メイン » » » 江上寿胤
えがみ としたね

江上寿胤

えがみ としたね

1904.1.4(明治37)〜 1971.10.20(昭和47)

昭和期の宗教家(おうかんみち教主)

埋葬場所: 6区 1種 5側 1番

 酒田市出身。本名は江上庚之助。御神号をひょうたんの木甘露台。農家の四男として生まれる。19歳の時に上京。1928(S3)天理教に入信し、翌年、天理教布教師の江上まちに懇望されて同家の養子となる。
 '36名古屋市で山田梅次郎(同墓)が「甘露水授け」を行っているのを聞き、その指導を受ける決心をする。'37.8.19「甘露水」を拝戴し、そのときに梅次郎から「ひょうたんの木」という名を授かる。 同年、梅次郎による天理神之口明場所の結成(おうかんみち教を立教)に参画するが、同教団の治安維持法違反事件、梅次郎の死去、また当時は軍国主義国家化していたため、思想、言論の自由は奪われ、宗教に対する弾圧は厳しく取り締まわれていたこともあり、活動は頓挫する。 しかし、'41.12.15天理教教祖の中山みきが夢枕に立ったのをはじめ、次第に天啓が示されるようになる。
 戦時中は活動が停止していたが、戦後'46.4.18「甘露水授け」を開始し、梅次郎の行っていた秘儀の継承を宣言する。 これを「理の世襲」とよんでいる。こうして天理神之口明場所時代の信者を集め、また天理教の教会に布教をして教団を再建する。 その後も、中山みきやほんみち創始者大西愛治郎が夢に現れたといい、また天啓を神より受け続ける。没後、'59教団での位置づけが教祖から教主へ変更された。

<宗教家人名事典>
<墓所内碑より>


霊廟 墓地

*墓所入口に「宗教法人おうかんみち霊廟」の碑が建ち、入口すぐ右側に山田梅次郎の碑、その奥に江上寿胤の碑が建つ。 墓石は三基並び、真ん中が「根株甘露台」と刻む山田梅次郎の墓、右側が「ひょうたんの木甘露台」と刻む江上寿胤(江上庚之助)の墓、左側は江上家の墓である。

*「おうかんみち」とは、人間が見つけたみちではなく、元親神様が直々にお付けになった名称。 道に例えると、大勢の人々が共に歩める広く大きな道を現し、全人類が心勇んで歩む道という意味である。 御祭神は、宇宙を支配する元親神様「十天上王神」、人間創造人間魂の産み親神「月日玉神」、人間肉体の産み親神「岐美王神」であり、『三社三棟の親神様』と称している。 この世の形が定まっていない遠い昔に、神が人間を創ったという概念から、神は生みの親であり、全人類は全て神の子供という思想である。 神は生みの親であり、育ての親という考えから、子供である人間の悩みと魂を救うために、教祖の甘露台を通し、天の食物「甘露水」を授けたというのが原点。 この甘露水を頂くと入込社となり、胸内に親神が宿り、心を育ててくれるというのが特色となっている。

*「天啓」とは天の神が真理を人間に示すこと。天の啓示。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。