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あまの きのすけ

天野喜之助

あまの きのすけ

?〜 1935(昭和10)

明治・大正・昭和期の交通行政法学者、
外交官、逓信省官僚

埋葬場所: 3区 1種 3側

 江戸麻布桜田の唐津藩主小笠原邸で、唐津藩医の天野松庵・鏡子(1-1-4)の次男として生まれる。経済学者の天野為之(9-1-9-1 / 1-1-4)は兄。明治維新の前後に父が病死し、母と兄の為之との3人で唐津(佐賀県)に帰郷して同地で少年期を過ごす。
 1890.7.15(M23)東京帝国大学法科大学卒業し、逓信省郵務局に入省。1921(T10)退官。東京専門学(早稲田大学)政治科において交通行政法を教授した。後に外交官となり、オーストリア公使、朝鮮全羅北道群山府の府尹を務めた。


墓所

*墓所正面に「天野家之墓」。裏面が墓誌となっており、天野喜之助、妻のクラ、長男の一郎、次男も一郎、三男は善吉の名前と没年月日が刻む。子供は全員早死。墓所左側に和型「高崎家之墓」も建つ。右面が墓誌となる。


※「高崎家之墓」の墓誌から推測し、明治天皇の侍医の池田謙斎(日本最初の医学博士・男爵)の3女の高崎斐子(あやこ 1893-1995.4.14 享年102歳)、その夫の高崎康忠(-1923)、長男の高崎富士彦(1917-1994 日本仏教絵画史家)ではなかろうかと名前からの推測で考える。しかし、天野家墓域の高崎家であることから単純に推測し、高崎斐子が天野喜之助の娘であると考える方が自然かもしれない。現在調査中であるが、事実をご存知の方がいらっしゃいましたらご一報ください。


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