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ありた よしすけ

有田義資

ありた よしすけ

1853(嘉永6.12.25)〜 1940.8.12(昭和15)

明治・大正期の内務官僚、県知事

埋葬場所: 10区 1種 2側

 三重県士族の有田伝蔵の長男として生まれる。1857(安政4)家督を相続した。弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加した。
 1875.1(M8)内務省十五等に出仕し地理寮雇となる。1876栃木県師範学校副監事、1977栃木県八等警部を経て、警視庁に勤務し、続いて島根県警部、福島県警部、青森県属の庶務課長、青森県警務長、埼玉県警務長、福岡県警務長、警視庁警視、島根県書記官、大分県書記官、岡山県書記官を歴任した。
 1900(M33)第8代徳島県知事に就任(1900.4.27〜同.10.25)、同年に第16代福島県知事に就任(1900.10.25〜1906.7.28)した。福島県知事の在位期間6年7ヵ月は戦前知事のレコード記録である。'06.4.1旭日中綬章。1906第15代群馬県知事に就任(1906.7.28〜1907.11.6)。'06.10.5高崎市会議長の岡田謹吾が遊郭設置の儀に付具申請を提出したが採り上げることはなかった。
 1908第14代三重県知事に就任(1908.12.28〜1911.9.4)。四日市の築港に尽力し、三重県斯民会長も務めた。退官後、1916.2.9(T5)錦鶏間祗候となり、同.10.14第4代津市長に就任した。正4位 勲3等瑞宝章。

<日本歴代知事総覧など>


墓所

*墓は丸みの蔵状に「有田家墓」。右側に墓誌がある。妻は満壽。

*5女の綠子(路久)は海軍中将の松村菊勇に嫁ぐ。右隣の墓所は「松村家」の墓所である。6女のあき子は波多野貞夫海軍中将に嫁ぎ、7女の千代子は内務官僚・各県知事、政治家の中野邦一に嫁いだ。


※生年月日を『日本歴代知事総覧』より「1853(嘉永6.12.25)」としたが、他の人名辞典では「1854.1.24(嘉永6.12.26)」と記されているのもある。また、墓誌に刻む没年月日は同じであるが、享年92歳と刻まれており生年が合わない。

※出身地を「佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。」と記すものも多いが、『日本歴代知事総覧』や『歴代津市長略歴』には「三重県士族の有田伝蔵の長男として生まれる。」とあるので、そちらを優先した。


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