陸奥国(青森県弘前市)出身。弘前藩士の一戸範貞の長男として生まれる。東奥義塾を経て、1874(M7)陸軍兵学寮に入り、1876 陸軍少尉試補となり歩兵第2連隊付を命ぜられ、翌年の西南戦争に出征。負傷するも凱旋し少尉に進級。
その後、歩兵第1連隊付、陸軍教導団小隊長、第8連隊中隊長、第10旅団参謀、第12連隊付、広島鎮台歩兵第11連隊大隊長を歴任。1894 大島混成旅団先発隊として日清戦争に出征。日清戦争では先遣隊として福島安正、上原勇作とともに朝鮮半島に渡る。朝鮮公使から上陸するなと要請されて京城への入城も拒否されるも、上原らと共謀して海軍陸戦隊と入れ替わることで入城することに成功する。京城までの道のりは険しく先遣隊は極度に消耗したが、陸戦隊よりもはるかに規模が大きかったこともあり、袁世凱は京城から退くことになった。
凱旋後は、第5師団副官、留守第4師団参謀長、中部都督部参謀を経て、大佐に昇進し、近衛歩兵第4連隊長に着任。1901 少将に進級し、歩兵第6旅団長に就任。1904 日露戦争に出征。旅順攻略戦に参加、特に第2回旅順総攻撃では、のちに一戸堡塁と命名された盤龍山P堡塁の奪取に成功し、勇名を轟かせた。
帰還後は歩兵第1旅団長を経て、'07 中将に進み、第17師団長となり、第4師団長、第1師団長を経て、'15(T4) 軍事参議官になった。同年、大将に昇進。教育総監に就任した。'19 ふたたび軍事参議官を務めた後、翌年、後備役となり軍を退いた。
'20 学習院院長を務め、'24 明治神宮宮司に就任した。また帝国在郷軍人会会長も兼ねた。'26.10.23(T15) 神宮球場竣功式で神宮球場最初の始球式をつとめた。正2位 従2位 勲1等 功2級。享年76歳。没後、 旭日桐花大綬章追贈。
<朝日日本歴史人物事典> <講談社日本人名大辞典> <帝国陸軍将軍総覧> <日本陸軍将官総覧など>
*墓所には二基並ぶ。右側が前面「明治神宮宮司陸軍大将一戸兵衛之墓」、裏面「昭和六年九月二日薨 行年七十七歳」。左側に前面「一戸家之墓」、裏面「昭和七年九月 建」。
【神宮球場】
神宮球場はその名の通り、宗教法人明治神宮が所有する球場である。球場と共に明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)などのスポーツ施設が建造される中で建設された。当時の金額で総工費は53万円。うち明治神宮奉賛会が48万円出資し、東京六大学野球連盟が5万円を工事費として寄附している。この時の明治神宮宮司が一戸兵衛であった。ちなみに、当時の1円の価値は現在の価値で約2800円くらいなので、単純に計算すると、現在の価格で総工費は14億8千4百万円で、明治神宮が13億4千4百万円出したということになる。
'26.10.23(T15) 神宮球場竣工式には皇太子時代の昭和天皇ら皇族の方々も臨席する中で、名誉ある始球式を一戸兵衛がつとめ、初試合として東京と横浜の中等学校代表チームと東京六大学選抜チームの試合が行われた。以降、東京六大学のリーグ戦、1927(S2)からは都市対抗野球大会が始まるなど、アマチュア野球の主要球場として現在に至る。なおプロ野球専門球場である後楽園球場(現在の東京ドーム)が完成したのは、11年後の1937(S12)である。前年にプロ野球こと職業野球が本格的に始まったが、東京六大学の反発で神宮球場が使用できず、押川清(17-1-45)らが後楽園球場を建設している。
戦後、プロ野球ブームもあり、学生野球界の反発もありながらも、1962から二年間、東映フライヤーズ、1964からは国鉄スワローズ、現在の東京ヤクルトスワローズの本拠地として神宮球場は使用されている。
第447回 日清日露で活躍した軍人 神宮球場をつくる 一戸兵衛 お墓ツアー
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