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いば ていごう

伊庭貞剛

いば ていごう

1847.2.19(弘化4.1.5)〜 1926.10.23(大正15)

明治期の実業家(住友)、政治家

埋葬場所: 25区 1種 2側

 近江国西宿村(滋賀県近江八幡市)出身。伊庭家は佐々木源氏の支流。伯太藩近江湖東領の代官、伊庭貞隆・田鶴(たづ)の長男。 幼名は耕之助。号は幽翁。住友財閥の総帥として活躍した広瀬宰平の甥。広瀬宰平は母の田鶴の実弟。
 1863(文久3)幼少の頃より児島一郎道場で剣道を学び、また京都の勤王の志士の西川吉輔に入門・師事し国学・尊皇思想を学んだ。 1868(慶応4)西川の求めに応じ京都御所禁衛隊に属し、1869(M2)司法権中検事、函館裁判所副所長、大阪上等裁判所判事などを歴任するも、明治維新期の自由闊達な気風は消え、信念を曲げて媚び諂う官界に失望し、1879依願免官。 故郷に帰り村長にでもなろうと挨拶に叔父で住友家筆頭番頭の広瀬宰平を訪れたところ熱心に勧誘され、1879.2.4住友に入社。 月給は40円(裁判官時の半分以下)であったが、「公利公益」を旨とする住友の事業精神に惚れ込んで決意したとされる。
 大阪本店支配人となり、広瀬宰平の片腕として財界活動などで活躍。1881重役に列し、1882三軒家紡績重役、1887石山に隠棲の地を購入。 1888府立大阪商船学校校長、1889市立大阪商業学校(大阪市大)校長となる。また、1890第1回総選挙に滋賀県第3区から立候補し当選、初の衆議院議員となった。
 1893新居浜では製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、ついには農民暴動へと発展した。 広瀬宰平の進退問題とも絡んで、愛媛県の別子銅山の騒動は暗雲を呈していた。そこで、翌年7月4日より紛争解決のため、鉱業所支配人として別子へ単身赴任。 別子の内憂外患の原因が、重役と職員、職員と稼ぎ人同士、はては会社と農民の意思の疎通を欠いた人心の荒廃にあると看破し、貞剛は赴任後毎日銅山へ登ったり降りたりしてコミュニケーションを取り、対話の必要性を説いた。 この姿勢に感化され、別子騒動は軟化したという。また、荒廃した別子の山々を自然にかえさねばならないとして、山林保護の方針を立てた。 更に亜硫酸ガス発生の原因となる別子山中での焼鉱や製錬を止め、影響の最も少ない無人島であった四阪島に製錬所を移転させた。 加えて、鉱毒水を国領川水系に流さないよう、海抜750メートルの第三通洞から新居浜の海岸まで、全長16キロに及ぶ煉瓦製の坑水路を築造し、鉱毒を中和処理する収銅所を設けている。 なお、広瀬宰平は伊庭が別子に赴任した年に、一連の公害問題による住民の騒動や、これに対して、社内の大島供清らによる広瀬の排斥運動の住友の内紛の責任を取る形で引退した。
 1895尾道で住友家最初の重役会を開き、住友銀行の創立を議決。1896住友家理事兼別子鉱業所支配人、1897総理事心得。 1899別子の支配人を鈴木馬左也に譲り、本店に帰任して、1900(M33)第2代 総理事に就任した。 住友銀行創設の他、住友伸銅場(金属・電工・軽金属各社の前身)、別子鉱山山林課・土木課(林業・建設の前身)、住友倉庫の設立など主要な住友系企業の基礎を築いた。 その他、大阪紡績、大阪商船の創立にもかかわり、大阪商業会議所議員となるなど、住友家を代表して大阪財界でも活躍した。 1904四阪島製錬所が翌年より操業を開始できることを確認し、その職を鈴木馬左也に譲って58歳の若さで引退。滋賀県大津市石山に隠棲した。 なお、四阪島製錬所の煙害は予想に反して周辺部に拡大し、大きな社会問題を引きを越す。亜硫酸ガスの中和脱硫に成功し煙害問題が解決されるのは、1939(S14)実に34年の歳月を要することになる。
 貞剛は煙害問題の解決に死力を尽くし、植林という自然回復・環境復元にも力を注ぎ、公害への真摯な対応をした人物として知られ、『企業の社会的責任の先駆者』、または『別子銅山中興の祖」』と言われる。 環境問題への取り組み姿勢は、栃木県の足尾銅山の鉱毒問題を糾弾した田中正造も1901帝国議会の演説で賞賛した。享年79歳。 伊庭貞剛を扱った書物は多く刊行されており、神山誠の著「伊庭貞剛」、西川正治郎の著「幽翁」、渡辺一雄の著「住友の大番頭 伊庭貞剛」などがある。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<朝日日本歴史人物事典>
<20世紀日本の経済人など>
<森光俊様より情報提供>


格言
 「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈(ばっこ)である。」
 「言葉は八分でとどめて、後の二分は、むこうで考えさせるがよい。わかる者には言わずともわかるが、わからぬ者には、いくら言ってもわからぬ。」
 「人の仕事のうちで一番大切なことは、後継者を得ることと、その仕事を引き継がせる時期を選ぶことである。」


*多磨霊園の「伊庭家之墓」は伊庭勝彌(1889-1968.5.9)の墓。墓誌に貞剛の名も刻む。戒名は聴松軒幽翁正念居士。

*「貞剛」のヨミを「さだのり」「さだたけ」とする人名事典もある。

*伊庭家の代々墓所は滋賀県近江八幡市西宿町(新幹線と国道8号線との間の田んぼの真ん中の森の中)にあり、伊庭貞剛と梅子の墓も建つ。多磨霊園は分骨であると推察する。

*滋賀県大津市田辺町に住友林業株式会社が所有する「伊庭貞剛記念館」がある。別名「住友活機園」で洋館。国の重要文化財(H14)に指定されている。この建物は引退した伊庭貞剛が没するまで隠棲したところである。

*伊庭貞剛の三男である伊庭琢磨(13-1-5)は特種硝子光機社長を務めた実業家。

*伊庭貞剛の四男である伊庭慎吉は画家・安土村長を務めた。安土村は現在は滋賀県蒲生郡安土町。孫の伊庭澄子(伊庭六郎の五女)は聖心女子学院理事長・聖心会日本管区長を務めた人物。

*同墓所に眠る伊庭貞剛の五男である伊庭勝彌(1889-1968.5.9)は慶應義塾政治科卒業、コロンビア大修学、住友本家支配人、住友総理事を務めた。妻の文子は川田豊吉の長女。二人の養子の伊庭禮治は大丸社長の北沢敬二郎の次男。


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