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あめのみや あつし

雨宮 淳

あめのみや あつし

1937.4.18(昭和12)〜 2010.2.8(平成22)

昭和・平成期の彫塑家

埋葬場所: 16区 1種 8側

 東京出身。父は彫塑家の雨宮治郎、日出子(共に同墓)の子として生まれる。彫塑家の雨宮敬子は姉。
 1961(S36)日本大学芸術学部卒業。在学中は映画を学んだが、卒業後に彫刻家を志し、加藤顕清に彫刻理論を学び、父にも指導を受けた。彫刻家の北村西望にも師事。'63 日展に『首(B)』で初入選し、日彫展でも初入選した。'64 日彫展で奨励賞を受賞し、日本彫塑会会員となる。'65 日彫展で努力賞を受賞。'66 第9回新日展に男性裸体立像『望』を出品して特選となる。'67 第10回新日展に男性裸体立像『未来を背負う人間像』を出品して二年連続の特選となった。
 初期作品はもっぱら男性像をモチーフとしていたが、'72から裸婦像を中心に制作するようになり、以後、裸婦作家として知られるようになる。'74 社団法人日展会員となる。
 '83 東京野外現代彫刻展で大衆賞受賞。'84 第14回日彫展に『独』を出品し第5回西望賞受賞。'91(H3)第23回日展に右足を踏み出す等身大の裸婦立像を評した『暁雲』が内閣総理大臣賞受賞。'97 第28回日展に直立してうつむく等身大の裸婦立像を表した『韻』を出品し、この作品が第53回日本芸術院賞を受賞した。父の治郎、姉の敬子に次いでの受賞となった。さらに、2001 父の治郎(1964)、姉の敬子(1994)に続き親子姉弟での芸術院会員となった。他に、'85〜2003まで宝仙学園短期大学教授として後進の指導にあたる。2002〜2005まで日本彫刻会理事長を務めた。
 初期から一貫してブロンズによる人物裸体像を主に制作し、対象の写実に基づきつつも、西洋の理想化された身体像に学んだ端正な作風を示した。コントラポストなど古典的なポーズを好み、男性像においては力強い、女性像においては静的な身振りによって抽象的な概念を表現した。遺作は第42回日展に出品した『聡慧』(2010)。心不全のため東京都文京区の病院にて逝去。享年72歳。従4位 旭日中綬章追贈。

<『日本美術年鑑』平成23年版>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所 像
句碑「雪作塑像 並びおく座 福寿草」 「雨宮治郎君を悼む」 句碑「梅が香に さそわれ帰る 墓詣で」

*墓石前面は「雨宮家」、裏面「昭和四十三年十一月 雨宮治郎 建之」と刻む。墓石後ろに壁碑がある。右、治郎の句碑「梅が香に さそわれ帰る 墓詣で」。 真ん中は北村西望による追悼碑で「雨宮治郎君を悼む」をタイトルとし、闘病十年から難病を克服したこと、君は明治二十二年水戸で生まれ彫塑家としてと文章が刻む。最後は「昭和四十五年五月 西望」とある。左、治郎の妻の日出子の句碑「雪作塑像 並びおく座 福寿草」。

*墓石左手側に墓誌が建つ。墓誌には「正五位 勲三等 日本芸術院会員」と刻む。墓誌は治郎の父の雨宮克(M43歿)から刻みが始まり、母の いさ(S18歿)、甥の正文(S21歿)、治郎、日出子(H4歿)、治郎の弟の三郎(S52歿)、三郎の妻の八恵子(H16歿)、治郎の子の淳、淳の妻の税子が刻む。雨宮敬子の刻みはない。

*墓所入口に像が建つ。像の台座「慈母」と刻み、像の後ろには「1924 J.Amenomiya」と刻む。この慈母像は、1924毎日新聞社主催「関東大震災復興美術展」妙技賞受賞作で、後に彫刻の森美術館に収蔵された作品と同一現形態であり、多磨霊園に墓所が建之された時(1968)に一緒に設置された。


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