山口県大島郡久賀町(周防大島町)出身。医者の青木周哲(同墓)の三男として生まれ、青木五百輔(いおすけ)の養子となりました。
1902(M35)東京帝国大学英法科卒業。逓信省、鉄道院、'17(T6)鉄道院理事、筑豊鉄道取締役を経て、'21(T10)横浜市が市内電車事業を市営化するために新設された横浜市電気局(S21以降は交通局)の初代局長に就任。
'23.4〜'24.6渡辺勝三郎横浜市長の高級助役(市助役)となる。'23.9.1助役時代に関東大震災に遭遇。横浜市の大部分が壊滅し、多数の死者も生じ大混乱に見舞われた。この震災で青木も愛児二名を失った。この時、たまたま渡辺市長は箱根に旅行中であり、汽車が不通のため、帰浜が23日遅れた。この市長不在の中、青木が一切の私事も顧みず、寝食を忘れて市政を掌り、懸命になって大奮闘を続け、震災復旧に尽力した。その後、鉄道省経理局長に転じ、鉄道次官を経て、'26貴族院議員となる。'29(S4)鉄道次官を再任した。江木翼鉄道大臣の次官重任時代は、「『江木の次官、青木の大臣』とまで省内で謂われたほどであった。
'35 復興記念横浜大博覧会を機に観光事業に本格的に着手し、翌年、土地観光課を新設した。それまでの緊縮政策を転換し、貿易振興と工業立市の積極政策を打ち出す。また鉄道次官の経歴を生かし、当時未だ桜木町止まりであった鉄道路線を磯子の滝頭方面まで延長し、根岸湾を埋め立てて、1940年に開催予定である「紀元2600年記念日本万国博覧会」の第二会場や、同じく開催予定である東京オリンピックの競技場を招致し、この付近を一大行楽地として開発。さらに付近の高台に郊外住宅地を建設するという、商業地・工業地・住宅地のバランスの取れた都市創りを目指した。これらの構想を「第六次市域拡張」といい、「大横浜」の形成を行なうとともに、経済復興と交通網の完備に尽力した。そして、'37 桜木町から北鎌倉までの鉄道路線延長の許可を得る。
しかし、その後、日本は戦争の色が濃くなり、1940年開催予定であった万国博覧会や東京オリンピックは中止となり、戦争に突き進むこととなったため、青木が構想した都市開発は頓挫してしまった。ただ、これら都市開発構想は戦後引き継がれ、青木が発案してから約四半世紀のズレはあったが、1964.5.19(S39) 東京オリンピック開催の半年前、桜木町駅から磯子駅 間(7.5キロ)が延伸開業し、この時、根岸線という名称になっている。その後も延伸させ、'73 大船駅まで全通した。
青木周三が横浜市長時代の逸話をもうひとつ紹介する。実は青木は密かに、横浜と川崎を合併させようと動いていた。さすがにこれは神奈川県当局の県財政への影響を考慮し反対され立ち消えている。'40.11.24 二期目半ばにして、病気のため横浜市長を辞職。勲2等瑞宝章。享年72歳。
<横浜市史第5巻下> <横浜市史2第1巻上・下> <神奈川県名鑑など>
*墓石は和型「青木家之墓」。裏面「昭和四年 青木周三 建之」と刻む。左側に墓誌が建つ。
*墓誌は父の青木周哲から刻みが始まり、母の百合子、長兄の周一も刻む。養父の青木五百輔の刻みは見当たらない。なお墓誌より、関東大震災で失くした愛児二人は、三男の周三郎、四女の壽子であり、この時に亡くなった女中の石井ステ子も墓誌に刻む。他に、長男の周吉、次男の周次郎、四女の壽三子も刻む。妻の於尼猪の父は教材教具販売の日学創業者の吉田富雄。二女の峰子は鉄道官僚・政治家の天坊裕彦に嫁いだ。その子で周三の孫は出光興産株式会社社長、石油連盟会長、武蔵野美術大学理事長などを歴任した天坊昭彦。
*子の青木周吉(1907〜1976.7.1) は1934(S9)日本興業銀行入行、'66東洋曹達工業副社長、'68社長となった。享年69歳。同墓に眠る。
第241回 根岸線 大横浜構想ぶち上げ 第12代横浜市長 青木周三 お墓ツアー 桜木町駅から先の路線計画発案者
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