カウントダウン


「はい、注目!」
バシと壁に貼られた紙を叩いた姿は、ただそれだけだと言うのに迫力があった。
故に硬いフローリングに正座させられていたギロロの肩が、面白いようにビクリと跳ね上がる。
この場には、仁王のように立つ夏美と、餓鬼のように縮こまるギロロしか居ない。 つまりは、彼女は自分に顔を上げろと言っているのだと、そんな事は勿論良く分かっていた。
おそるおそる、一度は瞑ってしまった目を、そろそろと上げる顔に合わせて開く。彼女の細く白い指の先、紙の上には、地球で言う所の『正』の字が二つ並んで書いてある。ただし、右の方には最後の一本が足りない、何とも中途半端な姿だ った。それが、ついさっきまでは唯一の救いだったと言うのに。
しかし夏美は、無情にも手にしたマジックで、まるで強調するように太く、最後の一本を書き足してしまった。
ああ、お終いだ。
思わず絶望的な呻きが喉の奥から絞り出される。しかし情状酌量の余地はなさそうだ。何しろ彼女の気配が無言の内にそう告げている。
「これで、10回目。分かってるわよね?約束は?ちゃんと覚えてる?」
「…ああ…」
残念ながら、約束をしたのがそんなに遠い昔ではない。ここ数日で、瞬く間に線が付け足されたのは、自分の不徳の致すところであるとギロロは知っていた。
頭の痛い事に。


カウントダウン


「何やってんでありますか、あの二人」
リビングは、往々にして家族のドラマが展開される場所だ。それはつまり、ここは家族みんなの物だという事だろう。しかし現在、ドアの外で中を窺うケロロと冬樹にとって、今のリビングは夏美とギロロ、二人だけの修羅場だった。
少なくとも、傍目には。
「さぁ…何か数えてるなぁとは思ってたんだけど」
白い壁に白い大きな紙。次々に付け足される縦と横の線。それが夏美の手によるもので、原因がギロロである事も二人は知っていたが、それが何を数えていたのかは知らない。とりあえず、これで回数は満杯らしいとぼんやり分かるだけで。
「冬樹殿、これって見てて大丈夫だと思う?それでもヤバイ?」
「うーん、今のところは何とも…」
ケロロは巻き込まれた場合を心配しているのだろうが、それなら安全牌を取るべきだ。しかしどうやら、野次馬根性を捨て切る事も出来ないらしい。
そんな物影の二人には気付かないのか、二人の話はお構い無しに進んで行く。
「一回目に約束を破ったのは?」
「…9日前」
「正解。覚えてたのね。じゃあ二回目は?」
「8日前」
「三回目からは?」
「7日前、6日前、5日前、4日前、先一昨日、一昨日、昨日…それに、今日だ」
「まったく、ご丁寧に一日一回ってのが笑えるわよね」
「スマン」
冷やかな笑みは、まるで絶対零度の氷の女王様だ。戦場の悪魔をここまで震え上がらせるのは、宇宙広しと言えど夏美くらいのものだろう。
実際、向けられていない冬樹やケロロでさえぞっとしたのだ。矢面に立たされているギロロに至っては、傍目にダメージが想像つかない。それでも、ケロロならば真っ先にやるであろう、失神も逃走もしないで耐えているギロロは偉い。
何をやったかは知らないが。
「そう言えば、あの二人ってあんな関係だったっけ?」
「そう言えば少し変と言うか違和感があるような…」
二人は揃って首をかしげる。
ギロロと夏美の関係を問われるとしたら、周囲の者は『良く分からない』と正直に答えるだろう。実際、良く分からない。以前よりは腹を割って話をしているようだが、では異性として『お付き合い』なるものをしているかと言えば、そうも 見えなかった。距離は近くなったのだろう。だが、ドラマや物語のように劇的に何かが変わってもいない。少しだけ本音で会話をし、少しだけ一緒に居る時間が長くなった。客観的には、それだけと言えばそれだけの変化。
故に、二人の力関係もあまり変わっていない。ギロロは年長者として、また戦いのプロとして時には夏美にぞんざいな口を利く事もあり、夏美は夏美で、普段日向家を預かる者として譲れない部分は絶対に譲らない。ようするに、基本的には 対等なのだ。それがここまで一方的なのは、確かに珍しい光景だった。余程ギロロにやましい腹があるのか。カカア殿下の片鱗を見るようで、冬樹としてはどういった顔をして良いのか悩んでしまう。
「ゲロリ。これってギロロの弱みを握るチャンスでありますな」
これ幸いと黒い笑みを浮かべるケロロの頭を、冬樹は苦笑で抑えつけた。
「駄目だよ、軍曹。それにきっと、姉ちゃんだけが特別なんだと思うし」
「ゲロ?」
大きな目を不思議そうにめぐらせるケロロに、冬樹は黙って笑いかける。夏美が知っている事実だから、ギロロは大人しく叱られているのだ。これが別の者だったなら、バズーカか何かを使って本気で記憶ごと頭を吹き飛ばそうとするかもしれ ない。ケロロが余計な悪知恵によって身を滅ぼす前にと、彼は早々に友人を抱えそそくさと家を出た。
「冬樹殿?」
「今回のは、見てたら痛い目見る方だと思うよ?」
そう教えてやれば、納得したのか大人しくなった。これでたいやきでも買って散歩していれば、その内あちらの悶着も収まっている事だろう。賢明な少年はポケットに入れた小銭の量を確かめ、背の低い友人の手を引いて歩きだした。

「…ケロロ達は出て行ったみたいだな」
「そーね」
横目でチラリとドアを一瞥したギロロへの同意は、やはり冷めていた。言外に、そんな事で誤魔化されてやらないぞと告げている。だが、人目が無くなった分、夏美も核心に迫った文句が言えるとこっそり肩の力を抜く。聞かれては、からか いの種にされるだけだ。
それこそ、自分達に他意は無いのだが。
「正直、もうちょっと約束、守ってくれるかと思ってた」
「…スマン」
ため息交じりに落胆をありありと表に出される方が、罵られるよりもギロロとしては辛い。だが、返す謝罪は同じだった。他にどう言って良いのかも分からない。
「で、どうするんだ?」
約束は約束。破ったからには当初の宣言通り、彼女の言う事は何でも聞く。そういう取り決めだった。これだけを聞くと、ギロロが一方的に押し付けられているように見えるが、実際には違う。
約束の対価はイーブンだった。ギロロがそれを 守れば、逆に夏美が彼の言う事を何でも聞くとなっていたのだから。
どんな大それた願い事をされるのか。内心ではビクビクしながら問うたギロロに、しかし夏美の表情がふっと緩む。
「言い訳、しないんだ」
「約束は約束だ」
ムキになって言い返したのは、別に彼女の言が気に入らないからではない。知られたくなかったからだ。その、約束を破った理由を。
「馬鹿ね。本当の事、言えば良いのに」
「なっ…お前、知っ…!?」
「まぁね」
先程までの冷徹さは何処へ行ったのか、何でも無い事のように気楽に肩をすくめられる。
夏美がギロロに突きつけた条件は『一ヵ月間、銃器の使用を10回以内に抑える事』だった。最近では八つ当たり以外の発砲は無かった上に、有事の場合は大目に見るとの条件付きだった為に、ギロロは割と気軽にそれに応じた。別に、ご褒 美に釣られた訳ではない。よしんば自分が賭けに勝ったとしても、ギロロは夏美に大した望みを言うつもりが最初から無かった。だが、負けるのは想定外だ。しかも、その理由を彼女が知っているとは、完全に予想外。
「ちょっとね、やり過ぎかなーと思って。どう?反省した?」
それはおそらく、彼の非致死性の銃弾によって倒れた男たちの末路を指しているのだろう。夏美の言う通り、『有事だったのだ』と言っても良かった。それはギロロにとっては緊急事態だった。しかしまさか、嫉妬にかられて発砲しました、などとは情けなくて言えない。
「…それより、肝が冷えた…」
してやったりと憎たらしく笑う夏美に、怒る気力も無い。やり過ぎはどっちだと、悪態を胸の内で呟くので精いっぱいだ。思わず力が抜けて崩れ落ちると、流石に気の毒になったのか夏美がちょこんとその前にしゃがみ込む。
「ゴメンネ?」
「別に良い。約束を破ったのは俺の責任だ」
そう言い切れてしまう辺り、ギロロは潔い。ただしこの場合、話題をあまり引き延ばしたくないが為に会話を強制終了させようという魂胆も大きかったが。
「違うの。本当はね、そうじゃないの。ギロロ、私がどうして急にこんな約束したか、気にならなかった?」
「は?」
元々が直球型の性格である上に、ギロロは夏美の発言に関してほとんど裏を考えない。額面通りに受け取って、その通りに反応する。それだけだ。彼女は少しだけ不服そうに、唇を尖らせる。
「そんなに私に興味無いわけ?」
「え?あ、あうぇあ…?」
更に、全く想像だにしなかった質問には、今回のように返答に窮してしまう。おかげで、否定の代わりに何とも妙な声が出た。
「ま、別に良いんだけどね。それより、さっきの答えは?ホントに急な思い付きだと思ってたんだ」
無意味にあたふたとする様に、少女は大人びた顔つきであっさりと話題をひるがえす。コロコロ変わるその態度や表情に、ギロロは付いていけない。
「他に、何があるって言うんだ」
いっそ開き直って不機嫌に問い返す。だが夏美は、今度は微笑んだ。ギロロには何が何やらさっぱり分からない。
「あのね、賭けてたのよ。あんたが10回、私との約束に釣られてスルーするようなら、きっと見込みはないだろうから、諦めようって」
悪戯を見つかった子供のように少しも悪びれず、夏美は舌を覗かせた。この場合、ギロロは怒って良い筈だ。彼自身そう思う。けれど、結局はふっと笑ってしまった。笑うしか無かったとも言う。
何を諦めるつもりだったって?そう、意地悪く聞くだけの大人気無さが、残念ながらギロロには無い。
「つまり、お前は賭けに勝った訳だな」
自分の想いは、この10回の約束で測られた。裁量を下したのは彼女。乗せられたのは自分自身。これは笑うしかないだろう。
ギロロが彼女との約束を10回破ったのには理由がある。それと同じように、夏美が10回を設定した事にも意味がある。 つまりは、そういう事。
「聞かないの?毎日、下校途中に毎回違う男の子が待ち伏せしてた理由」
「聞く必要はないと思うがな。お前が目当てだった、その事実さえ分かっていれば、俺には問題ない」
彼等にそれ程の悪意があったようには思えないが、夏美が迷惑していたのは事実だ。別に、ギロロを使って気苦労を排除しようと考えた訳でもないだろう。もしかしたら彼等の行為は彼女としては相当な迷惑で、これは仕返しだったのかもし れないが。しかし実質、それが意趣返しになるかどうかはギロロの行動にかかっていた。それくらいの話なのだろう。
「自分で倒せ!とか言わないの?」
「お前にも、学校での立場というのがあるんだろ?」
彼女は人気者だ。男女問わず慕われている。その中に、時折過剰な者が交るのは自明の理と言えるかもしれない。
自分でもどの口がほざく、と思わないでもなかった。だが、やけに達観したセリフが出たのは、結局は全ての障害を排除した事に満足していたからだろう。勿論ギロロは、校内で『日向夏美にちょっかいを出すと、謎の組織に狙撃される』と いうオカルト的な噂が広まってしまった事を知らない。もっとも、夏美本人が気にしていないのだから、ギロロは知る必要が無かっただろう。
「あのね、何か最近、学校で噂になってたらしいのよ。私に好きな人が出来たって」
「んなっ!?」
「勿論、デマよ?でも、あの人達はそうは思わなかったみたい。まぁ、面白半分もあったみたいだけどね、告白してたら、誰かが当たりなんじゃないかって」
「それで毎日?代わる代わる待ち伏せて、告白合戦か?」
アホらしい、と眉間にしわを寄せると、夏美も顔をしかめた。
「毎日違う人だし、何も言われてない内から断れないし、結構困ってたのよね」
「何だ、だったら直接言えば良かっただろ」
言外に、自分を頼れと言ってみる。そこで素直に従うような性格でも無いだろうと、ある種の確信を持ちながら。
「それじゃ、賭けにならないじゃない」
「お前、この期に及んで俺を疑っていたのか?」
内心は傷つきながらも半眼で睨みつけると、彼女はふっと複雑な顔をする。
「…だって、私はギロロから何も言って貰ってないもん。あんたがハッキリしないから、私だって言えなかったんじゃない。好きな人が居るって。それも、私から言って欲しい訳?」
そこで意気地の無さを指摘されるとぐうの音も出ない。
とっくに答えの出ている、しかもその解答に確信を持っている者同士の腹の探り合いや隙の窺い合いに、彼女はどうやらもう、うんざりした様子だった。
もう少しだけこの距離間を楽しみたかったと言えば、おそらく逆鱗に触れる。
故にギロロは口を閉ざした。
夏美は夏美で、この決定的な優位が楽しかったから少しだけ意地悪したのだと、
教えてやる気が無い。
「で?約束はどうする。ご破算か?」
そう甘くはないだろうと思いながらも問うと、案の定、彼女は綺麗過ぎる勝利の笑みを持って、敗者であるギロロに難題を突きつけた。
「結構、景品は悪くなかったと思うんだけど、何で約束を破ったの?
  教えてくれたら、チャラにしてあげる」
「お前、サラっと一番難しい事を…」
「あら、約束は約束なんでしょ?」
ハメられたのは認めよう。まんまと嵌ったのは自分のミスだ。
期待を込めた眼差しを頭上から感じながら、この期に及んでギロロはまだ躊躇している。
果たして、彼女の思惑通りになってしまって、自分の男としての尊厳はどうなるのだろうか、と。
元々そんな物は無いのだと、ギロロが諦観の念を込めてため息をつくまであと少し。夏美が悲しみとは違う涙を浮かべるまでの時間と、ほとんど同じくらいだった。




 


のーばなー
はまぐり。/クロ 様