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直木三十五 追悼碑

直木三十五 追悼碑

碑石所在地: 6区1種2側と8側の角地
建立年月日: 昭和 10年 5月 17日
碑石地面積: 12m2
永代使用料: 300円
墓所所在地: 神奈川県横浜市富岡 長昌寺
建立者  : 菊池 寛 14-1-6-1

直木三十五
1891(明治24)〜 1934(昭和9)
大正・昭和期の小説家
 本名植村宗一。筆名の由来は、本名の植村の植を二分して直木、この時31歳であったので、直木三十一と称した。 以後、三十二、三十三と続き三十四をとばして三十五で止めたという。
 主な略歴は、1919  (T8)青野秀吉らと雑誌「主潮」を創刊、21里見とん・吉井勇・久米正雄らの雑誌「人間」を経営。 23「文芸春秋」創刊と同時にこれに参加、文壇ゴシップを書いて話題を呼んだ。 その後〈仇討もの〉を書いたり映画製作に関係したが、29(S4)「由比根元大殺記」で大衆作家として認められ、29「仇討浄瑠璃坂」、30「踊子行状記」、30〜31「南国太平記」、31「楠木正成」「青春行状記」等を発表、流行作家として活躍し大衆文学の向上に貢献した。 「優れた剣豪の悲壮な斬死にも似たる直木三十五の死」と東京朝日新聞に報じられた。 病名は結核性脳膜炎。横光利一(4-1-39-16)は「氏は苦しみを現わさず、諧謔の裏に生活と人道とを現した」と記し、死の翌年、菊池寛(14-1-6-1)は友情の証として〈直木賞〉を制定した。

<コンサイス日本人名事典>
<文学者掃苔録>


直木三十五追悼碑

直木三十五追悼碑
 この碑は、道路に面していないため、見逃しがちなので注意が必要である。 また、墓所は多磨霊園ではないのでこれもまた注意だ。石碑に刻む字を現代字に書き換えて記す。

「直木三十五の文名は自ら不朽にして金石に刻して後世に伝ふる必要なきを信づ
 ただ知友彼を偲ぶの情此處にこの石碑を建つ
 後人この石碑を過ぎりて思ひを彼の作品に走らすことあらば幸せ」
昭和十年二月二十四日
菊地 寛 撰
菅原虎雄 書


関連リンク:

菊池 寛
大塚英良 氏 監修:「文学者掃苔録



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