近江坂田郡長浜宮町(滋賀県長浜市神戸町)出身。薬種問屋商の若森彦右衛門の3男として生まれる。幼名は得御寅吉。数え12歳の時に親戚で京で呉服商を営む土田家に奉公に出、帰郷後、播州明石の伊藤家に養子として入るが半年で破断となり、1860(万延1.12)長浜でちりめん(縮緬)製造を生業とする浅見又之助の養子となった。最初は養父同様に浅見又之助と名乗ったが、又蔵と改名した。
1861(文久1.5)長浜町町役人に就任〔〜1871(M4)〕。長浜町内で貯蓄米を募る。1866(慶應2)長浜町総代役に就任。1868(M1.5)長浜八幡神社氏子総代。1871(M4.4)長浜56個町・坂田郡第16区長に任命された。この時期は廃藩置県で彦根藩がなくなり、ちりめん製造元は、藩からの融資や流通機構の保護を失い、株仲間も解散したことより、自由にちりめんを生産できるようになった。また、東京在住の彦根藩士のための移住地開地、湖上運送業務への参入、戸籍編纂に従事などを行った。1872.11長浜大火に際し、長浜町貯蓄米を放出し被災者支援を行った。
1873.4 坂田郡第16、第17区長就任。1876(M9)地租改正作業に従事した。滋賀県の命で警務取締を兼務した。同年、米国フィラデルフィアで開催された万国博覧会に浜ちりめん(浜縮麺)を出品し、高評価を得たため、柴田源七らと浜ちりめんを米国のニューヨークにまで輸出するまでとなった。その他に、滋賀県で一番最初に開設された滋賀県第一(開知)小学校(長浜市立長浜小学校)開校へ尽力した。現在でも前庭に胸像が建立されている。ここの卒業生に政治家となった村上義一(22-1-22)がいる。
1877.4 国立銀行設立願書を大蔵省に提出し、第二十一国立銀行として認可を得る。同.10区長を辞任。同.12 第二十一銀行を開業し取締役に就任した。1879東京起立工業会社と契約を結び、浜ちりめんの輸出を開始する。1880汽船会社乱立に対して、長浜を中心とする各社で三汀社を設立し統合を呼び掛ける。1881第二十一銀行頭取に就任(〜1886)。同年、滋賀県議会議員選挙にて坂田郡より当選したが就任を辞す。この時期に東京で行われた内国勧業博覧会に黒ちりめんを出品し、有功褒状を得る。1882.5藤谷組・江州丸会社・三汀汽船が統合し太湖汽船を設立。同.11長浜港改修工事竣工。1883大阪聯合共進会へちりめん出品し3等を得る。1884.2坂田郡聯合勧業委員及び勧業諮問会員を命じられ、1年間務める。同.5 長浜まで鉄道を開通し長浜港の業務を開始する。滋賀県議会議員選挙にて坂田郡より当選。同.8 第64国立銀行再建を相談される。第二回内国絵画共進会に古書を出品。
1885.1 第64銀行再建策について大蔵省認可を得る。太湖汽船社長就任。1886.1 第64国立銀行頭取就任(第二十一銀行頭取は任期退任)。滋賀県議会議員選挙にて坂田郡より当選。同.5 滋賀県商業学校設立に際し商議員を県より委嘱。1887滋賀県尚武義会名誉会員に任じられる。同年、坂田郡等での税調査委員選挙人に当選した。1888勧業諮問会員となり、1889長浜町会議員に当選。1891長浜町農産工芸品評会にちりめんを出品し、2等を得る。同.11滋賀県臨時博覧会委員。1894滋賀県臨時博覧会より近江縮緬業部監督。1895第4回内国勧業博覧会鎮西出品協会より同会名誉会員、日本赤十字社滋賀支部幹事、1896日本赤十字社滋賀支部会計監事を歴任した。1897滋賀県農工銀行設立に際し農工銀行設立委員に任じられる。1898長浜町長に当選した。
この間、1886博愛社に対して度々行った寄付に対し博愛病院開院式典において皇后陛下より特別に言葉を賜った。1887.2.21(M20)明治天皇・昭憲皇太后は京都から上京の途中、大津より汽船で長浜港に上陸、長浜で休息を取るということを知り、私財を投じて迎賓館を建てた。 後、明治天皇の行幸25周年を記念して、2代目浅見又蔵(同墓・墓所建立者 S28没)が1912(M45)に明治期京都を中心に活躍した近代造園の先覚者小川治兵衛の手を借り、庭園を整備した。この建物と庭園を伊藤博文の命名により「慶雲館」と呼ばれるようになった。1936(S11)慶雲館は浅見家から長浜町に寄付され、現在でも各種の会合や催場に利用されている。1952(S27)から慶雲館で長浜盆梅展が1月10日〜3月10日と今でも開催されている。
*墓石は大きな自然石に「浅見家之墓」。字は「永平六十八慧昭翁」と刻む。永平寺68世で曹洞宗管長を務めた秦慧昭禅師である。墓石の裏面が墓誌となっている。戒名は顕明院釋宗景。妻は静。墓石は昭和八年十月に始工し昭和十一年四月竣工、建碑者は浅見勇。
*墓所内には五輪塔や灯篭など様々なものが建ち、入口近くに「不許葷酒人寺門」と刻む石柱が建つ。
*没後、1902 町原亮が『浅見又蔵伝』を著した。
*浅見又蔵の妻は静。子は2代目浅見又蔵(号は慶雲)。2代目の妻は波。墓誌は浅見勇(S26没 44才)以降は、井原力、井原洋子、井原朝子(H22没 87才)と刻む。井原朝子(いはら ともこ)の子には、三井製糖社長を務めた井原芳隆がいる。