山梨県出身。大日本電力や京王電気軌道の社長を務めた穴水熊雄、ゆき(共に同墓)の二男として生まれる。兄の穴水勝彦(同墓)は数多くの会社重役を務めた実業家。
1935(S10)慶応大学経済学部卒業。北海道配電監事や八王子瓦斯監査役、愛国化学工業監査役を務める。'44.5.31 陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることになり、父が社長を務めていた京王電気軌道が東京急行電鉄に吸収合併された。東京急行電鉄社長の五島慶太は父の熊雄に取締役への就任を要請したが、父は固辞して一線から引退したため、清彦が東京急行電鉄取締役に就任した。
'45.6.1 終戦間近の時期に、東京急行電鉄に鉄道業の営業を委託する形で相模管理部が東京急行電鉄から経営を委託し神中線(厚木線:相模鉄道)を運営することになり、相模原管理部長及び東急常務取締役に就任。戦後、'46.5.31 契約期間満了となったが経営難のため1年延長され、同.8.1 相模管理部は従来の部制を支社制に改める大幅な組織改正を行う。これに伴い、相模支社と名称を変更。支社長に清彦が留任した。
戦後復興で砂利運搬など需要が高まり車両も6倍に増えた。'47.5.31 委託経営の目的がほぼ達成されたため契約解除し、鉄道業は東急運輸部として復帰。相模原支社長であった清彦は、東急専務取締役に就任した。同.6 大東急と称されていた東京急行電鉄は戦後、経営の民主化を図るということから、13の関連会社の持ち株をそれぞれの会社の役職員に譲渡。相模鉄道の株の大半は川又貞次郎社長を中心とする首脳部が取得し、自主経営路線へと移行した。同.7 独占禁止法、同.12 過度経済力集中排除法は施行され、役員の兼任が規制される。これにより臨時株主総会で人事を刷新して増資を行い車両工事の改修、新駅設置、変電所の建設など鉄道部門の設備強化が始まった。そして、'48.6.1 東急から小田急、京急、京王、相鉄などがそれぞれ分離独立した。
清彦は東急の役員を務めていた。'59 相模鉄道の社長の川又貞次郎が亡くなり、鳥居菊造が社長に就任した。高度経済成長期において相模鉄道は横浜駅西口の計画的な開発事業の展開など増資を行うなど活発の中、東急から清彦を呼び、'62 相模鉄道副社長に就任。
'65.11.29(S40)鳥居は会長に退き、清彦が相模鉄道社長に就任した。区間の複線化の実現を達成させ、新たなサービス急行として「おかいもの電車」を採用。運行は1日に上下各1本で海老名駅から横浜駅間を朝と夕方で二俣川駅から横浜駅は無停車で走らせた(現在の急行スタイルの始まり)。その他、通勤ラッシュ時における混雑を緩和させるために新造車の増備計画、駅舎の整備や新設と諸設備の増強、変電所設備の増強、保安設備の強化などを行った。相模鉄道の中興の祖と称される。
'76 相模原鉄道社長を退き、会長に就任。同年、第19代 横浜商工会議所会頭(〜'79)を歴任した。在任中に逝去。享年67歳。
<大衆人事禄 東京篇> <相鉄グループ「第2章復興への情熱」「第3章積極経営の転科」>
*墓石は和型「穴水家之墓」、裏面「昭和十三年九月 穴水熊雄 建之」。右側に墓誌と、左側に「遷墓の記」と題した穴水熊雄の略歴等が刻む碑が建つ。墓誌より熊雄の養母の くに、熊雄の三人の妻、ゆき、博、鶴野。清彦の実母は ゆき(T5.1.1歿・行年38:慈光院由基妙順大姉)。熊雄の長男の勝彦、二男の清彦、三男の和雄ら嫁いだ者以外の子息とその妻らが刻む。清彦の戒名は禅思院殿清岸覺浄大居士。清彦の妻の智子(H26.11.27歿・行年96)は鈴木要蔵の二女。長男は早死(S19.2.27歿・当才)。長女の恵子は政治家の中野武雄の二男の中野了に嫁ぐ。中野了はジュジュ化粧品社長。二女の愛子は日本郵船の佐竹常夫に嫁ぐ。三女は恭子。「遷墓の記」には、1938(S18)穴水熊雄が山梨県八田村の廣照寺から多磨霊園に改葬した旨が刻む。
第211回 父は京王線 子は相鉄線 多磨霊園駅命名者 穴水熊雄 穴水清彦 お墓ツアー
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