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女子学園におけるジェンダー及びセクシュアリティに関る課題
新聞報道等に現れた「性」にまつわる意識と問題
第T部 女子学園とジェンダー
****中高校教諭 成田文広
はじめに
新たな世紀の変わり目にあって、日本でも人権としての性=「セクシュアル・ライツ」や「自己決定権」が社会のキーワードになり、ジェンダーの課題を無視して社会構造の変革を進めることはできなくなりつつある。しかし、その潮流を自分達の帰属している社会や個人とはまったく無関係であるかのように思い過ごし、それを無価値、あるいは有害であるかのようにあしらおうとする力も存在している。
学校において「性」をジェンダー・セクシュアリティとして総合的かつ科学的に捉え直すことは、新たな人権の視点からの指導の変革に終わらず、教職員のあり方や学校の体制・諸制度・生徒募集にも関る様々な問題を、ダイナミックに再構築し、教育活動を活性化させる要の一つとなる。しかし、一方で性に関わる課題を意図的に矮小化しようとする力も働いている。
本稿は、女子学園におけるジェンダーやセクシュアリティに関わる課題を提起した「女子総合学園における性的マイノリティに関る課題」(1999年3月発行研究紀要43号)の続編であると共に、第T部「女子学園とジェンダー」第U部「女子学園と性暴力」第V部「女子学園の教育と人事の課題」の三部構成とし、この一年間の社会の動きを踏まえて、それを発展的に整理したものである。今回は、新たな社会情勢を踏まえ、女子総合学園が女子専門の教育機関としてのアイデンティティーをいかに確立し得るか、社会的な存在価値を認められるための要件とは何かを、新聞記事を中心とした様々な具体的事実に即して考察していく。なお、扱った新聞は朝日・京都・読売・日本経済新聞各紙の南京都及び京都市内版である。また、紙数の都合上第U部は別立てとし、第V部は割愛となった。
本稿が、新たな価値を創造していく女子学園のあり方を、より多くの方々と共に語る一助となれば幸いである。特に、本学園についての考察については、率直な御批判やご指導を賜りたい。


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1-1ジェンダーとセクシュアリティ
ジェンダーやセクシュアリティと言う言葉は、新聞やテレビの報道のみならず、最近は書店でものコーナーが特別に設けられるほど社会的にも認知されてきた。しかし、言葉の大衆化・社会化が進むほどに、その語義があいまいになったり、特定の「色」が付けられがちである。そこであらためて、『ジェンダー』『セクシュアリティ』『セックス』と言う三つの用語の意味を確認しておきたい。【表1】は、研究紀要43号でも紹介した三橋順子氏による性の構造図である。(〈女性と心理〉第二巻「セクシュアリティをめぐって」新水社)
【表1】 (表層)

@社会的性

ジェンダーパターン
ジェンダーロール

→C対象の性

A心の性

後天的な性自認
基層的な性自認
脳の性

B身体の性

外性器の性
内性器の性
ホルモンの性

性腺の性
性染色体の性
遺伝子の性

(深層)
一般に『ジェンダー』と呼ばれるものには三つの種類がある。構造図中@の「社会的性」=ジェンダーパターン(女の子はスカート・男の子はズボンなどの性的様式)とジェンダーロール(女は家事・男は会社などの性役割)。そしてAの「心の性」=ジェンダーアイデンティティー(性自認)、すなわち、自分が男(または女)として存在しているという本人の意識。また、ジェンダーと並んで使われる『セクシュアリティー』とはCの「対象の性」=性的指向、つまり男性・女性のいずれの性が性的な欲望の対象となるかである。セックスと言うと性行為を指すことが多いがBの身体の性=医学的に判別される生物学的な性が『セックス』である。
この分類は、性の構造を理解する上でかなり有効ではあるが、実際上の生活の場での恋愛やセクシュアル・ハラスメントを考える際、またトランスセクシュアルとトランスジェンダーの違いが当事者以外にとって大きな差とならない事などを考えると、ジェンダーとセクシュアリティは区分はしがたいものと言える。これは、セックスとセクシュアリティの関わりでも同じで、同性愛とトランスセクシュアルの混同は、誤ったものにせよ一般的な「常識」であるとするならば、専門的な正確性を重んじるよりも、常識に滑り込み、その常識を変革しやすい性の把握方法を取ることも重要であろう。そこで、これらの用語の定義を高知市の「こうち女性総合センター『ソーレ』」のホームページ「ソーレ情報システム資料室」に掲載されている『マイペディア98(C)株式会社日立デジタル平凡社』を出典とした下記の用語解説を基準にして論を進めたい。
【ジェンダー】
セックスsexが生物学上のオス・メスであるのに対して,社会的・文化的につくられる〈男らしさ〉〈女らしさ〉のこと。男女の性役割や行動様式,外見,心理的特徴をいう。たとえば小さな子どもは,〈男の子は泣かないものだ〉〈女の子みたいにめそめそしてはいけません〉と叱られることによって,社会のなかで一般的なジェンダー観というものを知り,それに従ってふるまうことを学習する(これをジェンダー・アイデンティティの形成という)。
ここで問題なのは,一方のジェンダーがもう一方のジェンダーの反対でなくてはならないかのように考えられたり,ジェンダーによって二重基準が適用される場合(たとえば,男の子は少しくらい乱暴でもよいが女の子はだめ,というような場合)である。このようなジェンダー観がどのように男性中心社会を支えているかの解明が,女性学やジェンダー研究などの課題となっている。
【セックス】
  1. 生物学,解剖学的な意味での性,すなわちオス,メスのこと。人間の場合では,染色体XXをもつ女性と染色体XYをもつ男性のこと。社会においては染色体の違いとはまったく関わりなく,さまざまな男女の区分がつくられているが,これはセックスと区別してジェンダーと呼ばれる。
  2. 性的な行為。行為そのものに対し,行為に関する欲求や考え方のことをセクシュアリティsexualityという。たとえば,いつどのように行うか,誰と行うか,生殖を目的とするか否かなど。人間の性行為は本能によるものではなく,セクシュアリティに基づくものである。フェミニズムやレズビアン・ゲイ解放運動は,男性中心的なセックスや異性愛の強制から脱し,各個人が自らのセクシュアリティを決定し実行する権利の確立を目標の一つとしている。
このように、ジェンダーは、人間の歴史の中で作られてきた文化の一つで、それぞれの地域や時代でその文化や宗教を共有する人々には、それが自然なものだと信じ込まされたものである。それは多くの場合、女性の行動や権利を制限するものであるが、一方で男性の自由な選択をも規制している。男女それぞれにとって「こうあるべき」と言う縛りになっているばかりでなく、それを逸脱した場合には不利益や制裁が加えられることもある。
セックスと性自認とが一致していて自分と反対のセックスに対して性的指向の働く『ヘテロセクシュアル』(異性愛者)にとっても人間解放の障害となるものであるが、セックスと性自認は一致しているが自分と同一のセックスに対して性的指向が働く『ホモセクシュアル』(同性愛者)、セックスと性自認が一致せず性別再指定手術(性転換)を望む『トランスセクシュアル』や『トランスジェンダー』(性同一性障害者)、自分の性自認と反対にあるジェンダーパターンを時と場合によって使い分けることでアイデンティティーを保とうとする『トランスベスタイト』(異装趣味者)、あるいはセックスと戸籍上の性が必ずしも一致しない『インター・セックス』(半陰陽者)にとって、ジェンダーはみずからのアイデンティティや社会的存在までもを否定しかねない、より複雑なものいえよう。
セクシュアリティは身体と深く関わった性的な観念・感情・感覚・欲望や、それが引き起こす行為であり、全米性教育協会は「『セックス』は両足の間(性器)、『セクシュアリティ』は両耳の間(大脳)にある」と定義した。セクシュアリティもジェンダーと同じく一つの文化を形成しているが、関心の対象や表現が身体と強く結びついているところが特徴である。性にまつわる内的な作用が、恋愛や性行為という個人的な行為として機能することもあれば、文章や絵画をかかせ写真や映画を撮らせ、あるいはそれを鑑賞させる社会的行為として機能する場合もある。セクシュアリティの問題を考えるとき、次の二点に留意する事が重要と言えよう。
  1. セクシュアリティの身体性
  2. セクシュアリティの関係性
この二つの性質は、セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)を例にとって考えるとよく理解できる。犯罪は「思っている」だけでは成立せず、「した」事によってのみその罪が問われる。セクシュアル・ハラスメントは、直接身体に触れるものもあれば、言葉によって相手を傷付けるものもある。言葉による場合「セクハラは性的ないやらしい事をしたり言ったりした事だろう。デブ女・ハゲオヤジと言ったら名誉毀損や人権侵害にはなってもセクハラにはならないだろう」という意見がある。「性的ないやらしい行為」と言うのは、言いかえれば「わいせつ行為」であり、こうした限定的な性暴力を従来の刑法が強制わいせつ罪等の性犯罪として裁いてきたのは事実である。
しかし、「性」の概念は、いわゆる行為としてのセックス(性行為)と直接つながるものばかりではない。セクシュアル・ハラスメントは「もっと女らしいかっこをしろ」と言ったジェンダーに関わる強要も含め、相手の言動や姿態に関わった言葉による嫌がらせも暴力=犯罪として捉える概念である。自分が気に入らない相手を、本来の問題とは全く関係のない相手の身体的特徴をあげて攻撃する事は、人権侵害であるばかりでなく、身体的特徴を表わす言葉と性別が結び付けられ、相手が不快に感じた場合はセクシュアル・ハラスメントとなるのである。
また、「セクシー」と形容されるものも多様である。人によっては、暴力的なプロレスラーの仕種や猫の尻尾の動き、スポーツカーのシルエットも性的な興味や快感をそそるものとなる。相手の身体を求める(見たい見せたい見られたい・触れたい触れさせたい触れられたい)性欲と共に、身体にまつわる攻撃的な欲求(殴る・縛る・噛み付く)や優位性をはかるための欲求(言う事を聞かせる)もセクシュアリティと深く結びついているのである。
セクシュアル・ハラスメントの重要な構成要件は「相手が不快に思ったかどうか」と「相互の合意があったか」である(但し13歳未満の児童に対しては合意は無効)。「悪気なくちょっと触っただけなのにセクハラだと騒がれて心外だ」「相手も了解していたはずだ」「嫌だと言いながら笑っていた」と言う抗弁がセクシュアル・ハラスメントの場ではよく聞かれる。しかし、触られて不快な相手もいれば、嬉しい相手もいるのは男女を問わず、同性間においても同様である。

「自分」が悪気はなくとも「相手」が嫌な思いをしており、合意のない一方的な行為であるならば、それは加害(被害)であり犯罪となる。「自分の妻や娘が、他人の男性からされて嫌だと思う事はやめなさい」というセクシュアル・ハラスメント防止の呼びかけに端的にも表れているように、セクシュアリティは、相手に対する自分の欲望と同時に、相手との関係性が重要な問題となるのである。ただ、この言葉も「自分の愛する人の人格が傷つけられることに対する抵抗感」ではなく、「自分の所有物が他人に犯されることへの怒り」でしかなければ、後者もまたセクハラの加害者側に居るといえよう。セクシュアル・ハラスメントか否かの項目に神経質になっている男性を風刺したマンガもまま見られるが、その滑稽さは、男がオロオロしている情けなさにあると同時に、自分が訴えられる事を恐れるばかりで、自己の加害性と相手の人格にあくまで気付かない自己本位性(自分勝手)にある。
『セックスレス・カップル』(性交渉をしない夫婦や恋人)や『ドメスティック・バイオレンス』(妻や恋人に対する性暴力)の根底にも、他者との関係性の欠落や歪みが潜んでいると言えよう。『マスターベーション』(自慰行為)であっても、そこでは単に身体的な快楽を得ているのではなく、そこにはフィクションとしての対象が存在し、あるいは自己の意識や身体がセクシュアリティの対象として対象化されているのである。セクシュアリティは個人の問題であるようで、実は他者との関わりの中でしか存在し得ないものである。
セクシュアリティは、本来は異性間・同性間を問わず、個人の内面においても人間関係においても日常生活を豊かにするものである。しかし、社会的なジェンダーの作用や個人の生育歴の影響を受け、『セクシュアル・ハラスメント』や『ドメスティック・バイオレンス』、『児童ポルノ』などの児童虐待や『売買春』など、性暴力(犯罪)や性の商品化につながる危険を伴っている。特に現在のセクシュアリティに対する一面的かつ一方的な社会の理解は、差別や偏見を生み、『クィア』(性的マイノリティ)にとって、自らのセクシュアリティの在り方が自他双方からの人格否定につながりかねないことにも留意すべきである。


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1-2 フェミニズムとジェンダーフリー
『フェミニズム』は男女同権・女性解放・女権拡張主義とでも訳されることが多いが、なにやら男を追いやり陥れる魔女の思想か、女が振りかざすヒステリックで目障りな玩具のように受け止める者もいる。『フェミニスト』も同様で、「抑圧されてきた女性の諸権利を拡張し、男女平等社会を目指すための研究や実践をする人」と言う意味であるが、マスコミの一部や巷の会話では、フェミニストと言う言葉は必ずしも好意的には使われていない。特に男性週刊誌やバラエティ番組などでは「女性のフェミニスト」は金切り声を出す理屈っぽくてうるさいタイプか、男をものともせず無作法に振る舞う女傑であるかのように描こうとする。また「男性のフェミニスト」は女に媚びを売るキザなタイプか、なよなよと女に頼る軟弱なタイプに描きたがる。しかし、この裏を返せば、「男に対して一歩引いた従順さと無知な可愛らしさ」を女に求め、男には「リーダーシップやたくましさや理知」を求めていることに他ならない。
フェミニズムの論者や実践者を茶化すことで、その思想を無力化しようとする男性は、弁解がましく自分は差別などしていないと口先で言うか、開き直って男はエライに決まっている放言し、自らの行いを当然かつ自然なことと主張する。それは既得権を失うことを恐れ、男性であると言うことにおいてのみ誇れる優位性を脅かされることにおびえるジェンダーの虜そのものである。そして、「男らしさ」というジェンダーの呪縛によって生き方の選択の幅を狭め、自らの人間性を解放できずにいることに気付かない「男」の姿である。
フェミニズムは、男権を女権に置き換えようと言うものではない。また、従来の性役割を肯定したまま摩擦が起きないように男女の住み分けをはかろうとするものでもない。今まで天然・自然・当然のものとされていた性差が、実は男権の拡張に伴って文化的・社会的・歴史的かつ政治的に作られてきたものであることを明らかにし、性役割の根幹にある性差別=支配関係をただし、男性女性ともに家庭・社会のあらゆる場面で対等平等なパートナーシップを築こうとするものである。さらに、ジェンダーフリーの理論・運動の目標は、両性を女性化することでも「中性化」することでもない。性差別を乗り越え、既製の性差に捕らわれず、性や人生の選択を個々人が自己決定し、個々の可能性を追求し得る自由が保障された社会を創造することにある。
ジェンダーに囚われているのは何も男性ばかりではない。「女だから○○できない」と自ら可能性を閉ざし、「女なのに○○できない」と自己否定の淵に沈んでいる女性は少なくない。さらに、さまざまな性のありようによって立つクィアは、その男女に関わらずヘテロセクシュアル(異性愛者)と同等の権利すら保障されておらず、二重の差別を受けていることは、1998度の研究紀要に具体的事例や課題について触れた通りである。
こうした「性」の構造や、それに関わる問題と向き合う上で、ポイントとなるキーワードは次の三つである。
  1. 性の連続性
  2. 性の多様性
  3. 性の自己決定と共生
「自らの人格を肯定的に捉え、自らの決定で人生を選択することができる。」
この当たり前の事がいかに現代の社会でも困難であるか。男か女かと言う「性の二分法」は、人間そのものやその生活・文化・社会を考察する上で、絶対的な基準であると思い込まれてきた。しかし、セックスにおけるインターセックスの存在、セクシュアリティにおけるホモセクシュアルの存在、ジェンダーにおけるトランスジェンダーの存在を、生物学的にも社会学的にも肯定的に捉えるならば、男女の区別を強調することよりも、性の多様性を尊重することが重視されよう。「性」は人間の生活と抜き差しならぬ関係を持つだけではなく、個人にとっても社会にとっても文化構成する重要な要因である。
「セックスは突っ込んでイカセルことだ」「オカマは変態だ」「女なら女らしくしろ」「女のミサオを守れ」「妻は夫に仕えるものだ」「子どもを産むのが女の幸せ」「母親なら子どもがかわいくないはずはない」etc.性をステレオタイプなワンパターンに押し込めることは、人間の多様性を否定することであり、人格を傷つけ、人権を侵害することであり、時には犯罪ともなる。
教育の目的が文化的な生活を創造し、互いの人権を尊重し合える社会を実現するための知恵と技術を育てものであるならば、「性」についても、一人ひとりの生徒・学生が「性的存在」としても尊重され、その性的人権=セクシュアル・ライツが守られるカリキュラムや制度を作る事が課題となる。
そこで、「ジェンダー」がどのような場面にどのような形で潜み、「セクシュアリティ」の問題とは何なのかを、「学校」にまつわる題材を中心に再検証していきたい。


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1-3 「性」にまつわる1999年の動きの特徴 法整備と共学化
1999年は21世紀を間近に控え20世紀の再点検と新たな価値の創造に向けた議論が活発に行われた。そして「性」にまつわる課題については、4月1日の改正男女雇用機会均等法施行によるセクシュアル・ハラスメント防止の義務化やポジティブアクションの許容、5月18日の児童売春・児童ポルノ禁止法成立、6月15日の男女共同参画基本法成立など、法整備の面で重要な節目となる年となった。
その一方で2月27日には男性による「DV(ドメスティック・バイオレンス)防止プロジェクト」が発足し、「暴力を振るわない男としていきるために」をテーマにした記念集会が行われた。また、11月10日には同性愛を含む性的マイノリティのための総合雑誌『クィア・ジャパン』が創刊されるなど、「性」にまつわる多様な動きが活発に展開された。
また、児童生徒の性に関る問題に対する社会の目も急速に変化し、「日本子どもを守る会」が編纂している『子ども白書』も「“性”と子どもの人権」が中心テーマとされた。学校教育の場においても、文部省がセクシュアルハラスメント防止規定をまとめ、各教育委員会から各校に通達が出されるなど、従来とは違った形での性に対する対応が始まった。
さらに、少子化への対応も重なり、男女別学校の共学化が大きく進んだ。朝日新聞1999年12月20日朝刊の報道によれば、全国の私立高校における別学と共学の学校数は1996年度は689校:598校だったが、1999年度は616校:675校と逆転した。2000年度には新たに兵庫県で三つの女子校が共学となり、大阪府では10校、京都府では5校が男女別学から共学となることが決定した。この結果、京都府内の私立高校39校中20校が共学校となる。また、朝日新聞1999年12月28日朝刊の広告にも掲載されているように、神戸松陰女子学院大学は大学院の文学研究科を男女共学として開設するなど、大学においても単なる学部学科の新・増設にとどまらない動きが進んでいる。
こうした男女共学の拡張は、ジェンダーフリーの進展として歓迎される向きもある。しかし、生徒確保が先行した安易な共学化は、その学園のアイデンティティーを崩壊させかねない危険を伴っているばかりでなく、ジェンダーロールの再生産に終わりかねない。
京都女子学園においても、1999年度に学園全体でセクシュアル・ハラスメントの防止に関する制度検討準備委員会が発足し、大学では旧来の「女性向」学部の枠を超えた現代社会学部が2000年度に開設される。中高校では入試制度の一部変更、学校像委員会の提案による新カリキュラムの実施など、学校の改革が進められている。それらがセクハラ訴訟や少子化に伴う入学者減少への対症療法に終わらず、女子の総合学園として女子教育のあり方を提案する総合的な政策につながっていくかは未知数である。女子学園にとってのジェンダーとセクシュアリティの課題を明らかにし、社会的な存在価値を高めていく手掛かりを見つけていくための視点をいくつか提示していきたい。


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2 新聞記事と広告に見る女子学園とジェンダー
2-1 1999年の新聞記事に見る女子大の動き 学部新設ラッシュ
これまで述べてきたジェンダーやセクシュアリティについての認識の変化が、女子学園においてはどのように意識されているのだろうか。それを、新聞記事と新聞広告等から探っていきたい。1999年は、京都でも中高校の共学化や大学での新学部学科新設が目立ち、新聞各紙もその動きを伝えただけでなく、そうした「変身」を印象づけるための新聞広告が新聞紙上をにぎわした。特に、全国的に多くの学生を集める女子大学である京都女子大学・同志社女子大学・ノートルダム女子大学の動きは次のように報道された。

1999年1月25日付読売新聞朝刊
見出し 「短大の廃止・縮小続出」「少子化対策で同志社女子大など」「2000年度4年制改編目立つ 全国で35校に」
記事抜粋
十八歳人口減少の中、文学、家政といった「花嫁修業」的な短大より、四年制で専門的な知識を身につけ働きたいという女子学生を狙った生き残り戦略。各大学は「国際」「情報」「語学」などをキーワードに、社会での“即戦力”養成のカリキュラム作りを急いでいるが、「教育の多様性が失われる」と危ぶむ声も出ている。2000年度に募集停止となる短大は十二校。規模を縮小するのは二十三校。評論家・俵萌子さんの話「女性や親の立場から短大を廃止すべきだとの声は聞いたことがない。短大を出てコンピューター専門学校にいく人もいる。短大を残し、四年制への編入を容易にするなど選択肢を多様化させる方が良いと思う」

1999年11月21日付朝日新聞朝刊
シリーズ「タフ&エレガント京都発21世紀第5部 だいがくのまち6」
見出し 「新学部設置を競う女子大」「『お嬢様』シフトから高学歴志向対応へ」
記事抜粋
「現代社会学部」来年四月、同志社女子大学と京都女子大が、同じ名前の学部を開設する。大学の案内には、「知的に元気な女性、求む」(京都女子大)、「タフでエレガントでなければ、21世紀は乗りきれない」と見出しが躍る。学科内容は多少違うが、「実社会に出て即戦力となる人材を育てる」というイメージは共通している。

二大学が同じ時期に社会科学形の学部を新設するのは、陰りを見せた女子大人気と無関係ではない。少子化と女子学生の高学歴志向が高まる中で、女子短大は女子大以上に厳しい状況に置かれている。同志社女子大短期大学部は、来春の新入生募集をやめる。京都女子大学短期大学部も来春から入学定員を約半分に削減する。いずれも四年生の新設学部「現代社会学部」の定員に当てるためだ。女子大は戦国時代を迎えようとしている。

1999年12月15日付京都新聞朝刊
見出し 「“脱”短大 京の女子大、進む実学志向」「同女4年制に1本化京女現代社会学部新設ノートルダム4学科に再編」「少子化の流れ受け」
記事抜粋
少子化の流れの中、京都の女性教育は「人文、家政の教養」から「四年生の専門知識」へ、一層様変わりが進みそう。同志社女子大学は京都学、観光学など四コースを設け、社会で活躍できる力を育成するという。

京都女子大は短期大学部の定員を縮小し、削減分を四年生の現代社会学部に割り当てる。京都ノートルダム女子大も人間文化学科や生涯発達心理学科などを新設。こうした改組改編の背景には、十八歳人口が減少するなか、短大、文学部離れや、四年制大・実学志向がすすむ女子学生を確保する戦略があると見られる。
同志社女子大の大橋寿美子学長は「魅力的な大学にするには、伝統的な女子大のイメージを打ち破る必要がある。社会を変革するような実力のある学生を送り出したい」とし、京都女子大の山田弘之広報室長も「単一の学問分野ではなく、複合領域を学び、問題解決能力のある学生を育成したい」と意気込みを見せる。関西文理学院の水上亨男課長は「人文、家政中心だった京都の女子大に、社会科学系の学部を開設するのは新たな試み。しかし、女子大そのものが受験生に敬遠される傾向が進んでおり、新設学部でどれだけ学生が集められるかは疑問だ」と話している。


上記以外にも京都近辺の女子大に関しては、次のような報道もあった。

1999年2月11日付京都新聞朝刊
見出し 「大学コンソーシアム京都 京都女子大も参加 全私大足並みそろう 事業充実で判断]
記事概略
京都を中心とした大学や短大でつくる「大学コンソーシアム京都」に唯一、私立大として加盟していなかった京都女子大が、4月から参加することを決めた。京都女子大は、京都大学センター発足後、学内に「大手の有力大学主導ではないか」との声があり参加を見合わせていた。瓜生津学長は「大学を取り巻く情勢は厳しくなる。各事業を利用していきたい」と話している。


1999年9月3日付朝日新聞夕刊
見出し 「平安女学院短大などネット入試を導入」
記事概略
平安女学院短大が来年度入試で、電子メールで受験生の作文を受け付け、コメントをやり取りする「インターネット入試」を実施する。少子化の中、入試でも特色を出していこうという試みだ。愛媛県の松山東雲女子大も、志願者との間で電子メールをやり取りする「インタラクティブ入試」を予定しており、インターネットを使った入試は今後増えそうだ。

1999年10月16日付朝日新聞朝刊
見出し 「文化政策学部2001年4月開設 京都橘女子大」
記事概略
新設の京都橘女子大学の文化政策学部の入学定員は百三十人。@公共政策A経済・経営B資源開発に関する文化領域を研究する。地元企業や自治体から特別講師を招いたり、文化政策研究センターを設けたりする。

1999年11月18日付朝日新聞夕刊
見出し 「博物館と京都橘女子大が提携」「解説ボランティアで単位を取得」
記事概略
京都国立博物館で開催中の「花洛のモード・きものの時代」で、展示品の解説をするのは京都橘女子大学の学生達。解説ボランティアは文学部文化財学科の三年生二十七人と歴史学科の四年生九人。博物館学芸員の資格を取得する「博物館実習」の一貫だ。今年三月、同大と同博物館が教育・学術交流提携をしたため、実現した。

1999年12月1日付京都新聞朝刊
見出し 「放送大と単位協定 京都文教短大も 府内で5校目」
記事概略
京都文教短期大と放送大は、同短大で単位互換についての協定を締結した。放送大との単位互換協定締結は立命館大、龍谷大、成安造形短期大、聖母女学院短大に続いて府内五校目。短大の学生が学べるのは、放送大が設けている心理学や福祉関係の授業八科目。


こうした記事から浮かび上がるのは女子大の「少子化対策」と女子学生の「実学志向」にそった「社会科学系学部の新設と短大縮小」による学生確保の動きである。ここで問題となるのは、「女子専門の高等教育機関」としてどれほど明確に女子教育に対する姿勢や戦略を持ち得ているかである。その姿勢を、同女大と京女大で単純に比較すると次のように言えよう。

両校は共に現代社会学部を新設するが、記者のインタビューに応えた同女大学長の「伝統的な女子大のイメージを打ち破る必要がある。社会を変革するような実力のある学生を送り出したい」という姿勢と、京女大の広報室長の「単一の学問分野ではなく、複合領域を学び、問題解決能力のある学生を育成したい」という姿勢には、意識の差が見え隠れする。教育対象である学生をより肯定的に、より積極的に「女性」として認識しているか、自らの大学を「女性」が学ぶ場として位置づけているかという違いである。


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2-2 新聞広告に見る女子大 全面広告の中のジェンダーロール
前項で考察した女性に対する大学の認識を、さらにいくつかの大学の新聞広告を比較分析することでさらに検証していきたい。その際の視点として、ジェンダーロール=性役割に注目したい。一般にジェンダーロール(性役割)は次のように説明されている。
【性役割】
性別による分担のこと。英語ではgender roles,sex roles。フェミニズムのなかで生まれた分析概念で,人が社会で一般的だと思われている〈男性らしさ〉〈女性らしさ〉というイメージに従って行動するとき,その人は性役割を演じているという。このように人は与えられた役割を〈演じる〉ものだというとき,前提となっているのは,男らしさ,女らしさというのはその人の持って生まれたものではなく,社会や文化の求めてくるもの(ジェンダー)であり,時代や場所によって変化するものだという観点である。性役割は労働の分担から日常の所作に至るまで,社会の隅々まで浸透している。
性役割というもの自体がなくなるべきかどうかについては,さまざまな意見があるが,性役割という考え方が強制的にはたらき,二重基準が適用されるなら,それは性差別であり,男女平等に向けて是正される必要がある。(『マイペディア98(C)株式会社日立デジタル平凡社』より)
2000年1月5日付朝日新聞朝刊に掲載された京都女子大学の見開き全面広告を筆頭に、1999年の秋から2000年の年頭にかけて例年以上に多額の費用をかけた大学の広告が目に付いたのは衆知の事実である。そうした広告は専門の広告会社が介在しているとはいえ、それぞれの学校が意識的に語ろうとしたものだけでなく、無意識に現れてしまうメッセージが読み取れる。その中には、ジェンダー意識やその大学が持っているジェンダーロールに対する姿勢も含まれる。また、広告をじっくり読み込む新聞読者は少ないため、感覚的・直感的に伝達される内容が極めて重要な意味を持つ。それらを踏まえて、女子大・短期大学を中心に新聞広告の言語及び非言語的表現を見ていきたい。
1999年12月31日付朝日新聞朝刊に広告を掲載した『芦屋学園』は、幼稚園と中・高・短大・大学がある総合学園であるが、中高普通科と短期大学が女子別学である。その併設各校のコピーは次の通りである。
中学「大学までの一貫教育の中で『知』と『徳』の育成」
高校「自由とやさしさの中に、節度と厳しさのある教育」
短大「よき妻、よき母、よき社会への貢献者を育成」
大学「創造力、独創力を育み、実践的な能力を開発」
総合学園としてのメリットを示しながらも、特に短期大学のコピーには伝統的かつ保守的な女子教育のメッセージが直接的に示されており、ジェンダーロール(性別役割分業)を肯定的にとらえている学風がうかがえる。
2000年1月16日付朝日新聞朝刊に掲載された『堺女子短期大学』と『白鳳女子短期大学』の広告では、他大学への編入が強調され、女子の高等教育機関であることや二年制の短大であることが積極的には位置づけられず、大学へステップアップするためのワンステップとしての短大価値が前面に出されている。短大離れに対する必死の生き残り策ではあるが、短大離れの背景にある女子の高学歴化が、これまでのジェンダーロールを乗り越えていこうとする女性の意識変革に押されているものであると言う認識が薄い。こうした短大は、少子化で苦戦する予備校とともに、特定の技術や実務を学ぶ専門学校へと姿を変えて行きかねない。
図1は、2000年1月13日付朝日新聞朝刊に掲載された『池坊短期大学』の広告である。京都という立地条件を最大限に生かせるように学科を改組し、伝統的な日本文化と国際化の接点を強調してオリジナリティを出そうとしている。また、プロのモデルではなく在学生を登場させる事で親近感をもたせようとする意思は感じられるが、男女双方を募集しながら載せられている写真は三人の女性であり、そこに付けられた吹き出しの下記のコピーはジェンダーの呪縛を強く感じさせるものである。
「もっとおしとやかに日本の心を知りたい」
「インテリアプランナーの資格も取りたい」
ここには社会的に作られた女性「らしさ」や女性の「得意」分野の刷り込みがあり、教育の中に隠されたジェンダー・バイアス(性差による意識や権利の偏り)がそのまま踏襲されている。世界に誇り次代に継ぐべき日本の伝統と、世界の潮流として乗り越えるべき日本の伝統が混在しているといえよう。
図2は1999年12月23日付朝日新聞朝刊に掲載された『京都精華大学』の広告である。共学校ではありながら学生総数の3分の2を女子学生がしめ、池坊短期大学と同じく「環境」と「文化」を看板に掲げてはいるが、その依って立つ足場はかなり異なっていることが、広告の作りにも如実に表れている。
「『地球にやさしい』なんて、いわない。」
笑顔を浮かべて川の流れに立ち、バケツで水を汲む「開発途上国のカラードの女性」を画面中央に配し、はやりのフレーズに対するアンチテーゼをタイトルにしている。
図1 『池坊短期大学』
図2 『京都精華大学』
「『地球にやさしい』と言う便利な言葉の裏には、人間の傲慢さがないだろうか。」
「自然に近づき現実から学び取って社会に働きかけるリアルな学問。それがいま始まろうとしている。」
こうした主張を掲げ、二つの新学科をスタートさせる京都精華大学の取り組みについては各紙も注目している。
1999年4月25日付朝日新聞朝刊
「大学全体でエコ推進 ISO認証年内申請も」
1999年10月27日付京都新聞夕刊
「京都精華大来春新設 竹宮惠子さん芸術学部教授に マンガ学科で物語構成など指導 環境社会学科には嘉田由紀子さん」
1999年11月16日付朝日新聞
「ひと」欄 竹宮惠子
1999年12月15日付京都新聞朝刊
「環境マンガで論文、NGO推薦 入試選考ユニークに 京都精華大環境社会学科」
2000年1月6日付京都新聞朝刊
「実行すれば食券と交換 ゴミを分別、電気を消す…環境パスポート 京都精華大生が制作」
環境社会学科の新設に伴って学校のあり方自体を問い、大学本部だけでなく大学生とも連携した取り組みが進め、入試制度自体にもその理念を反映させていることを評価し、社会的に著名な女性教授陣を配置したことが注目されている。広告の写真とコピーに表わした「環境と文化、現代と女性のとらえ方」が、大学の実践や評価に直結している事例の一つと言えよう。
図3は、1999年9月15日付朝日新聞朝刊に掲載された『大阪女学院短期大学』の広告である。「藤岡さんの生き方を変えた2年制大学」と題して、母と娘で学ぶエピソードを対談形式で載せている。
娘「良妻賢母の代表みたいだったお母さんが、奈良女子大学で黒人文学を研究しているでしょう。」
母「じぶんの興味を追いかけていくようになったのは、大阪女学院の英語だけでは終わらないすごいカリキュラムで学んだおかげだと思う。最初から、4年制大学にいくのもいいけれど、大阪女学院で英語をしっかりやってからでも遅くはない」
大学への編入を前提にしているとはいえ、「2年制大学の時代へ」と呼びかけ、語学に絞っている偏りはあるものの、大学の主要な課題である「研究活動」が、女性の生涯学習の観点から提言されていることは新鮮である。
生涯学習は1965年にユネスコが提示した教育観である。1981年には日本でも中央教育審議会が生涯学習についての答申を行い、1990年には「生涯学習振興法」が制定されている。生涯学習の場や機会の整備は、自治体などの取り組みで社会教育の場面ではかなり進み、それが各地の「女性センター」設立にもつながっている。
既存の学校での取り組みでも、社会人入学制度や、公開講座の拡充に努めている大学も増加している。その流れの中で、女性のしめる役割やそれを求める女性の需要は大きい。今なお企業戦士として明け暮れる男性が多い中で、専業主婦を中心とした女性の学習意欲は高く、一時期のカルチャーセンターブームを乗り越えて、今や高等教育機関や専門教育機関で学習している女性の数は相当数に上っている。そうした女性のライフスタイルや意識の変化をどれほど意識するかが、女子大学として存在し続けられるか否かを分ける重要な要素となってきていることを、この広告は示していると言えよう。
図4は、1999年12月26日付京都新聞に掲載された『平安女学院大学』の広告である。「現代文化学部」に現代福祉学科と国際コミュニケーション学科を置いた大学を開設する広告のメインコピーは「人々とともにいき、社会と世界に貢献できる人間を育成します」であり、本文には女子大学として新たに開設する趣旨が明快に述べられている。
「21世紀は、女性が地域社会で活躍する時代です」
「21世紀は、女性が国際社会に飛躍する時代です」

 
「平安女学院大学は、地域社会と国際社会に、生き生きと関っていける人を育てます」
バックの写真の白鳥は、「女性的」なるもののステレオタイプな表現ではあるが、逆光に浮かび上がったシルエットが飛び立つ様を捉えたところに、新たな女子大学の意気込みが感じられる。短大だけでは学生が集まらず、系列中高校も含め、学校の存在自体が危ぶまれると言う危機感が大学の新設を決意させたのではあろうが、女子大離れと少子化の波の中で、共学の大学ではなく女子大を新設することは大きな賭けといえる。
図3 『大阪女学院短期大学』
図4 『平安女学院大学』
1999年9月18日付京都新聞朝刊
「母校の“赤れんが”残して 老朽かすすむ平安女学院の明治建築校舎 保存訴え生徒らパレード」
これは、1895年に建てられ老朽化が進んで立ち入り禁止となっているが、学園の象徴とされてきた建物を、卒業生・市民グループ・在校生が一体となって「明治館ルネッサンス」を結成し、建物を補修し保存しようする運動を紹介した記事である。別の記事では、また、大学の開設に伴い、平安女学院高校の在校生が京都から滋賀県守山までリレーで走り、大学開設をPRする取り組みも取り上げられた。
こうした在校・在学生を巻き込んだ運動は、生徒の宣伝利用と批判される向きもあろうが、学園全体が一体となっていて、社会に向けて開かれていることをアピールする効果は大きい。地盤沈下が囁かれる平安女学院ではあるが、こうした記事に紹介された動きは、広告の白鳥の写真と重なり、社会に向かって社会とともに飛び立とうとする女子学院の意思を伝えていると言えよう。
世紀の変わり目にあって、自校のアイデンティティを再確認・再構築しようとする姿勢は、特に宗教系の学園で重要な課題となっている。
2000年1月10日付京都新聞朝刊に掲載された『家政学園』の広告では、文教大学大学院開設の趣旨を示す「羽ばたこう、開かれた心の世紀へ。」のコピーとともに
「法然上人の精神に基づく人間教育の場」
「創立の精神の発展と深化を目指し」

「グローバルな精神を養う人間教育を目標」
といった説明が加えられ、仏教系の学園であることを明確にした上、次の見出しを一番上に配して、総合学園であることを強調している。
「京都文教に集う人間教育の6つのキャンパス」
大学の宣伝とともに単純に並べられた各校の紹介は、デザイン的に優れているとは言い難い。しかし、一つの崇高な教育理念を持ち、大学と各校が一体となって一つの女子学園を形成していこうとしているというメッセージは伝わってくる。
2000年1月22日付朝日新聞朝刊に掲載された『仏教大学』の広告には、臨床心理学科と健康福祉学科の開設に際して、「仏教精神を体した活動力ある人物の養成に努めます」というコピーとともに、
「生き方について考える時、ヒントとなるのは何でしょうか。仏教は、人間真理に関して、膨大な体系を築いています。」
「仏教精神による人間形成を実践し、二十一世紀を切り開く人材を養成します」
として、仏教系の学校であることの価値を積極的に訴えている。
こうした宗教系大学のアイデンティティを問う新聞報道に、『大谷大学』と『龍谷大学』の政策が紹介されたものがある。
1999年11月17日付朝日新聞朝刊
シリーズ「京都発21世紀第5部 だいがくのまち2」
見出し 「京都ブランドにかげり 若者の仏教離れ 少子化追い打ち」
記事概略
拡張路線を歩んできた龍谷大学は、同じ学部を7回まで受けられる入試制度を採りいれながらも99年度の受験者は1割以上減った。大谷大学では、受験生の減少の中、「大谷大学は(宗門のための)人材養成機関である」と結論を出し、宗派から45億円の支援を受け、総額95億円をかけて真宗学や仏教研究の研究拠点として情報センターを建設し、社会人向けの公開学習機能も持たせることになった。
仏教・キリスト教を問わず、多くの宗教は女性の解放にとって大きな障害となってきた。宗教上のジェンダーが女性の行動規範となり、その活動を制限してきたばかりでなく、女性は男性よりも劣った存在であると言う意識を強力に形成してきた歴史がある。イスラムの一部では、いまだに女子割礼(性器切除)が施されるなど性暴力がまかり通り、女性の参政権さえも認められていない国もある。そうした中で、宗教系の女子大学が「建学の精神」や「仏教精神」を前面に出すことはもろ刃のやいばともなる。家政学園の広告は、一般的な人間教育にしか触れていないが、人間教育の「人間」が男性のみを指すものでしかなかった歴史と、「教育」がこれまでのジェンダーの縛りを再生産するものでしかなかった時、女子学園は存在を否定されかねない。現代社会の女性の生き方や女子教育において、仏教や仏教系女子総合学園が果たすべき役割は何かということが問われている。
 図5は、京都女子大学が朝日新聞に見開き全面広告を掲載した2000年1月5日と同日に、読売新聞朝刊に掲載された『同志社女子大学』の広告である。ここでは、一人の女性の決意をコピーにしている。
「タフに、エレガントに。私は夢をかたちにしていきたい。見てて。やるわ!」  図5『同志社女子大学』の画像
4月から開設される現代社会学部社会システム学科の宣伝よりも、男性に対する形容としてのみ使われてきた「タフ」とともに、女性的な形容とされてきた「エレガント」を組み合わせることで、これからの女性のあり方をメッセージの中心に置き、同志社女子大の「女子大としてのイメージの変革」をアピールしている。『週刊マーガレット』に連載された「花より団子」のキャラクターに「これからの私見てて!」と言わせることは、伝達対象を単なる受験生としてではなく、「女性」として強く意識した広告表現であるといえよう。
新学部開設に伴い、同志社女子大学は京田辺のキャンパスに新たなコミュニティーセンター「友和館」を建設している。その紹介記事が次の二つである。
1998年12月8日付京都新聞朝刊
見出し 「市民も利用OK 同志社女子大・田辺校地 大学会館明日起工」
記事抜粋
学生のキャンパスライフだけでなく、ホールや多目的スペースでの講演会や演奏を通じて、市民も利用できる施設を目指す。コミュニティーラウンジ(328u)や食堂(557u)など大学会館の機能をそなえるほか、150人収容の他目的スペース(267u)やエントランスホール(191u)を設ける。入試広報課は、「コミュニティラウンジや多目的ホールでは、広く外部に公開した講演会や音楽演奏会なども積極的に開きたい」としている。


2000年1月6日付京都新聞朝刊
見出し 「同女大の新館8月末完成へ 『友和館』建設進む」
記事抜粋
新設される現代社会学部社会システム学科は、京都にちなんだ観光学や国際ビジネス、新しい男女の生き方を考えるライフマネジメントなどに力を入れ、他大学との違いをアピールする。大橋寿美子学長は「現代社会に起きている問題に目をむけ、そこで活躍できる女性を育てたい」と話している。
現代社会に開かれた女子大としての新学部開設と新校舎建設の理念や設計と広告表現とが一致しているため、新聞広告が訴える同志社女子大学のメッセージはより説得力を持つものになってくる。
図6は、1999年12月27日付朝日新聞朝刊に掲載された『京都女子大学』の広告である。この広告には、一見して分かるように、極めて大きな特徴がある。
「京都女子大学の2000年対応。」 「2000年4月現代社会学部誕生」  図6『京都女子大学』の画像
大学名と新学部が開設されることは明瞭に分かるが、コピーからは新学部が何を目指しているかというメッセージが伝わってこない。記事の見出しにも「女性」の文字はなく、細かな字で埋め尽くされた紙面をすべて読んでも「女性」という文字が出てくるのは、本文の約240行中次の二ヵ所のみである。
「『自由な発想』と『行動する知性』をそなえた女性の育成をめざしています。」
「学外から新たに迎える専任教員は30名。その三分の一は女性です。」
紙面の中央には、女性でも人でも生き物でもないデスクトップのコンピュータである。このことがこの大学の在り方についてのメッセージを放射している。
また、文中の「短期大学は決して廃止しません」「あえて『コース制』はもうけていません」という説明は、短大を廃止しコース制をとる同志社女子大を強く意識したものであろうが、読者はこうした対抗意識よりも、京女大独自のオリジナリティの在かを知りたいのではなかろうか。
京都女子大学の広告は、現代社会学部の開設をアピールしようとするあまり、意図的に「女子大らしさ」を隠すと同時に、結果的に学問を行う主体である学生や教員の「人間らしさ」「人間臭さ」をも切り捨ててしまった印象を与えている。共学校化や少子化の波の中で生き残りをはかる切り札として新学部や新校舎を作っても、そこに集う人間をイメージし、女子大学としてのアイデンティティを確立していかなければ、多大な努力が実を結ばなくなるのではないかという危惧を感じずにはいられない。
こうした京都女子大学の新学部開設とともに、新聞報道されたのは「錦華殿」の再建である。

1999年1月27日付京都新聞朝刊
見出し 「京都女子学園 旧大谷光瑞邸再現へ 」「再びシンボルに…欧風建築の趣き生かし」「結婚式ができる貴賓室も」
記事概略
17年前に解体された京都女子学園のシンボル「錦華殿」が再建される。錦華殿は、結婚した光瑞氏の住居として、1898年ごろに西本願寺の庭園内に建てられ、1919年現在のキャンパスに移築され学園本部や図書館として利用されていたが、老朽化が進み1981年に解体された。再建される建物は鉄筋コンクリート二階建て(地下1階)延べ870u。山田法人本部長は「純正調オルガンなど学宝を保管・展示するほか、結婚式もできる貴賓室も設ける。卒業生にも喜んでもらえるはず」と話している。

学園の歴史を大切にし、学園のアイデンティティを確固たるものにする手立てとして錦華殿は建設されていることがこの記事からは読み取れる。しかし、その再現は、平安女学院の保存運動のように学生や生徒もや市民とも協力した運動によるものではなく、同志社女子大学の友和館のように学生や市民に対して日常的に開かれたものでもない。また、学部新設に伴う学舎建設を市民や学生と連帯した環境保護運動に結び付けた精華大学の取り組みとも異なる。歴史や伝統を尊重するとともに、現代社会において女子学園がどのような役割を担うべきかと言う視点が希薄であると言わざるを得ない。
さらに、「結婚式」が女性を引きつけ、夢を与えるものとなるに違いないと言う思い込みは、女性のライフスタイルに対する旧来のジェンダー意識そのものである。男性が主導的に運営し、女性を男性の視点でしか見ることができない大学であればこそ、現代社会学部を開設するにあたって結婚式に使える建物を再現するというずれが生じる。このことが、新聞広告やパンフレットの表現にも現れていくのである。
また、今年度の京都女子大学の広告が従来の同大学の広告と大きく異なる点は、これまで学内で盛んに唱えられていた「建学の精神」「仏教精神」「親鸞精神」「心の学園」の文字が、あの膨大な文字情報の詰まった広告紙面上に一語も書かれていないことである。「女子大離れ」の上に「仏教離れ」の波をかぶっていることを考えれば、京都女子大学が「女性」とともに「親鸞」の文字を意図的に隠す事は妥当かもしれない。
しかし、そうしたスタンスは、仏教系女子大としてのアイデンティティを希薄にし、「宗教」と「ジェンダー」とをダイナミックに結び付けた、オリジナリティあふれる女子大の創出を困難にするばかりか、「人間を育てる視点」すらをも見失い兼ねない。その危険性を広告のコンピュータが暗示しているようには見えないだろうか。かと言って、仏教や親鸞を振りかざすことが売り文句になるはずもなく、単に保守性を維持し権力を維持し権威に頼る方便でしかなければ「人間教育」も寝空言にしかならないことは言うまでもない。
親鸞精神を現代に生かす道を探ることは、現代の女性の解放と、あるべき男女共生の社会の創造に大きな道を開くものである。それを積極的に位置づけることがジェンダーの視点からみても京都女子学園のオリジナリティを高めることになるのである。また、幼稚園から大学院までを有する総合学園は女子大学に多い。それを再認識し、その可能性を具体化していく事こそ、京都女子学園が女子学園として社会的価値を高めていく手立てではなかろうか。
京都女子大学が1998年12月6日付京都新聞朝刊1面に出した広告は、大学の広告でありながら、中高の入試日程がその大部分を占め、ともに並んだ各大学の公開講座やシンポジュウムへの参加を呼びかけた広告と見比べると残念ながら見劣りがした。それから一年たった今年度の広告は見開き全面広告で新設学部を大々的に紹介すると言う派手さを示したが、「女子」の「仏教系」「総合学園」という社会的な価値を再認識し、それを自信を持って世に訴えるものにならないことが、重ねて残念である。


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2-3 パンフレットに見る女子大 ジェンダーパターンが表わすもの
女子校・女子大の共学化や社会科学系の学部増設の流れの中では、ともすると生徒・学生の確保ということが優先され、女子学園としてのアイデンティティが見失われがちになる。「男性と同等の」あるいは「女性であることを意識せず」という姿勢は、一見進歩的であるようだが、実は過去から現代に渡る男性優位の社会を追認し、そこに隠されてきた問題を隠蔽することにもなりかねない。現代の状況を直視し、未来に渡って男女それぞれが抱えた課題を乗り越えるべく制度が改善され、教育においても必要な配慮が為されることによってしか男女の平等性は確保されない。大阪女子大助教授の木村涼子氏も述べているように、女子大の単純な「無性化」は自己否定につながりかねず、関西文理学院の水上亨男課長が危惧するように、女子大離れの歯止めとはなり得ない。
前項では、いくつかの大学の新聞広告からこうした問題を見てきたが、ここで、同じ年度に同じ学部を開設する同志社女子大学と京都女子大学に絞り、特に、学生募集用パンフレットに現れたジェンダーパターン=性的様式(服装や仕草など、外見の女性らしさ・男性らしさ)から、両女子大学のジェンダーに対する認識や姿勢を検討してみたい。
図7 京都女子大学「現代社会学部」画像
図8 同志社女子大学「現代社会学部」画像
図7は、京都女子大学「現代社会学部」のパンフレットの表紙。
図8は、同志社女子大学「現代社会学部」のパンフレットの表紙。
タイトル
京女大:「文系でも理系でもない現代社会系です」「日本一おもしろい学部が誕生します。」
同女大:「タフでエレガントでなければ、21世紀は乗りきれない。」「自分の居場所が見えてくる」
京女大のタイトルは現代社会学部の説明、同女大のタイトルは女性のあり方に対するメッセージとなっている点で、基本的には新聞広告と同じ作りである。言語的表現には大差がないように見えるが、表紙の写真が訴える非言語的表現に注目した場合どうであろうか。京女大・同女大共に中央に一人の女性を立たせているものの、その服装や姿勢に大きな差があることに気付かれよう。
その違いはどこで、何を意味するのか。まず簡単に差異を整理すると【表2】のようになる。
そんな比較に何の意味があるのかと疑問に思う方もあろう。しかし、我々が暮らしている社会に存在するジェンダー=文化的・社会的・歴史的に作られてきた人為的な性差は、我々にとってあまりにも日常的であるが故に、無意識にそれを受け入れ、無自覚のままそれに操作されている。だからこそ、ありふれた広告媒体などにあらわされたジェンダーの要素に注目することは、我々の社会の構造を自覚することにつながるのである。広告に現れたジェンダーパターンは、そのままその送り手の性にまつわる意識の差を表わすのである。
そうした問題意識を持って、あらためて表紙の写真の違いに着目すると、両大学ともに現代社会の問題をテーマにしつつ、女性の社会進出を願う現代社会学部のパンフレットでありながら、非言語的表現によって送られてくるメッセージはかなり違ったものとなっている。
【表2】

京都女子大学

同志社女子大学

茶髪のショートカット

黒髪のショートカット

服装

赤と白のチェックのシャツ・黒のスラックス・銀色のサンダル

白のノーズリーブのワンピース・裸足

小道具

透明な地球儀

赤いボクシングのグローブ

姿勢

首をやや左下に傾け、両腕を内側に交差・爪先を内側にひねった内股。

正面を向き両肘を張って拳を突き合わせる。爪先を外に向けて肩幅より広く開いた足。

視線

斜め右下に落とす。(足元の地球儀を見ている訳でもない)

読者を真っ直ぐに見詰める。

体の影

なし

あり

同志社女子大の女性はワンピースという女性特有の服装をしているが、グローブをはめて真っ直ぐに立ち、我々(現代社会)に向かって立ち向かうファイティングポーズの準備をしている。体の影も薄っすらとではあるが見え、地に足を付けて立っている様子が分かる。広告コピーの「タフ」と「エレガント」と「自分の居場所」を映像化したものといえよう。更にタイトルの文字はグレーで服も白であり、紅いボクシングのグローブが浮き立つように配色され、色彩的にも立ち向かう姿勢が強調されている。こうした表現には、一般的には抵抗や反感を感じる女性も多いかもしれない。しかし、新設の学部、しかも「現代社会の諸問題にチャレンジしようとしている女性層」を狙う効果としては有効であろう。
京都女子大学の女性は、スラックスをはき活動的な服装をしているが、体を内側にひねった「女性的な姿勢」(ジェンダー・パターン)を取っている。視線の先にあるのは「2000年4月開設」の文字であり、足元に地球があることに気付いていない。また、チェックのシャツとともに、タイトルの現代社会学部の文字や校名のバックが赤やピンクで整えられている。「女性らしいかわいい」姿勢とともに色彩的にも構図的にも伝統的かつ女性的な雰囲気が醸し出されていて、かわいらしい女性が集う現代社会学部といったイメージが色彩的にも強調されているといえよう。これは、「保守的な男性の視点から見た好ましい女性像」であり、そうした女性像は一般的には女性自身にも受け入れられやすいものであろうから、女性を引きつける広告効果はある。しかし、それが現代社会学部の広告として成功しているか否かは疑問が残る。
髪型は同じショートカットありながら、同志社女子はナチュラルな黒、京都女子は装飾的な茶髪である。これは、単なる写真家の趣味や偶然ではなく、同女「自分の居場所」と京女「日本一おもしろい」というコピーの違いが反映されたメッセージそのものであろう。
このパンフレットの表紙裏についても若干のコメントを加えてみたい。京女大は「やっぱり現代社会が一番おもしろい。」という大見出しの下に、
「自分の進路を切り開いていこうと考えている女性にとって、現代は厳しい時代かもしれません。しかし、総合的な問題解決力を持っている女性は、逆にどんな職場でも求められています。」
「京都女子大学の現代社会学部では、まさにそんな現代社会へ羽ばたこうとしている女性のためのカリキュラムが組まれています。」
と、女子学生へのメッセージが語られている。同女大の表紙裏は、
「どんなことを学びたいの?なにをやってみたいの?」
の見出しに続いて
「大学の先には社会があるから、将来の自分へとつながっていくことが大切。あなたの学びたいことを聞かせてください。」
と学生に向かって問い掛け
「家族や社会で、女性から見ておかしいことを調べてみたい」
などの予想される答えが示されている。
スタイルは違うが、ともに女性と現代社会との関わりについて、保守的なジェンダーロールに捕らわれない姿勢が表現されている。しかし、この文面には、発信者の言葉にされていないメッセージも含まれている。京女大の場合、「男性によって作り上げられてきた社会システムに如何に適応していくか」が主要な課題とされており、同女大の場合は、「女性の視点で社会を点検し直し、自分らしく生きていくこと」が主要な課題となっている。これは、ジェンダーや女性学の視点からすると、一世代の差がある。

2000年1月27日付京都新聞朝刊
見出し 「短大改組新設学部大当たり 女子大、人気薄を返上 京都女子大19.8倍も 全体では減少続く」
記事概略
京都女子大は、既存の文学部と家政学部が、それぞれ千人以上も志願者を減らした一方、短大の募集人員の一部を振り当てて新設した現代社会学部に人気が集まり、志願倍率は19.8倍に達した。その結果四年制学部全体の志願者数は昨年比13%増の5785人となった。同志社女子大も、現代社会学部の志願者が1927人と、短大だった昨年比で71%増と大健闘を見せた。京都精華大の美術学部マンガ学科が45%増、大谷大社会学科も臨床心理学分野新設の影響からか96%増となった。


2000年1月28日付読売新聞朝刊
見出し 「私大出願軒並み減 近畿地区、前年比」
記事概略
受験人口の減少や不況による国公立大志向、併願の絞り込みが響き、ほとんど軒並み出願減少。私大は冬の時代を通り越して<氷河期>に入ったと言えそうだ。特に落ち込みが目立つのが龍谷大の16%減、神戸女学院大の18%減。ともに現代社会学部を新設した同志社女子大は54%、京都女子大は13%増加したが、新設分を除くと前年並みか、かなり下回った。
両大学とも多大な費用をかけて新校舎を建設し、優れた教授陣をそろえて4月の開校に備えている。パンフレットや新聞広告は所詮「売り文句」でしかなく、今の一般的な女子学生をいずれが多く引きつけるか、いずれの新設学部にどのような学生が集まり、より質の高い教育研究成果を生み出せるかどうかは今後の取り組みにかかっている。各々の大学で実施される教育と研究、教授陣と学生が生み出す成果こそが問われるべき内容であることは言うまでもない。しかし、いかに優れた設備と教授陣をそろえようとも、大学組織や経営者の持つ理念が時代とずれている場合、その投資は無効になりかねない。歴史と伝統を誇り、全国の女子大のみならず社会に対しても影響力のある両校であればこそ、ジェンダーやセクシュアリティに関る社会的成果や新たな価値の創造が期待されるところである。


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ジェンダーフリーと男女共学
先にあげたような女子大の動きにも見られるように、女子大の「存在」自体を疑問視する声も強まっている。次の記事はそれを端的に表わしている。

1999年11月4日付朝日新聞朝刊
見出し 「『男子大学』はなぜないの」「戦前は『男子のみ』当然 救済策で女子大誕生」「変わる女子大の意義 少子化で共学化の例も」
記事概略
戦前の日本の帝国大学に女子排除の規定はなかったが、原則として男子のみだった。高等女学校卒業後の女子高等教育の場としては、女子高等師範学校以外には専門学校しかなかった。1870年設立の津田塾も1901年創設の「日本女子大学校」も専門学校。1913年に東北帝国大学に3人の女子学生が入学した後も、専門学校が女子の高等教育を担った。
専門学校が女子大や短大に昇格した後も女子大短大の新設は続いた。女子栄養大学教授の橋本紀子さんは「良妻賢母主義などの『女子特性論』が戦後になっても消えなかったからでしょう」と言う。
兵庫県の大手前女子大学は来春から共学となり、伊丹市にある系列短大の定員を減らし「社会文化学部」を新設する。共学にする理由を米山学長は「単純にいって、志願者が倍になりますから」と冗談めかして話す。
大阪女子大助教授の木村涼子さんは女子大の存在について「共学教育が基本。漫然と残すことに意味はありません。」としながらも「共学だとゼミでも男子の発言が多くなる。その意味では女子大にもメリットがある」「女子大を女性の人材育成の場として積極的に位置づけていけば、存在意義は生まれる」理数系や社会科学系への女性の進出が相変わらず少ない。そこで「そうした分野に進む女子学生の授業料を安くする、くらいのことがあってもいい」と、欧米の労働現場などで導入されている『アファーマティブ・アクション』(積極的差別是正策)を教育現場で実現しようという提案もしている。


こうした男女共学化の流れは、女子大のみならず男女別学をとってきた私立中高校でも顕著となってきた。そこで、関西での共学化の動きについて新聞報道はどのように伝えているか1998年暮れから1999年暮れにかけての記事から、その動向を探ってみる。

1998年12月18日付朝日新聞朝刊
見出し 「小学校の設立検討 同志社の記念事業 香里高の共学化も」
記事概略
学校法人同志社は、創立125周年を迎えるにあたり、滋賀県志賀町の北小松キャンパスに「キリスト教主義教育・国際交流」施設を建設する。また、同志社小学校設立を検討する委員会を設置し、2000年中には結論を出す。男子校の同志社香里高の男女共学化は、2000年4月に語学教育を重視した「国際コース」2クラスを新設し、定員の半分に女子生徒を迎え入れ、同中学校の定員を一クラス増やし6クラスにする。


1999年5月27日付京都新聞朝刊
見出し 「成安女子(中・高)も共学に 来年度から 校名変更を申請へ」
記事概略
成安女子中学校、高等学校は、来年度から男女共学化することを決め、校名も「京都成安中学校、高校」に変更したいとしている。共学化するのは特進、美術の2コースで各定員の半分程度。植田耕治成安女子校校長は「受験生や保護者から共学化を求める声が強く、男子に門戸を開く決断を下した。共学化で学校の活性化を図りたい」と話している。京都市内では、京都橘女子高と、大谷高が来年度から共学化することを明らかにしており、私立校の共学化は一段と進んでいる。

1999年9月8日付京都新聞朝刊
見出し 「こころを磨く時は今 京都の私立中学・高校」「共学化 自立と共生が柱」
記事概略
洛陽総合高校は府内で3番目の総合学科を導入し、共学化に踏み切った。97年の入試で300人の募集に対し180人しか入学しなかったことが転機となった。「このままでは出口のない現状が続く」との危機感から学校の在り方を検討したと土屋校長は言う。99年入試では受験生が一気に3倍に増え、急遽校舎の増築を行ったり、ハプニングもあったが、男女がほぼ同数になり、校内に活気があふれているという。

来年度、橘女子高校は校名を「京都橘高校」と改め、特進で共学を実施。「男女の新しい『自立』と『共生』の教育の展開」をうたっている。成安女子中学高校も特進と長い伝統を誇る美術コースで共学化する。京都明徳高校や、男子校の大谷高校・福知山商業高校も来年度から共学化することを明らかにしている。

1999年9月9日付京都新聞朝刊
見出し 「京都学園中」新設を許可 京都府
記事抜粋
男女共学で定員は80人。同高との一貫教育で「国際化に対応した人材を育成したい」としている。


1999年9月17日付朝日新聞朝刊
見出し 「『共学』へ看板掛け替えます」「来年度生き残りに懸命 成安など5高校」
記事概略
現在、府内の私立高校は、定時制を含めて39校。共学は4割にも満たないが、来年度から共学校が20校となり、過半数を占める。成安女子植田校長は「女子高への郷愁もあるが、長期的に見て女子だけの生徒募集は厳しい。女子高の役割が終わったとは思わないが、男女共同参画社会に向け、中高校時代からお互い学び会うことが重要」と話す。京都明徳は姉妹校の京都成章があるが、ピーク時で3000人いた生徒が1300人にまで落ち込み、女子だけで生徒を確保することが困難だと判断。あえて共学化に踏み出した。寺岡邦明校長は「成章との足の引っ張り合いにならないように、成章は男子の進学校、明徳は進学も含めた総合的な学校と言うすみ分けをしたい」と話す。今回共学化を決めた三校の女子高は、近年郊外に移転するなど比較的施設に余裕のある学校。しかし、多くの女子高は手狭な敷地のため、すぐに男子を受け入れることは難しい状況だ。


1999年12月20日付朝日新聞朝刊
見出し 「私立高、進む共学化 『平等』対応で生き残りへ 」「特色打ち出し受験者激増」
記事概略
来年から共学になる男子校の履正社(大阪豊中市)は、女子用のトイレや更衣室を新設し、階段やベランダなど下から覗かれやすい個所を改修した。教員対象に性差別やセクハラに関する人権研修をして、物心両面から女子生徒の受け入れ準備をしている。今週の体験入学には親子258組が訪れ、うち108組が女子だった。前田恭幸校長は「男女平等社会に生徒を送り出すために、共学化が必要と考えた。実際にこれほど反響があるとは」と驚く。
大学進学率の高い一部を除いて受験生減の傾向が続く女子高で「私学氷河期」の生き残りをかけた共学化が進む。昨年度から共学化した精華(堺市)は、女子高最後の入試の受験生は583人だったが、共学化した翌年は1512人、今春は2257人と激増した。高松良孝教頭は「女子高のままでは進学のためのレベルアップは難しかった」と話す。

森一夫・大阪教育大教授は「小中学校で男女混合名簿などを経験した最近の生徒には、高校でも共学が魅力的に映る。共学化は経営のための数合わせではいけない。男らしく女らしくではなく、男女が互いに尊敬するための教育をしてほしい。まずは別学に慣れきった教職員の意識改革が必要だろう」と話している。
こうした共学化の波が、受験生確保の方便で終わるのか、男女共生の社会創造に向けた取り組みとなるのかは今後の取り組み次第であるが、社会全体の流れとしての共学志向はますます強まることは間違いない。そうした中で、ただ単に有名大学への進学率が高いと言うだけでは「女子校」として生き続ける事は困難である。男女共学校以上に、現代社会における女子教育の狙いや問題を整理し、共学校ではいまだ実現されにくい課題に焦点を当てた、これからの女子に必要な教育プログラムを開発していくことが必要となろう。
「第V部女子学園の教育と人事の課題」では、女子校における教科指導・生活指導・進路指導等の各教育分野と人事にかかわるジェンダーやセクシュアリティの課題について問題提起をする。ここでは、参考資料として、名古屋市の椙山女学園で取り組まれているジェンダー・フリー教育と、大阪府高槻市立第三中学校が1997年度から1998年度に取り組んだ「男女共生教育研究」の報告書の一部を紹介する。



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参考資料1

「女性学1998Vol.6特集 教育の場からジェンダーを問う」収録「ジェンダー」が市民権を得るまで」1998.11.21新水社刊より抜粋

椙山女学園は「人間になろう」を基本方針として、創立93年を迎える幼稚園から大学院までの女子一貫教育を目指す総合学園である。昨今、様々な事情から共学化に移行する学校が多い中で、21世紀も積極的に「女子校」であるための、そのアイデンティティーをジェンダー・フリーの教育に求め、学校生活の全ての場面をジェンダーの視点で問いなおすことを目指して、手探りで研究・実践を重ねてきた。
椙山女子学園
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参考資料2
「高槻市立第三中学校研究収録第2集男女共生教育」199971日発行
(略)

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以上