In the cherry blossom season


「春ね…」

庭先で夏美が呟いた。
弟、冬樹が目を遣れば、洗濯物を取り込んでいる姉の長い髪に、桜の花びらが留まっていた。
風が吹く。春の風は時折、天の悪戯のように荒々しい。
洗濯物を押さえている姉に駆け寄る。
「手伝うよ、姉ちゃん」
「うん、ありがと、冬樹」
そうして姉弟は並んで、一家三人分の洗濯物を干す。
風に煽られ縺れた髪を掬えば、途中でその指が引っ掛かる。
「ああん、もう!長いとすぐこうなっちゃうのよね」
「また昔みたいに結んじゃえばいいのに」
夏美はあははと口を開けて笑った。そして、ふと空を見上げてから独りごちた。

「切っちゃおうかな、髪」




西暦20XX年の春。母、日向秋は相変わらず敏腕編集者として第一線で活躍していた。10年前は中学生だった夏美も冬樹も、今では社会人になっていた。
朝早く慌しい朝食をとり、各自がバラバラに出かけていく。
そして誰かしらがいつも夜は遅くなるので、一人で食事をするのも当たり前になっていた。

いってらっしゃいであります!おかえりなさいであります!

そんな声が玄関先から聞こえなくなって久しい。
居候達が旅立ってから、今年でちょうど10年になる。

ケロン星の同盟種族が大規模な戦争に巻き込まれたので、地球侵略は一旦凍結。ケロロ小隊も全員参戦せよ。
そんな命令が下ったのだと、神妙な面持ちの居候が言った。
「帰っちゃうの?軍曹たち…」
弟の哀しげな声を今も覚えている。
「この戦争が終わったらまた帰ってくるであります!」
答える居候の声も震えていたっけ。

ただ…それはすぐにという話ではなかった、そんな簡単なものではなかったのだ。
同盟国との条約上、戦闘参加期間は地球時間に直せば10年という、長い長い歳月だったから。
「長いわよ、そんな…」
夏美も吐き捨てるように言ってしまった。
冬樹がケロロを抱きしめて泣いた。
重苦しい空気がリビングを覆って、それを何とかしたくて、思わず大きな声を上げてしまった。
「でも10年経ったら戻ってくるんでしょ!?いいわよ、10年だけアンタ達のこと、待っててあげるから、忘れたら承知しないわよ!」
弟を励ましたくて、本心じゃないことを叫んだ。
本当は弟以上に、月日の長さを感じていたのだけれど。
「必ず戻ってくるであります!夏美殿!」
一生懸命敬礼で答えたヘッポコ宇宙人の隣で、寡黙にこの状況を見守っていたもう一人の居候に、その後呼び出されたのだ。


「夏美、あれは貴様の本音ではないだろう」
「え…そ、そんなことないけど…」
全てを見透かすような、大きな目。
でも夏美はもう知り過ぎていた。この目つきの悪い男の目は、鋭いだけではなくて、自分に向けられた大いなる優しさも含んでいる事を。
「貴様らの10年は長いだろう?平気な筈がない。ただ約束は守る。俺たちの帰還を待ってくれるというのなら必ず戻ってくる」
込み上げる涙でみるみる赤い顔がぼやけていく。
「…うん」
頷くのがやっとだった。

じゃあこれはお別れじゃないから。
そう思ってていいのよね?ギロロ。

力強く頷いた赤い手を握って、これから訪れる淋しさに耐え切れなくなった時には、この手の力強さを思い出そうと決めたのだった。

本来、侵略地域を離れる場合は記憶の一斉消去を行なうのだが、今回はあくまで一時的な作戦休止であり、ケロン人にとっては10年という期間が比較的短期間との認識の為、帰還後のスムーズな作戦移行を配慮して、記憶消去の措置は取られないことになっていた。
そこだけが、互いにとって救いになった。




しかし、現実問題、夏美や冬樹にとっての10年は長かった。
中学卒業、高校生活、大学受験、成人式、大学卒業、そして就職。
人生の伏目伏目に彼らはいない。そのたびに淋しくて哀しくて、自分の弱さを責めてみたり、もうどうでもいいわよと投げてみたり。
「姉ちゃん、待っててあげようよ、約束したんだし」
その都度、弟は笑いながらそう言った。
冬樹は強い。しなやかな感覚で生きている彼は、その見かけの温和さとは裏腹に、強靭な意志を持っている。
大好きなオカルトの研究に繋がるからと大学では歴史や考古学を学び、今では見事にそれを生かした仕事にも就いている。
でもあたしは…。

夏美はボンヤリと考えた。
一流大学と呼ばれるところへ入って、周囲には羨まれるような就職が出来たけれど、母のように誇りを持って仕事をしているわけでもなく、弟のように大好きなことを仕事に生かしているわけでもない。



「ダメね、あたし…」
「姉ちゃん…」
「もう10年経つじゃない。でもアイツら、結局帰ってこないし…」
「だから髪を切るの?」
違う、そうじゃない。そんな失恋したみたいな真似がしたいわけじゃない。
「違うの。ただね、ケジメだけはつけたくて。子供の頃からずっとロングヘアだし、一度くらいさっぱり短くしてみるのもいいかなって。イメチェンも出来るしね!」

そうよ、もう過去ばかり振り返らないで、うじうじしてないで、そろそろあたしも脱皮しよう、自分の人生を生きるために。

「今から予約して美容院に行って来るわ!さあそうと決めたら何だか気持ちがラクになったかも。そろそろお昼ご飯にしよ?」
ちらりと見た庭先に、桜の花びらが降り積もっている。
その一角、ずっと空けたままの場所。どれだけ庭を整備しても、花壇も作らず、物置も置かず、開けたままにしていた場所。

今までありがと、ギロロ。
もうあたし、うしろを振り返らないわ。




「じゃーん!どお?見て見て!」
帰宅した夏美は、子供のようにはしゃいでいた。
「あら夏美、似合うわよ、高校生に見えるくらい若返ったかも!」
「やーね、ママったら!」
「まるで姉ちゃんじゃないみたい!」
「ちょっと冬樹、それホメてんの?ケナシてんの?」
背中まで伸びた髪を切るのに躊躇する美容師に、何度も頼み込んだのだ。

思い切ってやってください!ホントに後悔しませんから!と。

バサリ、バサリと落ちていく髪の束は、自分の弱い心やわだかまりのように思えた。
頭がどんどん軽くなって、心もどんどん軽くなった。
「似合ってますよ!」
仕上げの後に美容師は声も高らかに言った。
鏡の中の自分は、頬を染めてビックリ顔をしていた。
それが、やがて笑顔に変わる。

こんにちは!新しいあたし!




「さあて、頭も軽くなった事だし、月曜からは仕事頑張る〜!」
すっかり元気になったように見える夏美が部屋に戻ると、秋と冬樹は盛大に溜め息を吐いた。
「姉ちゃん、無理してるね…そろそろ限界なんじゃないかな」
「そうね、あの子、ホントに自覚が薄いんだから…。ケロちゃんたち、早く帰って来てくれるといいんだけど…」
「うん。僕はもうそろそろだと思うんだ。軍曹たち、きっと帰ってくるよ」


弟の勘は、正しかった。
その夜、眩い五つの光が、遥か上空からこの街に降り注いだ。




四月某日。日曜の朝。

「冬樹殿、冬樹殿、もう朝でありますよ」
「うーん…ぐんそう…あと五分……」
「冬樹殿、相変わらずでありますな」
「今日は日曜だよ寝かせてよぐんそ……ぐんそう…軍曹?」
がばっと両目が開くのと、起き上がるのが同時だった。
「軍曹!?軍曹!!」
「ただいま…であります、冬樹殿、立派になられ…」
「軍曹!おかえりーっ!!」
再会の抱擁のあと、冬樹は部屋を飛び出した。
「姉ちゃん!軍曹が…っ!」
ケロロを胸に抱きしめたまま階段を下り、それから彼らは目を合わせ笑った。
「夏美殿への挨拶は後にするであります」
「そうだね」
階下から庭先の光景が見える。
向かい合ったまま立ち尽くす、姉とテントを背負った宇宙人の姿を。





ギロロは懐かしい庭を見渡した。
10年が経ち、庭の様子は変わっていた。
花壇が増え、春の花が咲き誇るように庭を彩り、中途半端な場所に物置が置いてあった。

ギロロにはすぐに分かった。
夏美は、この場所を開けていたのだ。
テントがあった場所には、今も石ころひとつ、雑草ひとつない。
なー…と懐かしい声がした。
「ネコか、ずいぶんと年寄りになったな」
目を細めて笑えば、白猫はフーッと怒ったような仕草を見せた後に、ギロロの体に纏わりついた。
何もかもが懐かしい。
そうしていると、猫の鳴き声に気付いたのか、庭に接したガラス戸が開いた。

目が合った瞬間、体中にビリビリと電流が走ったように動けなくなった。
彼女は庭用サンダルを履いて駆け出した。慌て過ぎて片方が脱げてしまい、素足が汚れるのも気にも留めず。

「おかえり、ギロロ」

もしも本当に帰ってきたら、文句のひとつも言ってやろうと思っていたのに、憎まれ口が出てこなかった。
精一杯の元気な声で、精一杯の笑顔を作って言ったつもり。
それでも瞳は正直で、別れの時の十倍の涙を一気に溢れさせた。
「おかえり、おかえり、バカ!遅いじゃない!もう!あたし…」
後は声にならない。
膝を折ってしゃがみこめば、再会を待ち望んだ顔が同じ目線になった。
「夏美…」
呼ぶ声の懐かしさがまた胸を痛くする。
「大人に…なったな」
そっと触れる赤い指を見る。
「アンタは…やーね、傷だらけじゃない」
変わらないように見えて、随分と変わっていたのだ。
ギロロの顔も、指も、小さな傷跡があちこちにある。
そうだ、彼らは戦場にいたのだ。
遠く離れている間、自分が淋しくなったことに捉われるばかりで、もっと彼らの無事を祈ってあげればよかった。

ごめんね、ギロロ。無事に帰ってきてくれてありがとう。

もっと心が落ち着いたらそう言おう。
今は胸がいっぱいいっぱいで、うまく言葉が綴れない。

「夏美、髪を切ったのか?」
不思議そうな顔でギロロが自分を見つめている。
「うん…似合ってない?」
「い、いや…そうではないが…」
「ギロロは長いほうが好き?」
「す…!?」
言葉に詰まる元・居候の背中の荷物を取り上げる。
「さて、ここにまた寝床作るんでしょ?」
「あ、ああ…。よろしく頼む」
テントを広げる背中を見ながら、この長い年月の様々な想いが心に広がっていった。

「ねぇ、ギロロ、秋になったらまたおイモ焼いてくれる?」
「ああ。…オトナになっても変わらんな、お前は」
そう言いながらもギロロの顔は嬉しそうで。
そしてもうひとつ、秋までは居るのだ、すぐにまたどこかへ行ってしまったりしないのだということに安堵した。

「じゃあね…あたしの髪が背中まで伸びるまで…それまでいてくれる?」
元の長さになるまでは数年はかかるだろう。
その間ずっとずっと一緒にいてくれる?

ギロロの手が止まり、少しだけ驚いた顔をして、それから彼は至極真面目な顔をした。
すっと深呼吸をするように胸を張って、夏美の顔を見つめて、こう告げたのだ。

もっと長く、ずっとここにいるぞ。
お前と、共に。


再会の春、桜の舞う庭先で、二人は約束を交わした。





end



凪 様


ギロロと夏美の絡みが少なくてスミマセン。夏美が髪を切るなんてありえない!って感じですが、それでもこういう展開にしてみたくてつい…。(髪型はあえてボカシました)参加させて頂いてありがとうございました!

のーばなー
Pure Soul/凪 様