エルトゥールル号遭難事件

エルトゥールル号遭難事件とは1890年9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。

木造フリゲート艦・エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。
1889年7月14日、イスタンブルを出港。数々の困難に遭いながらも11ヶ月をかけて翌1890年6月7日にようやく日本に到着した。
横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。
しかし、エルトゥールル号は出港以来蓄積した艦の老朽や、物資、資金不足が限界に達していた。
多くの乗員がコレラに見舞われたため9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけ、たが、遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、その制止を振り切って帰路についた。
このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化が喧伝されてしまうことを恐れたのだと言われる。遭難事件はその帰途に起こった。

9月16日22時ごろに、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせ、灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど献身的に生存者たちの回復に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられ、沖は神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、69名の生存者は一旦東京に送られ、遭難事故の20日後の10月5日に東京の品川湾から出航した日本海軍の「比叡」と「金剛」により、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けられた。
なお2隻には、秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗り組んだ。

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参加艦艇
   フリゲート艦 エルトゥールル号      1/600 スクラッチ
エルトゥールル号はトルコの軍艦で1890年日本に来航し、その帰途の9月16日夜半、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で台風による強風と高波で座礁、遭難し500名以上の犠牲者を出した。
  コルベット艦 比叡      1/700 シールズモデル
明治初期国内の不平士族による内乱の危機や台湾問題による清国との対立などから、海軍力の不足に悩む海軍省が、明治8年に3隻の軍艦をイギリスに発注した。その1隻は、日本海軍最初の戦艦となった小型装甲艦「扶桑」で、残りの2隻が装甲コルベット金剛型一番艦「金剛」と二番艦「比叡」である。

 コルベット艦 金剛        1/700 シールズモデル
イギリス、ハルのアールス社で起工された。設計は後に造船総監となるエドワード・ジェームズ・リードである。1878年、日本に回航され、4月26日に横浜到着。「日清戦争」では、大連・旅順・威海衛攻略作戦等参加 。
「日露戦争」 では鎮海湾・旅順港警備に従事している。