Call my name 10 times


 梅の季節から桜の時期へと移り変わる日の、柔らかい風が来る。
 微かな蜜の香りと、鼻腔を軽く逆撫でる冷えた空気が程好く交じり合ったそれを、夏美は胸いっぱいに吸い込んでみた。同時に、目の前で行われる焚き火の燻った匂いが、申し訳なさそうに割り込んでくる。
 自分の隣でブロックに腰を据え、真剣な視線を火元に向ける赤い体躯の異星人を、チラ、と横目で見てみる。こちらの眼差しを知ってか知らずか、手に持った串を慣れた動作で踊らせていた。
 こうして並んで焚き火の前に座り、彼の焼く薩摩芋を待つ。
 自分にとって、何より心温まる至福のひととき。
 通常として行われて過ごしている今日、ふと、夏美の裡に妙な悪戯心が湧いて出た。
 いきなり具体化したその気持ちに少々驚きつつも、面白そう、と結論付け、彼女が唐突に口を開く。
 「ねぇ、ギロロ」
 火の中で回す鉄串を休めることなく、彼は夏美に視線を投げる。
 対して彼女から、ほんの少しの懇願を隠し味にした台詞が飛び出した。
 「『ピザ』って10回言ってみて」
 「は?」
 何をいきなり、と言いた気な、物凄く訝しい表情。
 ただでさえ厳しい目元が一層吊り上がり、ギロロの眉間に数本の皺が走る。
 「何故10回も言わねばならん?」
 「いいから、ね?」
 至極当然な問い掛けに対し、彼女の艶っぽい甘美な口調の言葉が被さる。
 そして、一瞬凝固したかに思われたギロロが、ふう、と短い息を吐いてから、半ば諦めたような口調で、言われた通りに単語を連発し始めた。
 「ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、ピザ」
 途端。
 夏美が自分の左肘を指差し、間髪入れずに問う。
 「ここは何て言う?」
 「ひじ、だろう?」
 軽く両眼を開いて、彼は迷うことなく解答する。
 それに僅かの時間だけ動きを止めた彼女が、やがて、はあ、と口惜し気な溜め息をついて身体の力を緩和させた。両肩が前方に傾き、頭を垂れながら再度大きめの呼吸を落とす。
 「・・・引っ掛からないなぁ・・・」
 夏美の唇から零れた言葉に、ギロロが少しの戸惑いを顔に浮かべる。
 しかしすぐさま我を取り戻したような、引き締まった表情を固定させて呟いた。
 「・・・何をやりたいんだ? 一体」
 焚き火に改めて目線を放り投げ、現状を説明してもらおうと思ったのか、彼は重みのある声色で質す。
 それを耳にして、ふっ、と気持ちを浮上させたような微笑みを口許に湛え、夏美が答えた。  「ま、ちょっとした言葉遊びよ。今のはギロロの勝ちね」
 「勝負だったのか? いや、そうとは知らなかった。それらしい遣り取りには思えなかったんでな・・・それに、俺が何をした訳ではないから勝った気がせんが」
 予想だにしていなかった展開に上塗りされた如くの事実に、ギロロは半分納得したような、また半分は合点がいかぬと言いた気な複雑な顔になる。それでも彼からは、特に不満や否定の空気は感じられない。反って、理解が届かず申し訳がない、と思考した雰囲気すら見て取れた。
 それらをすべて包括して自分に言い聞かせた夏美が、次の問いを発する。
 「も1回、やっていいかしら?」
 「何だかよく解らんが、勝負とあらば戦士として退く訳にはいかんな」
 予想通りの反応に、彼女が唇に笑みを浮かべて言葉を続けた。
 「『シカ』って、10回言ってみて」
 ギロロの表情が一旦、キリ、と引き締まる。
 まるで剣を持って対峙しているかのような顔付きだ。
 「シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ」
 「サンタクロースが乗っているのは?」
 「トナカイ、だろう?」
 間を置かず、即答。
 斬り込んできた相手に対し、躱して胴を薙ぐ剣技の如く。
 だが―――更にそれを躱されるとは、彼は思いもしなかっただろう。
 ニコッ、と満面の笑顔を弾けさせ、夏美が昂った声色で言い放つ。
 「ざーんねん! サンタが乗ってるのは『ソリ』よ。トナカイはそれを引っ張ってるんじゃないの?」
 「あ・・・」
 あっけに取られる、とはまさにこのこと。
 快心の一撃を当てるどころか、失敗した挙句に痛恨の反撃を喰らったとも言えよう。
 両眼の瞳が小さくなり、ギロロは暫く茫然とした表情のままで凝り固まって動きを停止させた。
 対して彼女の顔に、してやったり、と代弁している満足気な微笑みが表れている。そしてそれは、彼が次にどのような言葉を返してくるのかを期待して待っている、ほのかに甘く優しい雰囲気を醸し出していた。
 ふっ、と短く息を継ぎ、鉄串を地面に突き刺し、ギロロが表情を融解させる。
 ほぼ同時に、不敵な視線を向けて口の端を上げて言葉を構築する。
 「なるほど・・・やるな、夏美。今のは負けを認めよう」
 「1勝1敗の五分、ってトコね。じゃ、も1回やってみる?」
 「よし、受けて立とう!」
 そう言い放つと、彼は胸を張り、腕組みをして夏美に眼差しを注ぐ。
 彼女がギロロからのそれと、自分のを宙で絡める。
 すると。
 薄く、恐らくは気付かれないほど薄く、夏美の両頬が紅く染まった。
 両の瞳が僅かに潤み、艶やかさを思う存分に纏う。鮮やかな彩が、視線の奥に宿る。
 そのすぐ後、彼女の口から―――問いが零れ落ちた。
 「『夏美』って、10回言ってみて」
 何とも。
 背筋に、ゾク、と慄きが這い上がってくる如くの、囁き。
 ギロロが両眼を見開く。彼女の目からの何かに縛られているような暫しの凝固が解かれてから、ゴク、と生唾を飲み込む。
 焚き火の中で小枝が、パチ、と爆ぜる。
 それが背中を押す合図であったのか、彼は少しだけ視線を伏せて口を開いた。
 「・・・夏美、夏美、夏美、夏美、夏美、夏美、夏美、夏美、夏美、夏美・・・」
 半分瞼を閉じて、彼女は自分の名を呼ぶ声を聞く。
 低音で甘美で、首の後ろの方から脳髄に直接響いてくるかのような、魅惑。
 おのれの裡に潜む何かに、我慢出来ないほどの細かな振動を与えてくる。心の淵から窺える深層部が、それと共に熱い滾りを次々と湧き上がらせている。
 ブルッ、と一度だけ身震いをして、夏美はしっかりとした目線で彼を見た。
 即座に。
 その質問を、曝す。
 「・・・ギロロの好きな人は?」
 「夏美」
 直後。
 ふたりの間の空気が、凍て付いた。
 何が起こったのか、何を言ったのか、誰の名が口を突いたのか。
 双方が判り得るまでに、どれだけの時間を要しただろう。
 パチン、と再び焚き火の中から音が飛び出す。
 それを皮切りに、伏せていたギロロの顔が思い切り跳ね上がり、白色化した両眼を彼女に向ける。わなわなと身体を震わせ左右の掌を振って、顔を夕焼けと見紛うばかりに真っ赤に染め切っていた。
 「ま! 待て! 今のはその! あ、いや、アレだ! 何と言うか!」
 弁明、というより、混乱。
 声が上擦り、自分が先ほど何を言ったか理解しているのかすら怪しい。最早、勝ち負けなど何処かへ吹き飛んでしまったようだ。
 夏美は、茫然としている。眼差しを彼に固定し、ただただ真っ直ぐに見詰めている。
 その時。
 彼女の裡に、光が弾けた。
 視界には、ギロロだけがいる。周りの風景も焚き火の音も、彼の陰になってしまったかのようだ。
 赤面して慌てふためく紅い体躯の異星人が、自分の一番奥深くにある何かと同調する。それが凄まじい連鎖を起こして、あっという間に全身を覆い尽くす温もりへと変貌していく。
 直後。
 夏美が、笑った。
 目を細め、春の陽溜りをも連想させる可愛らしい表情で、笑った。
 歓喜を余すことなく随所に散りばめ、見る者を虜にする至宝の笑顔。
 そして、彼女はそのままの表情で考える。
 もしかしたら今日は焼き芋を失敗するかも知れないな、と。
 そうしたら今度は自分の気持ちをちゃんと伝えて、改めて焼いてもらおうかな、と。
 夏美は小首を軽く傾げて、しどろもどろの状態で未だに自己を取り戻せていないギロロを見詰め、笑みを保ったまま気持ちを反芻し始める。
 あの質問がどういった意図で発せられたのか。
 彼の想い人を知りたかったからなのか、それとも自分の名を言ってほしかったからなのか。
 それは、当の本人でしか判らない。
 今はただ彼女は、誰も介入出来ない雰囲気を堪能し続けているのだった。
 それは。
 夏美がギロロへの想いを自覚してから、10週間目の出来事。



 【 了 】



桁石スミオ 様


遅まきながら推参の桁石です。 「10回クイズ」っつー懐かしいネタを持ってきましたが、皆さん覚えてらっしゃ いますかー。ちなみにコレ、肴様のイラストが大ヒントになって書けたというの は激しく内緒です。ではでは。

スミオさんばなー
skull723/桁石スミオ 様