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あめのみや じろう

雨宮治郎

あめのみや じろう

1889.5.17(明治22)〜1970.5.13(昭和45)

大正・昭和期の彫塑家

埋葬場所: 16区 1種 8側

 茨城県水戸市出身。父・克、母・いさ(共に同墓)の長男。1920(T9)東京美術学校彫刻科卒業。在学中、'18第12回文展で『落花』が初入選。'23東京美術学校の研究科卒業。'24関東大震災復興美術展で妙技賞。
 帝展、文展、日展に出品し、第5回帝展で『火星』が特選、'29(S4)第11回帝展、'30第12回帝展に『無人の境を行く』『鎗投』が連続して特選となる。'31審査員に推される。
 '50日展の審査員を務めた。日展では運営会参事も務める。'51〜'56東京学芸大学教授。'57第12回日展の『健人』で日本芸術院賞。'58日展評議員、'62日本彫塑会委員長。 '64日本芸術院会員、日展理事、'65日本彫塑会会長になった。'66勲3等瑞宝章受章。'69日展顧問。
 堅実な写実的作風による男性像を主とし、『槍投』(東京国立競技場)、『黒田清隆像』(札幌市大通公園)などモニュマンも多い。享年80歳。没後、妻の日出子(同墓)が茨城県近代美術館に作品を寄贈した。

<日本人名大事典(現代)>
<講談社日本人名大辞典>


墓所 像
句碑「雪作塑像 並びおく座 福寿草」 「雨宮治郎君を悼む」 句碑「梅が香に さそわれ帰る 墓詣で」

*墓石前面は「雨宮家」、裏面「昭和四十三年十一月 雨宮治郎 建之」と刻む。墓石後ろに壁碑がある。右、治郎の句碑「梅が香に さそわれ帰る 墓詣で」。 真ん中は北村西望による追悼碑で「雨宮治郎君を悼む」をタイトルとし闘病十年から難病を克服したこと、君は明治二十二年水戸で生まれ彫塑家としてと文章が刻む。最後は「昭和四十五年五月 西望」とある。左、治郎の妻の日出子の句碑「雪作塑像 並びおく座 福寿草」。

*墓石左手側に墓誌が建つ。墓誌には「正五位 勲三等 日本芸術院会員」と刻む。墓誌は治郎の父の雨宮克(M43歿)から刻みが始まり、母の いさ(S18歿)、甥の正文(S21歿)、治郎、日出子(H4歿)、治郎の弟の三郎(S52歿)、三郎の妻の八恵子(H16歿)、治郎の子の淳、淳の妻の税子が刻む。雨宮敬子の刻みはない。

*墓所入口に像が建つ。像の台座「慈母」と刻み、像の後ろには「1924 J.Amenomiya」と刻む。この慈母像は、1924毎日新聞社主催「関東大震災復興美術展」妙技賞受賞作で、後に彫刻の森美術館に収蔵された作品と同一現形態であり、多磨霊園に墓所が建之された時(1968)に一緒に設置された。


雨宮敬子 あめのみや けいこ
1931.2.3(昭和6)〜 2019.7.31(令和1)
昭和・平成期の彫塑家
 東京出身。父は彫塑家の雨宮治郎・日出子の娘。弟に雨宮淳がいる。日本大学卒業。
 1956(S41)第12回日展に初入選(以後、連続入選)。'58第1回新日展『薫風に望む』特選(以後1回)。'69総合美術展「湖」参加。'72第26回新樹会展招待出品(〜'77)。 '78日展の年評議員となる。'80第1回現代女流美術展出品(以後連続出品)。'82第10回長野市野外彫刻賞受賞、'83第14回中原悌二郎賞優秀賞受賞、'85第17回日展「道」内閣総理大臣賞受賞。 '90(H2)『想秋』で芸術院賞。'94日本芸術院会員。堅実な写実による女性像を連作し、個展も多く開催している。社団法人日展常務理事。 2017.4 旭日中綬章受章。2017.11 文化功労者。心不全のため逝去。享年88歳。従4位追贈。

<大日本人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>


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