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佐佐木信綱 歌碑

佐佐木信綱 歌碑

碑石所在地: 正門入り口の大森休憩所脇

句:
 天地日月のむた 大き洋の大きいさをは 輝きとほる S14.5


佐佐木信綱 (ささき のぶつな)
1872(明治5)〜 1963(昭和38)
明治・大正・昭和期の歌人、国文学者、号を竹柏園(なぎぞの)
墓所所在地: 佐佐木信綱 谷中霊園 甲 8号 7側
 国学者佐佐木弘綱の長男。1891(M24)父との共著の「日本歌学全集」を完結。 以後東大で教壇に立ち、万葉集の研究、和歌・歌学の史的研究・校訂・評釈・翻訳などに優れた業績を残した。 歌人としては97落合直文・与謝野鉄幹(11-1-10-14)らと新詩会をおこして歌壇の革新をはかり、 98「心の花」を創刊、第一歌集「思草」をはじめ多くの作品がある。1934(S9)学士院会員、37芸術院会員、文化勲章受章。

<コンサイス日本人名事典>


※墓地付属休憩所として多磨霊園内唯一の生花店・大森茶屋(休憩所)が、2021年3月の閉店に伴い更地となり、歌碑も撤去された。歌碑の移設先などは不明。なお「歴史が眠る多磨霊園」は故人を通して歴史を学ぶコンセプトであるため、ページは残します。


【大森茶屋(休憩所)】
 1923.4.20(T12)多磨霊園開園とともに歩んできた霊園内唯一の墓地付属休憩所の大森茶屋(休憩所)が、2021.3.31(R3)98年の歴史に幕を閉じました。
 大正時代当時は石材屋と茶屋は別々のお店を営んでいることが普通でした。当時、東京の外れであり、アクセスもよくなかった多磨墓地は、墓参者からすると遠路はるばる足を運ぶ場でした。そこで、東京市は多磨墓地開設に伴い、墓地利用者のために墓地付属休憩所の用地として敷地を提供することになりました。
 開園に向けて東京市は公報をもって墓地付属休憩所敷地使用希望者の申し込みを募集。敷地面積58坪、56坪の二か所もうけました。大森茶屋以外のもう一か所は、現在のみたま堂付近にありましたが、茶屋・休憩所が建てられた初期は、墓所利用者も少なく立ち寄る人もまばらで、維持していく事は難しく廃業。その後、石材組合事務所などに使用されていましたが、東京都に返還し建物は撤去されました。大森茶屋は長く愛され継続されました。
 なお、東京市はその後、多磨霊園が人気の霊園(東郷平八郎埋葬がきっかけ)となり、墓所を求む人が爆発的に増えました。これに伴い、多磨霊園を囲むほど茶屋を兼ねた石材屋が開業されることになります。これは東京市は予想していなかったと推測します。
 また当時はひも付き返還制度で墓所は公募制ではありませんでした。石材屋が墓所を返還する人や新しく墓所地を求める人の代理ができました。霊園も拡大化に伴い掃除制度もなくなりました。石材屋が茶屋を兼ねることで、お墓の代行、掃除の代行などお茶をしながら墓石関連の相談にも乗れるようになりました。この現代では当たり前の石材屋の在り方は多磨霊園が先駆けです。
 多磨霊園管理事務所管轄の休憩所が新しく新築され、霊園周辺に多くの石材屋もあること、さらに現在は終活や墓じまいのニーズも増え、墓参者も年々減っています。加えて新型コロナウイルスの影響や打撃もあったことでしょう。建物も老朽化。時代とともに無くなっていくものがあることは寂しい限りです。
 大森茶屋で生まれ育ち店長を務めていた高橋和久氏は、現在、2021.4 多磨駅前の生花店「三ツ葉屋」を開店し代表を務めています。

大森茶屋 大森茶屋 現在の更地 大森茶屋 現在の更地

<「多磨霊園」村越知世 など>


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