何時かすべてが記憶の底へ沈んでも

 


『お前になら、喰われてもいい』

あの台詞を、ギロロは覚えていない。…はず。

だけど、感じる。

あたしを見つめる、どこか熱を帯びた眼差し。
何か言いたげな態度。

…だけど、その目を見つめてしまったら、
その言葉を聞いてしまったら、

―あたしはきっともう、後戻りはできない。

それが、怖い。

だから、知らないフリをする。
聞かないフリをする。

ただ、あの記憶が日常に薄れる、その日まで。



『お前は一体、俺の何だ?』

何処か遠い記憶の中で、誰かがそう呟いている。


また、あの夢か…。


上半身を起こし、俺は苦く呟く。

この夢を見るようになったのは、きっとあの日から。

俺が牛にされた日。

あの時の事は、記憶にはまったく残っていない。

だが、遠い記憶の中。

『ごめん、ギロロ』

確かに向けられた、謝罪の言葉。

何故、お前が謝る事がある?

真意を質したくて。
あの時、何が起きたのかを聞きたくて。
―それ以上に、お前を今まで以上に求めて、焦がれるこの感情の意味を知りたくて。

…だが、何を訊くと言うのだ?

何も思いつかず、ただお前を見つめる事しか出来ない。
ただ、このもどかしさを胸に抱いたまま、お前にかける言葉を見つける事が出来ずに立ち尽くす。

何時か、この記憶が思い起こされる時。
俺は、お前に何を告げるのだろう…?


「姉ちゃん、伍長と喧嘩でもしたの?」

そんな冬樹の何気ないひとことに、あたしはびくっ、と身体を竦める。

「べ、別に何もないわよ?なんであたしがギロロと喧嘩なんかしなくちゃならないのよ?」

取りつくろうように笑って見せたあたしに、冬樹がその澄んだ藍色の目を向ける。

この弟は、普段は人の感情に疎いはずなのに。
時々、こちらの心を見透かしたような目をすることがある。
……そして、その目をしている時には、どんな嘘やごまかしも通用しない。

「この頃、姉ちゃん、伍長を避けてるよね?
 伍長が何か話しかけたそうにしてるのに、気づかないふりして素通りしてる。―違う?」

ほら、やっぱり。

だけど、知られるわけにはいかない。

「あんたの気のせいじゃないの?」

嘘が通用しないなら、口を閉ざしていればいい。

だから、あたしはそれだけを口にした。

冬樹は、まだ何か言いたそうだったけど、どこか寂しげな表情をしただけで、後は何も言わなかった。

あたしに何を言えって言うの?
あたしに何をしろって言うの?

記憶もない。
記録もない。

覚えているのはただ、あたしだけ。

だから。
なかったことにすればいい。

ただ、それだけのことなの。


「ギロロー。夏美殿と喧嘩でもしたんでありますか?」

嫌な奴に捕まった。

それが正直な思いだった。

「…別に喧嘩などしとらん」

喧嘩どころか、あの日以来、目も合わせてくれはしない。

『行ってきまーす!』
『ただいま、ギロロ!』

そんな、他愛も無い挨拶の声すら、あの日から一度も聞いていない。

『ごめん、ギロロ』

遠い記憶に残る、謝罪の声。
その声が、俺の胸を掻き毟る。

「どうも夏美殿の元気が無いでありますし、最近はギロロのヤキイモも食べてないみたいでありますから、てっきり喧嘩でもしたのかと思っていたでありますが…」

腕を組み、うーん、と首を傾げるケロロに、俺は無性に苛立ちを感じた。

「夏美が元気があろうと無かろうと、俺には関係無い」
「あ、そういうこと言う?」

話を切り上げ、その場を立ち去ろうとするが、奴は逃がしてはくれない。

「…何が言いたい」
「夏美殿がギロロの傍に近寄らなくなったのって、あの牛騒動の日からでしょ?」

…だから、こいつは嫌なんだ。
普段はボンクラでヘラヘラした奴のくせに、突然鋭いところを突いて来る。
しかも、言い逃れを許さない。

「あの時何があったのかなんて、我輩も知らないでありますよ」

そう。
夏美が俺を元に戻すために使ったソーサーには、もちろんカメラがついていたが、それは俺が暴走した時に壊したらしい。
だから、司令室にいたケロロもクルルも、勿論記憶の無い俺も、誰もあの時、何が起きたかなど知らない。
ただ、夏美との連絡が途切れた時、激昂したケロロが夏美を援護するために牛になり、そのまま俺と入れ違いのように迷宮を彷徨う羽目になったのだと、後で聞いた。
そう言えば、ケロロはいざとなると夏美のために身体を張るんだな、と、何処か他人事のように思った事を覚えている。

「けど、夏美殿があんなに元気を無くしてるってことは、ギロロを助けに行った時に、何かがあったんだと思うんでありますよ。それにギロロ、夏美殿に助けられたってのに、まだちゃんとお礼を言ってないっしょ?
 ギロロ伍長、隊長命令であります。今すぐ、夏美殿にお礼を言いに行って来るであります」
「なっ…!そんな事に隊長命令を持ち出すな!」
「返事はどうしたでありますか、ギロロ伍長?」

こう言われれば、悲しいかな身についた軍人気質で、返す返事は一つしか無い。

「…了解」

敬礼と共に返事を返すと、ケロロは自分も敬礼を返し、にやりと笑ってその場を去った。

"Summer"とプレートの掲げられた部屋の前に立つたびに、これから戦場へ赴く時のような―いや、それとは比べ物にならないほどの緊張感に全身が包まれるのを感じる。

こん、こん

扉を叩き、暫し待つ。

「…誰?」
「俺だ」

暫くの間、沈黙が続き、―やがて、溜息と共に声がした。

「いいわよ、入って」


ノックの音を聞いた瞬間、誰が来たのかは判ってた。
それでも、久しぶりに聞く低い声に、身体がこわばるのが判る。

もう、逃げられない。

何故か、そう思った。

部屋の中央まで歩いて来たギロロはそこで立ち止まり、―不意に、あたしに向かって頭を下げた。

「すまん、夏美」
「…な、何が?」

何とか冷静を装おうとしたのに、声が上ずってるのが自分でも判る。

どうして、何でもないように振る舞えないんだろう。
自分の子供っぽさが、嫌になる。

「お前が危険を冒してまで、俺を助けに来てくれたと言うのに、きちんと礼も言っていなかった。本当にすまん」
「…いいのよ、そんなこと」

できるだけ感情を抑えてそう言って、あたしは座っていた勉強机の椅子から立ち上がる。

「用はそれだけ?」

用事が済んだのなら、さっさと出て行ってほしい。

そう思いながら言葉を重ねたあたしの目を、ギロロの漆黒の瞳が捕える。

捕まった…。
そう、思った。

追い詰められた獲物のように、あたしは小さく息を飲む。

「…真実を、知りたい」

…言われて、しまった。

聞きたくなかった、その言葉を。
逸らすことのできない、眼差しにからめ取られたままで。

あたしはふう、と息をついて、何も知らないふりをする。

「何のこと?」
「夏美」

嘘もごまかしも、―沈黙さえも許さない瞳が、あたしを射抜く。
身構えたあたしに、だけどギロロが口にした台詞は、あまりにも意外なものだった。

「何故、謝る?」
「どういう、こと?」

ギロロの言っていることの意味が判らなくて、あたしはただ、目を見開いた。


限界だった。
もうこれ以上、目を逸らしたままでいるわけには、いかなかった。

「何故、お前が謝る事がある?
 牛になって暴走したのは俺だ。しかも、お前に危害を加えようとした。
 なのに、何故お前が謝る?」

ただ茫然と俺を見つめていた夏美が俯く。

「…何を、聞きたいのよ」

その口調には、諦めと戸惑いだけでは無い、何処か複雑なものがない交ぜになっていた。

「あの日、あの場所で何があったのか。
 俺が、お前に何をしたのか。
 聞かせてくれ、夏美」

他にどうする事も出来ずに、
何を求める事も出来ずに、
ただ、縋るように口にした。

一瞬だったのか、それとも一時間だったのか…

長いような、短いような沈黙の末、夏美はふう、と溜息を吐いた。

「あんたが牛になって暴走して、あたしが元に戻しに行って、あんたにソーサーを壊されたりしたけど、何とか元に戻すことができた。それだけよ」

違う。
まだ、語られていない事がある。

「『お前は一体、俺の何だ?』」

呟くように口にすると、夏美は弾かれたように顔を上げた。

「どうして!?」
「判らん。
 だが、俺の中で声が聞こえる。
 『ごめん、ギロロ』という、お前の声と共に」

やはり、夏美は何かを知っている。
俺が知りたい事を、すべて。

「…どうして、あたしになら、『喰われてもいい』の…?」

再び俯いていた夏美が、囁くように話し出す。

「…喰われても、いい?」
「あんたが、…牛になってたあんたが言ったのよ。
 『お前になら、喰われてもいい』って…」
「…俺、が……?」

俺が、―牛になっていた俺が、何故そんな台詞を言ったのかは判らない。
だが、それは紛れも無い真実。

夏美なら、…夏美にならば。
俺は、殺されても、―喰われても、本望だ。
…永遠に夏美の傍に、いられるのなら。

「…ふっ」

思わず、自嘲するような笑みが零れる。

結局、変わる事は無いのだ。

たとえ、この姿が変わろうとも、
たとえ、この記憶が無かろうとも、
…俺は、決して夏美には勝てない。
決して、夏美への想いは捨てられない。

「…そんな、事か……」

目の前に示された真実は、この上無くシンプルで、それでいて重い事実。

「侵略者失格だな、俺は……」

小さく呟いて、俺は顔を上げ、夏美をしっかりと見据えた。

「夏美。本当にすまん。
 ありがとう」

戸惑うように俺を見つめ返す夏美に、俺は僅かに微笑んだ。

「俺は、お前になら、喰われてもいい。
 それは、俺の真実だ」


判らない。
どうしてあんたは、そんなに清々しい顔で、笑えるの?
あたしになら、「喰われてもいい」なんて、言えるの?

もう、本当は判ってるんでしょ。

あたしの中に響く、その声。

判ってる。
判ってるの。

―ただ、認めたくなかっただけ。

…でも。

俯いていた顔を上げて、真っ直ぐにギロロの瞳を見つめ返したあたしは、自然に微笑んでいる自分に気がついた。

「あんたなんて、食べたっておいしくなさそうだから、いらないわよ」
「…言ってくれるな」

苦笑するギロロを見ていたら、あたしは泣きたいような、笑いたいような、―ギロロを思い切り抱き締めたいような、そんな感情が湧き上がった。

だから、思いっきり笑って見せる。

「だからその代わり、ずっとあたしの傍にいなさい!」
「…了解した」

すっ、と、見事な敬礼をするギロロに、見様見真似の敬礼を返して。

それからあたし達は、顔を見合わせて笑った。


姿形が違っても、
姿形が変わっても、
抱く想いが同じなら、
すべてが記憶の底へ沈んだとしても、きっと同じ場所へ辿り着く。

 


みづきさんばなー
最涯の地/海月 様