東京出身。父は台湾糖務局官僚などで活躍した浅田知定・志保(共に同墓)の長男として生まれる。
1920(T9)東京帝国大学法学部卒業。外務省に入省。'23フランス官補となる。以後、様々な要職を歴任、外務省通商局書記官などを務めた。
'36(S11)エチオピアがイタリアとの第二次エチオピア戦争に敗れ首都が陥落しそうな時に、日本とは通商条約も結ばれてあり特に大阪としては間接ながら綿布、雑貨など数百万円の取引を持つお得意先であるため、エチオピアの今後を話し合うために、浅田俊介が代理公使として任命された。
アヘン戦争後の中国で麻薬が大流行していた時に三井物産がアヘン(阿片)を中国に売りつけ大儲けする事を考え、イラン産アヘンの密輸取引を行おうとするも、三菱商事も同じことを考えており激しい争奪戦が展開された。
それらを解決するために、'37駐イラン代理公使となる。浅田俊介の立ち会いのもと協議が行われ、「向こう1年間は三菱の独占を認め、それ以後については改めて協議する」という協定を結んで解決させた。
しかし、1年後、三井物産は期日以後の自由競争を主張し、三菱は引き続き独占することを主張と再びドロ沼の争奪戦になってしまった。
その後も外務省の要職を務め、トルコ参事官を最後に退官した。享年68歳。