山陰・山陽の旅(その1)

               思い出の路(その1) 琵琶湖から城之崎へ

 2005年の春、山陰・山陽を廻ることにしました。山陰・山陽と書いたのは、今回の旅は、中国と書くとChinaと間違えられそうなことと、新婚旅行で行った山陰方面を廻って見たいという意図によるものです。

もちろん、山陰、山陽ともまだまだ行きたいところもあるのですが、一筆書きの道に書ききれませんでした。

また、最初の部分は、何回も行った所でもあり、余分な話が少し多いのですがご容赦。

 

(3月28日)日立から稲沢へ

 

 日立を朝早く出て、会社のある名古屋の稲沢市に向かいました。例によって、常磐高速は、早朝は守屋辺りまでは車が少なく、平均130km位で飛ばしたが、首都高の向島の先の混雑は相変わらず。

東名に入って、海老名で休憩。雨も降ってきたので次は何処で休もうかと思いつつ進んだが、どうも車が揺れるので、牧の原SAで給油してチェックしたら左の後輪がパンクしていた。

硬いラジアルのタイヤを履いていたのでパンクの実感が無かった。12時前に名古屋に着き、稲沢の会社によって、国府宮に泊まる。

(この日、約518km)

 

(3月29日)

 

 朝、近くの国府宮神社に参拝。ここは日本三大奇祭と言われる裸祭りで有名。現役時代には、毎年参加したものである。しかし、今は、桜祭りに準備をしているが桜が遅く咲く気配がない。

注釈国府宮神社

 正式には、尾張大国御霊神社と言い、祭神は終わり大国御霊神で地元の守護神であるという。奈良時代、この近くにあった国衙の傍にあり、尾張の国の総鎮守である。ここの裸祭りは旧暦1月13日に儺追(なおい)神事を行い、巨大な鏡餅を奉納するなどの一連の行事があり、その後、裸の男達が注連縄などを持って神社に奉納に集まる。神社の禊をした神男が出てくると、それに触れようと男達がもみ合い、すごい熱気となり、水をかける。

場合によっては、死人も出る。 なおい布という紅白の一寸幅位の切れを授けてくれる。毎年、これを車のハンドルにつけている。この日は、会社も休みにして、従業員も祭りに参加する。

 国府宮から8kmほど北の尾張一宮市の真清田神社尾張国の一の宮であり、こちらは天照大神の孫の天火明命が祭神として、朝廷が認めたもので、国府宮神社はどちらかと言えば、土着の神を祭ったものと言えよう。

 

         神社でのもみ合い               奥の鳥居の奥が神社でここへ男達は進む 

9時半頃、稲沢を出発、名神、北陸道と順調に進み木の本ICで降り、琵琶湖半に向かう。琵琶湖の北は、秀吉が城主であった長浜竹生島、そして静が岳、そして余呉湖がある。

偶然だが、この旅行の丁度、一年前の3月28日にここを訪れたのでその時の写真も載せてみる。

  フェリーからの竹生島法巌寺(2004年3月28日)     静が岳から見た余呉湖

 さらに余呉湖といえば、平成14年の1月に免許を取り、何周しようが650円の名古屋高速の環状線で練習をし、女房が姉さんと名古屋に来た時、余呉湖―静が岳に行こうということで出かけた所でもある。

 そして、湖の奥まで行った所で駐車する時に、建物のコンクリートの支柱に車をぶつけて大破。しかし、乗っていて殆ど衝撃なし。JAFで帰った思い出の場所でもある。

 

   余呉湖の桜(2002/4月7日)                哀れな車の姿

話が寄り道ばかりで先に進まないが、琵琶湖の北にある葛篭尾崎を廻る琵琶湖パークウエイがある。ここには野猿などもいる。今回は桜にはすこし早い。

パークウエイを進んで海津大崎を廻って海水浴場などがある今津浜に出る。この辺の松林や水はきれいである。ここを過ぎ、北浜から国道303号、通称若狭街道に入り小浜方面に向かう。

             

                    今津浜の近くの琵琶湖

 進んで、上中から国道27号線に入る。27号線は北に進めば三方五湖から敦賀方面に抜け、西に行くと高浜を経て舞鶴方面に行く。三方五湖周辺は縄文時代からの遺跡も多い。

小浜は内外海半島と大島半島に囲まれた穏やかな湾内にあり、琵琶湖に抜ける最短ルートが、この道筋である。

古代、ここに海から来た弥生人の一派は、拠点をここに置き、遠敷川周辺で稲作をし、縄文人を同化して言ったと思われる。この周辺には、多くの神社があり、奈良時代以降は、若狭国の政治の中心でもあり、国分寺他の寺院も多く、大和朝廷の威光も示す必要があった場所でもあるのだろう。

 琵琶湖側から進んでいくと、先ず、県道23号に沿って、松永川を遡ると、明通寺がある。ここは、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に行く時に建立したと言うことである。

本堂三重塔は鎌倉時代のもので国宝本尊の薬師如来なども重要文化財である。

 

                      明通寺(山門と本堂) 
                           
                      
                        
三重塔

 ここから、県道23号を戻ると途中から新しく広域農道が出来ていて、トンネルを抜けると遠敷川の流域に出た。この川筋は、弥生時代に早くから開けたところであり、若狭一宮の若狭彦神社若狭姫神社神宮寺などがある。

この三つの関係は複雑である。何が正しいのか分からないが、小生の持論と、神宮寺などの説明文などから、次のように推定される。

小生の推測縄文から弥生への変化の中で、大陸からの渡来人の大きな波は、4回あった。

 第一回目  BC8世紀前後――周の東選に従い、春秋時代が始まり、中国南部への進出が進み、この地方の人たちが日本へ渡来。(水田稲作の渡来、青銅器の渡来)

 第二回目  BC3世紀前後――戦国末期で、秦に圧迫された周辺国の人たちが朝鮮半島、さらに日本に進出。(青銅器が中心、鉄器の渡来)

 第三回目  AD3世紀前後――地球規模の寒冷化で、中国では後漢が滅亡、戦闘的な集団と化した人達が朝鮮、日本に進出(鉄器が中心、日本の統一、大和朝廷)

 第四回目  AD6世紀前後――朝鮮の動乱で百済、加羅などの人達の渡来と朝廷のほか各地での受け入れ(仏教など)

出雲地方は早くから強大な勢力があり、AD三世紀ごろの後から来た勢力もここを征服することは困難であったと思われる。ここから丹後半島までは山が迫った地形で、稲作は出来ない。

その先は、若狭で、ここに来て、第二回目の渡来で縄文人に代わって住んでいた稲作をしていた人達(ナガ族というのだそうだ)を征服し、勢力を築いた。

由来)ここに国を開いた渡来人が若狭彦、若狭姫で遠敷明神であり、その子孫が8世紀の始め714年に、銅鐸を持つナガ族の王を金鈴に表して長尾明神として山上に祭り、その下に神願寺を建立し遠敷明神のご神体を祭り、翌年は勅願寺(神願寺)となったのが、始まりという。(地元の神を、征服したりして神として神社に祭り、押さえの神を置くというのは、全国に沢山ある)

延喜式に、若狭彦神社(上社)若狭姫神社(下社)が乗せられている。鎌倉時代には、神願寺が若狭彦神社を造営しその別当寺となって神宮寺と改名し、神仏混交の形が明確になった。

ここが古代、有力な勢力であったという証拠に、この地方出身者が東大寺開祖の良弁僧正であり、神願寺に渡来したインドの僧実忠東大寺建立を助け、二月堂を建てたと言われ、お水取りの儀式を始め、二月堂の水源がここの鵜の瀬であるといわれ、3月2日に都へのお水送り行事が行われている。

これは、九州の宇佐神宮と東大寺との関係とも似通った所があり、大和の勢力と同系統の地方の有力な勢力が、朝廷の権威と関係していると言うことでもあると推定される。

宇佐神宮が八幡宮として武家の信仰を集めたのに対し、こちらはそれに対抗出来るものがなかったと言うことなのだろうか?

 明治の廃仏毀釈で神宮寺は壊されて、ご神体の遠敷観音を引き渡せと言う沙汰があったが、偽者を渡して、御本体は今も神宮寺に置かれている。
  ここの本尊?は一応、薬師如来などもあるが、説明書の最初には、男神(若狭彦)女神(若狭姫)とある。

             

                       神宮寺                       


          若狭彦神社                          若狭姫神社

 さらに進んで27号から小浜線方向に入ると十字路があり、その向かい右側が若狭歴史民俗資料館である。

十字路でとまると、LEDの立派な信号機があるではないか!! ふざけやがって!!

(その経緯) 免許を取った年の夏、部課長会で雄琴温泉に行き、その帰りに、いわゆる琵琶湖の西の鯖街道(ここはまた、都への塩の道でもある)を通り、この地方に来た時の事である。

まだ、慣れていないこともあり、十字路の手前でNAVIを見ていたため一時停止の看板を見落とし通り過ぎ、またNAVI を見てすぐ先の小浜線の踏み切りも通り過ぎてしまった。

この十字路は、旧道の県道と交わる新しい道であり、こちらの方が立派。その直前に、パトカーらしきものがこの歴史館に停まっていたのが見えたような気がしたのであるが通り過ぎてしまった。

左右とも見晴らしが良く、車などやってこない。すぐ先の国道に出る信号で待っていると後ろから来て、「一時停止違反だ」という。「ここは地元の人でも良く間違うんですよ」などと言い、「二つも停止しなかったので見逃すわけにはーー」などと言い、「まあ、初めての方なので、踏み切りの方は見逃します。踏み切りは7000円、道路は5000円ですから道路の方の違反にしましょう」などといわれ、初めての違反でつかまった所である。十分に捕まえて、信号機代位出たか、皆がつかまるので文句が多かったのか?!

 

 この資料館は縄文時代から現代までのさまざまな展示があるが、弥生から古墳時代などの歴史はまだ解明が十分ではないようである。

                

                           若狭歴史民俗資料館

再び、国道27号に出て、すこし戻ると、国分寺跡がある。国分寺の中に大きな古墳があるという特異な形となっており、誰のものかはわからないが

この地方の勢力を何とかしたいと言うことなのかと想像してしまう。現在、国分寺には釈迦堂があり、重文の鎌倉期の丈六の釈迦如来像があった。

 

           国分寺跡の古墳                         釈迦堂

 若狭姫神社に行った頃から雨模様であったが、小浜を過ぎて国道27号線の旧道(丹後街道)に入った頃から天気が良くなり、海が綺麗であった。

                

                        丹後街道から見る小浜湾

 再び、27号線にもどって、すこし進み、また旧道に出て、大飯原発のある大島半島に青戸大橋を通って渡る。ここから進むと、はや今夜の宿の国民宿舎城山荘に着いてしまった。

まだ、早いので、高浜原発の方に行ってみる。田ノ浦トンネルを抜けると原発が見え、その先から引き返し、27号線に出て宿に戻る途中から、松尾寺入り口の看板が見えてきた。ここへの道を進むと昨秋の台風で路肩が崩れている。

道には、マムシなどの出てきて、春になったことを感じさせる。松尾寺は、西国33ヶ所第29番札所馬頭観音が本尊の大きな寺である。

      

                        松尾寺(山門と本堂)

 ここから、城山荘に帰って4時過ぎ。傍の明鏡洞の周辺を散歩。明鏡洞は八穴の奇勝のうちで最も大きい。こちら側が公園で、穴から日本海がよく見える。

               

                           明鏡洞

城山荘は、露天風呂から日本海の日の入りが良く見え、これが売りとなっている。

(この日、約227km)

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