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あかぎ まんじろう

赤木萬二郎

あかぎ まんじろう

1867(慶応3)〜 1931.12.26(昭和6)

明治・大正・昭和期の教育者

埋葬場所: 8区 2種 23側 1番

 備中国川上郡成羽村(岡山県高梁市成羽町)出身。号は嵐谷。備中成羽藩士の赤木澄君の次子。1891(M24)高等師範学校文学科を卒業し、福井県尋常師範学校の教諭として着任。訓導を兼ね、小学校教員検定委員などを務めた。 1894舎監も兼職し、かつ高等女学校教諭をも務めた。高等小学校1年生用『福井県史談』を編纂(1894)し発行。同著の教師用は300頁の大著であった。1896福井師範を離れる。帝国教育会会員。
 1902(M35)4月に設置されたばかりの広島高等師範学校に、7月、教授として着任した。人事を含む庶務と会計を担当する庶務課長を務める(当時は課長は教授を充てていた)。評議会の評議員や幹事も務め、広島高師の学校運営に尽力。'16(T5)退職。
 朝鮮に渡り、平壌中学校校長を務める。'21斎藤實(7-1-2-16)朝鮮総督が京城師範学校創立に際し、平壌で教育成果を上げていた赤木を知り、京城師範学校初代学校長(1921-1930)に抜擢され就任した。朝鮮初等教育研究会会長も務めた。正4位 勲3等。享年64歳。

<大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル>


*墓石は和型「正四位 勲三等 赤木萬二郎 / 猶 之墓」、右面「法名 廓然院聖諦不識居士 / 慈光院明鏡慧照大姉」。裏面に赤木萬二郎の略歴が刻む。左面が墓誌となっていたが、「昭和五十六年十二月」(墓誌の左面に刻む)に墓所右側に墓誌が建ち、刻みなおしている。長男は赤木正夫(S51.6.10歿・81才)、正夫の前妻はスマ(S21.4.7歿・49才)、後妻は幸(S42.4.11歿・55才)。正夫の長男は赤木喜男(R1.11.27歿・98才)、喜男の妻は教子(S56.11.6歿・59才)。


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