山陰・山陽の旅(その9)

                        旅の終わり

 例によって、女房は宇部空港から飛び去り、その後、古い友人を訪ねて昔を語り、小倉に渡ってフェリーで帰ります。

 

410日)

 5時半頃起きて、温泉に入り、朝食は昨日、コンビニで買ってきたサンドなどで済まし、7時に萩本陣を出発。

萩道路(県道32号)を進むと、途中、狸が轢かれていた。長距離の旅行をするとあちこちで動物が轢かれているのに出くわすが人間の都合で道路を作り、獣道をなくしてしまった為だろう。32号線は秋吉台の中を貫通しており、大正洞を過ぎ、帰り水を下に見て秋吉台駐車場に到着。長者が森周辺を歩く。ここは昔、平家の落人が集落を作ったとかで井戸の跡どもあるというが、立ち入り禁止で定かではない。ここから、秋吉台展望台に行き、周囲の景観を眺め、秋芳洞に向かう。

 

          帰り水の説明                          長者が森

               

                          カルストの台地                      

 秋芳洞はエレベーターで降りると左右が鍾乳洞になっており、通路に沿って、黄金柱とか百枚皿と名づけられた様々な景観があり,さすがに今まで見た鍾乳洞の中では一番大きく、約1時間の距離も苦にならない。しかし、ライトアップや観光客の為、本来の姿が失われつつあるのだとか。

         

      黄金柱(小生のカメラではここまで)            百枚田(専門家の写真より) 

 戻って、435号を山口市に向かう。ここは、ご存知、大内氏の居城のあった所で、応仁の乱以降、大内義興、義隆時代西の京として栄えた。

毛利氏が関ヶ原に敗れて、に居城を移したが、幕末に再び藩庁をここに戻し、県庁所在地となった。

しかし、宿場町が駄目になるとかの反対で山陽本線も通らず、関門と広島の狭間で、産業的には栄えず、県庁所在地としては、日本で一番人口が少ないという。このことが、かえって古いものを残してきたとも言えるかもしれない。

 10:40過ぎに瑠璃光寺に着く。桜も満開となり、大内氏時代の国宝の五重塔が美しい。さらに、常永寺に行き、雪舟の庭の周辺を散策し、しばし、庭園を見て休む。

さらに、大内氏の館跡という龍福禅寺に行き、本堂に向かうと、誰もいないのに突然、鐘楼の梵鐘が鳴り出した。ボンボン時計の親玉みたいなもので、寺の案内も解説の札の傍のボタンを押すと聞けるようになっている。(最近、お寺が人手不足で、このような自動鐘撞き機が売れているとか)

        

          瑠璃光寺                           瑠璃光寺の五重塔

 

            常永寺山門                        雪舟の庭

                

                            龍福禅寺

  市の中央に戻り、丘を登ってザビエル記念聖堂に向かう。この聖堂は何年か前に火災に会い、再建されたもので、モダン建築という奴でなんとなくイメージがわかない。中の展示も吉田松陰展示館が人形なら、こちらは絵といった感じである。

        

                       ザビエル記念聖堂の新旧

 昼飯を食って、女房がういろう屋で土産を買う。この頃から雨が降り出し、山口宇部空港に着いた2時過ぎには雨が激しくなった。

ここから、また、一人旅で下関に向かったが、途中は雨で車が多く運転がしにくい。

下関の住吉神社に着いた頃はようやく雨も小止みになった。住吉神社は長門国一宮。本殿は五つの棟をつないだ特殊な形をしており、南北朝の頃、大内広世が寄進したもので国宝である。第一殿の祭神は住吉大神(表、中、底筒男命の三神)。神功皇后の朝鮮征伐の時現れて勝利に導いたということで、神功皇后ほかも祭られている。

 

             住吉神社                          住吉神社本殿

ここから山を下り、赤間神社に寄ろうとしたが、駐車場が無く、旧友のK氏と会う時間も迫ったので、5時に宿の下関グランドホテルに行く。

グランドホテルは直接門司へのフェリー港が繋がっており、丁度、K氏も来たので、門司港に渡る。

すぐ傍が、門司港レトロで、旧JR門司駅、旧三井倶楽部、税関、船会社など古い建物が集められている。6時までの会食の前に、周辺を案内してもらった。

 三井倶楽部で、ふぐ刺しやひれ酒で歓談。K氏は昭和9年生まれ、新日鉄で開発一筋で、今日でも、開発関係に関与しておられる。

基礎材料を途切れることなく開発研究してきたことが、今日、世界一の製品を生み出している。色々と昔話などもして、あっと言う間に2時間が過ぎ

まだ、フェリーまで時間があるので、再び、門司港周辺を散策。再会を約してホテルに戻る。

                 

                         門司港レトロにて

(この日 172km) 

 

411日)

 昨夜は、ひれ酒など沢山飲んでしまい、目が覚めたら6時、今日は快晴である。すぐにホテルを出て、傍の赤間神社に行く。この時間、交通量は少ないので、前に路上駐車し、神社を参拝。ここは安徳天皇を祭り、天皇が沈んだ壇ノ浦の方向を向き、慰霊している。

                 

                           赤間神社

 ここから、9号線、彦島有料道路を通り192号線に入る。彦島有料道路の展望台からは海が良く見えるが、とにかく風が強い。

角島に向かう途中、本州最西端の岬という看板があるので寄ってみることにする。ここは毘沙の鼻という岬で公園になっており整備されている。

8時半前にここを出て、角島大橋920頃着く。この橋は、角島にかけた海の上の長い橋であるが、観光とか地元の人には便利かもしれないが

金の無駄使いのような気がする。

風の島といわれるだけあって、橋の上は強風である。島の展望台では、危うく帽子が海に飛ばされる所であった。ここの案内に平安時代、わかめを朝廷に献上したとある。門司のめかり神社、昨日行った住吉神社なども旧暦元旦に、わかめを取るめかり神事が行われており、わかめは古代、聖なるものとして珍重されていたのであろう。小生の住んでいる水木の浜でも常陸風土記に、わかめやあわびを献上したとあった。

島の先端は、海士ヶ瀬公園という公園になっており、夢崎灯台があり、ここを廻って10時頃出発。

 

         本州最西端毘沙の鼻                   角島大橋(角島側から見る)

 島を出て、本州西北端の岬という川尻岬へ向かうが、風はますます強い。岬の灯台への道は、両側が切り立った崖で、手すりも無く、風で飛ばされそうになり足がすくんだ。

 11時すこし前にここを出て、仙崎港に行く。ここから観光船が出ているが、この風で乗れない。そのまま、316号をJR美弥線に沿って南下していくと道の駅「おふく」というのがあった。かなり大きな道の駅で、温泉設備などもある。ここで入湯し昼飯とする。

すこし休んで1時過ぎに出発。美弥ICから中国道に乗り防府西ICで降りて、玉祖神社に行く。ここは周防一宮で、祭神は玉祖命で天岩戸開きの時、三種の神器の一つの勾玉を作った神で、玉造部の祖神で、今でも宝石加工、時計などの加工業者の守り神とされている。

丁度、昨日、大祭が終わった所であった。

 

            玉祖神社                      玉祖神社本殿(あまり大きくない)

 ここから山陽道に沿って、防府市の防府天満宮に行く。ここは、北野、大宰府と並ぶ三大天満宮の一つで創建も古い。

新学期でもあり、大勢の学生が来ていた。土産に梅もちなど買う。さらに、大内氏が再建したという周防国分寺に行ってみる。規模的にはずいぶん大きな寺院で、現在、これだけの規模の国分寺は珍しいという。

 

            防府天満宮参道                        防府天満宮

            

                       周防国分寺

313過ぎに防府東ICから中国道に乗り、門司に向かう。一般道で関門トンネルを通ろうとしたら事故で通行止め。高速で門司港ICで降り、フェリー港に5時すこし前に着いた。

                   

                            帰りのオーシャンノース号

 ここのフェリー港の昇降場は何も無い所でがらんとした休憩所があるだけである。

トラックなど殆どの車は、荷物毎ここに乗り捨てられ、徳島港で別の運転手が受け取るという。人件費、高速料金、特に本四架橋の料金が節約できるということでこうなっているらしい。九州ー四国ー東京の貨物輸送があるために、この便が成り立っているのだろう。

 船は、13000トンと大きいが、太平洋を通る。生憎の低気圧の影響で、船のピッチングが激しく、風呂などお湯が前後に激しく動揺していた。

412日)徳島港11:00発、413日)東京港5:00着で帰宅した。

 

411日)340km (413日)139km 総行程:3382km

 

山陰・山陽を旅して

 山陰は対馬海流、山陽は瀬戸内海と比較的穏やかな海に面し、陸上交通を妨げるような大きな川も無く、北九州と朝鮮半島や大陸との交通も比較的容易であったが、大勢力を保持できるような大きな土地も少ないという特殊性が、古代、幾つかの国が比較的後まで残っていた要因ではないかと思いました。

北九州から大和まで弥生時代の日本はどうであったかを想像するのは楽しいことです。「邪馬台国は何処にあったか?」などと言うことが興味本位に言われていますが、何処にあってもあまり問題ではないでしょう。それは魏志倭人伝に出ているから有名なだけで、当時の日本の全体像が描かれているとも言えないものだと思います。

 縄文時代の数千年単位での地球の気温の大きな変化、それに続く時代の数百年単位での気温の変化がもたらした変化が飢餓と戦争を招き、人の移動をもたらし、日本の変化へと繋がってきたのでしょう。

そして今、わずか数十年で、千年単位で起こった温度変化が起ころうとしています。温暖化と人口の増加で飢餓と貧困が、21世紀の半ばには世界の大混乱を招き、最後は核戦争になるという最悪のシナリオが準備されているのです。

しかし、それは地球にとって最悪のシナリオでしょうか?核戦争で、膨大な塵が空を覆い、人類が滅んだ時、地球温暖化はなくなることになります。そして数千万年の後に、放射能で変異した新しい生物が地球を支配しているでしょう。

楽しかるべき想像が、一気に暗いものとなってしまいましたが、これもまた、老人の繰言でしょうか?ご勘弁を!!

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