痛まない傷口にリング


「痛いっ」
 夏美の短い叫び声にギロロの背中が泡立った。そんな大事ではないのはわかっていたのだが、戦士の体は反応してしまう。
 焚き火から離れ夏美に近付く。
「大丈夫か……」
「あぁ〜、またひっかかれた」
 夏美の細い指から血がにじんでいる。
聞くまでもない。ネコにひっかかれたのだ。
夏美とギロロのテントを間借りしている白ネコは仲が悪い。
いや夏美はネコを気に入っているのだが、ネコのほうはどうにも夏美が気に入らないようだ。
 夏美が撫でようとすると必ず爪をたてる。
「お前もいい加減にしろ」
「だってあのふわふわした耳とかシッポとか撫でたいじゃない」
 秋が動物嫌いなため夏美は動物の付き合い方をよく知らない。
「耳やシッポをさわったら怒るのは当たり前だろう」
「えっ?そうなの?」
 意外だというふうに大きな瞳を見開く少女に胸の動悸が激しくなる。
彼女のめまぐるしく色をかえる様々な表情に落ち着いていられなくなる。奥歯を食いしばって顔にださないよう無駄な努力。必死に湧き上がる感情と戦っていたのだが、やはり無駄だった。
「だってさー」
「うがーっ!」
 夏美の細い指がギロロの軍帽の垂れをなでる。
彼女のしなやかな指、近付く頬、いつもよりずっと大きくて澄んだ瞳。
「ギロロは怒らないじゃない」
「俺はネコじゃないっ!」
 あ、やっぱり怒ってる。ちょっと呑気にそう思った。
「たしかに急に耳さわられたらイヤよね。悪いことしてたんだ、謝らなきゃ」
「いい加減あきらめたらどうだ」
 夏美がかまうたびにネコは不機嫌になる。
なぜそう不機嫌になるのかギロロにはわからない。夏美にだってわからない。
「イヤよ、あのネコちゃんをなでなでして抱っこするまであきらめない」
「なんでそんな意地になるんだ」
 かまえばひっかかれるのだ。距離をとればいい。相性の悪い対象とはhit and away。すばやく打って後退する。いやネコと戦う必要はないのだが、それがギロロのやり方だ。
 自分にあったやり方でやればいい。
わざわざ傷つけ合う必要はない。ネコとは距離をとればいい。
「ギロロのテント辺りよねー」
「………」
 夏美はときどきこんなふうに自分の頭で完成した文章を前後の脈絡をすっとばして話すことがある。自分の感情が先走りしてしまうからだ。
「子供の頃ね。よく捨て猫や捨て犬を拾って家の中で冬樹と可愛がってたの。ベッドつくったりご飯あげたり、ミルクあげたり。でもママ、動物嫌いじゃない?だからママが仕事で帰ってきたときにはギロロのテントがあるところにダンボールおいて、ちょっとだけ我慢してねーって言って外にだしてたの。だけど、大概朝になるとどっか行っちゃっててさ、そしてもう2度と戻ってこないの」
 子供の頃ならよくある話。
「それがどうした」
 ギロロの質問に夏美は照れるような悔しいような、少し複雑な表情をしてみせた。
テントを見ながら、昔の自分を思い出している。
「悪いことしたなって………。責任ももてないのに、可愛いってだけで家にいれて、いい気になって世話して。こっちの都合が悪くなったら追い出してるんだもん。ヒドいことしたわよね」
 それも含めて子供ならよくあること。
子供は目の前にうつるすべてで世界が出来ていると信じている。
自分の目の前のネコを助ければ、それだけで世界がよくなっていると信じていられる。
「きっとあの子たち、あたしのこと恨んでるわ」
「そんなことはない」
 夏美の声にかぶさるようにギロロは断言していた。
「生きることは戦うことだ。そしてお前は、そのときのそいつらにひと時とはいえ安らぎの時間と場所を与えた。恨んだりなんかするはずがない」
「………」
 痛む指をさすって見つめる。
この痛みはあの子たちの怒りとか憎しみとか、報いじゃないかと思ってた。
 でもホントはそこまで痛くない。
ふわふわしたものを撫でてやれば治るんじゃないかと思ってた。でもホントはそんなことしなくても治ってる。
 ただの自己満足。
子供の頃から変わっていない。普段はこんなことすっかり忘れていて時々ちくりと後悔してきた。
変わっていくのは、もっとちがうもの。
 忘れて治った気でいるより、勝手なルールで完結するよりももっと上手な治療法。
「指をだせ、処置してやる」
「うん」
 処置なんて言い方はいかにもギロロらしいなとちょっと笑って、夏美は指をさしだした。
 小さな赤い指が器用に指の根元を消毒して包帯も巻く。
「こんな大袈裟にしなくていいわよ」
「ネコのツメは鋭い。雑菌も多いんだ。ちゃんと処置しておかないと危ない」
「処置、ね」
 苦笑いする夏美の横をすりぬける小さな影。
迂闊なことに戦士ギロロもこの気配に気付けなかった。
「うにゃー」
「ぬおっ」
 ギロロの指にも小さな傷。
「なにをするんだっお前は!」
 普段から可愛がってるつもりなのにネコは時として簡単に信頼を裏切る。一仕事終えたようにネコはそそくさと茂みにもぐりこんで姿を消す。
「まったく」
「ほら、ギロロ」
 夏美が手にしているのは消毒液と包帯。
「こんなのは舐めとけば治る」
「危ないって言ったの、あんたでしょ。いいからっ、指なんて自分で巻けないでしょー」
 器用に小さな細い指に巻かれる白い布。
「おそろいね」
 屈託のないその笑顔と指とリボン結びの白い包帯。
それは左手の薬指に巻かれている。もちろん自分のものも、おそろいの場所に。
「ぶほっ!」
「ちょっ、ギロロ!」
 ネコの10回目のイタズラは大成功。そして
「赤ダルマ先輩、その包帯もう黒くなってるですよ、ばっちいですよ」
「うるさいっ」
 夏美に叱られるまでその包帯を外さなかったし、意図が通じていないからネコのイタズラはいつまでも続く。
 夏美には夏美の治療法があるように、ネコにはネコのやり方がある。
「うにょー」



千鳥 様


ネコは正義!ギロ夏も正義!自然とギロロを頼ってたり、お姉さん気質が顔をだすナッチーが好きです

千鳥さんばなー
紙魚/千鳥 様