白河藩第7代藩主となる阿部正外、千代(共に同墓)の長男。幼名は録太郎、長吉郎。従五位下、美作守。
父の正外が兵庫開港要求事件で朝廷・江戸幕府から謹慎処分にされた上、1866(慶応2.6.19)強制隠居処分となったため跡を継ぎ、白河藩第8代藩主(忠秋系阿部家16代)となった。と同日、棚倉藩(福島県)への転封を命じられる。正静は財政逼塞、家臣団を迎える屋敷が手狭など理由をつけて幕府に延期を願い出た。1867(慶応3.1)棚倉藩へ移封し、陸奥国棚倉藩初代藩主となる。1868 戊辰戦争では消極的な立場から奥羽越列藩同盟に参加していたが、同.5.1 白河口の戦いにて列藩同盟軍は新政府軍に敗れ、白河藩では家老の阿部内膳(正煕)が戦死(墓は常宣寺)、同.6.24 父が守備していた棚倉城も板垣退助率いる官軍により陥落した。正静は生き残った藩士らと分領の保原に移動、同.9.18 保原陣屋で降伏した。
同.12 新政府より同盟に参加した罪を問われたが、主導したのは家老の阿部内膳であると釈明することで改易は免れ、4万石削減の6万石となった上、家督を義理の叔父の阿部正功(正耆の実子)を養子として譲り、東京へ強制隠居処分に処せられた。享年28歳。
<藩主人名事典> <幕末維新三百藩総覧> <日本の名門1000家> <人事興信録>
*墓所には5基の墓石が並んで建つ。一番右から和型「阿部家歴代之墓」、裏面「本墓二十二霊 昭和三年九月 従 浅草西福寺改葬」。この墓に阿部正外(戒名は広観院殿得誉知道葆真)、正室の千代(父は長谷川政直)、正外の長男の阿部正静(戒名は大清院殿高誉智峯正静)らが眠る。右から二番目の和型「阿部家之墓」、裏面「本墓四十三霊 昭和三年九月 従 浅草西福寺改葬」、右面「昭和十六年三月」に幾つかの寺から改葬したと刻む(正覺寺など)。右から三番目の和型「正五位子爵阿部正寛之墓」、右面に歿年月日と行年が刻む。右から四番目の和型「子爵阿部正一墓」、右面に歿年月日と行年が刻む。右から五番目(一番左)の和型「阿部家之墓」、裏面「昭和五十二年四月 阿部正友 建之」。墓所左に墓誌が建ち、正寛の妻の要子(1894-1977.1.11)から刻みが始まる。正寛の二男の阿部正友(1916-1988.8.4)、正友の妻の阿部永子(1925-2015.3.29)が刻む。
*阿部正静の正室は通(1870歿:父は須田津次郎)。継室の幸(父は白河藩4代藩主の阿部正備)とは後に離縁。実子は喜久(1866-1887)、信一郎(1868-1871)がいたが早死。正耆の実子で義理の叔父にあたる正功を養子とし家督を継がせた。
*蓮家寺(福島県東白川郡棚倉町)には正静の正室の通の墓が現存する。また同墓は棚倉藩主の庇護を受けてきた寺で、戊辰戦争で敗戦した棚倉藩の戦没者を慰霊した「棚倉藩戦死者慰霊碑」が正静から家督を継いだ正功(正耆の子・正静の義理の叔父)によって建てられた。
※【陸奥白河藩/棚倉藩・子爵 阿部家】は阿部正外の頁へ。
第508回 鎖国を解いた兵庫開港要求事件 陸奥国白河藩 棚倉藩 藩主 阿部正外 阿部正静 お墓ツアー
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