されるので、野村大使にも伝えられていないという旨の覚書を会談前に送っていた。
ハル長官ら米国側は野村大使の会談での反応が意外なほど消極的であったことや、全権代表(井川)は暗殺の危険があるからという理由で、正式な資格を証明する文章を示さず、日本大使館も通さずに進めているのを不審に思われていった。同.3.10 米国側の13項目に対する具体的提案に対する覚書を全権代表(井川)が出すが、米国側はいかにも秘密工作の進行中のように受け止めつつも、日本大使館を批判し、岩畔大佐の訪米に期待させようとしているだけで、具体的な提案は見当たらない。そのような信用できぬ相手と日米交渉は不可能かつ無用と判断されてしまった。
このように、井川なりに日米国交の調整問題について意見交換を行い、訪米した陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成し奮闘したが、米国側からは相手にされなかった。ついには松岡外相の逆鱗に触れ全てを反対された。そして独ソ開戦ととも井川の交渉は事実上握り潰され失敗に終わった。同.5 産業組合中央金庫理事退任することになり、同.8 帰国した。
'42.4 大東海上火災保険(株)取締役社長と、大福海上火災保険(株)取締役社長に就任し、同.7 両社合併させた共栄火災海上保険(株)社長に就任した。
戦後は黒沢酉蔵、船田中とともに日本協同党を結成。'46 小党を加えて協同民主党が発足すると書記長に就任した。貴族院議員に勅選される(1946.6.19-1947.2.18)が、在任中に逝去。享年54歳。
*墓所には二基建ち、左側に和型「井川家之墓」、右に「鈴木家之墓」。「井川家之墓」右面は墓誌となっており、井川武(S10.3.3永眠 享年80歳)を始祖として刻みが始まる。武の妻の八重、長女の高子の次に、井川忠雄を二世として刻む。忠雄の妻は愛子(S59.11.8永眠 享年70歳)、二女の李子(S19歿)、山井浩(S57.12.23永眠 享年90歳)が刻む。「鈴木家之墓」の裏面は「平成八年九月 鈴木仙吉郎 建之」、右面が墓誌となっており、鈴木仙吉郎と光子の刻みがある。墓所には「神の義と愛 山井浩 兄」と前面に刻む墓誌碑が建ち、裏面が墓誌となり、「山井浩 1891.8.29〜1982.12.23」、「山井富子 1896.5.4〜1992.4.8」が刻む。
*「諒解案」から「ハル・ノート」まで対米開戦外交の初期に関わり、井川忠雄が近衛首相に提出した報告書類や関係者との書簡や電報、井川の回想、日米国交調停に関する諸案などが日米交渉の関係資料である「井川忠雄関係文書」は山井浩が保管され現存している。山井浩は検察官・福岡高等検察庁検事長を務めた人物で、妻の富子の兄が井川忠雄であると思われる。