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あれこれ

「こころ」を読むことの難しさ  マキを割る人

2002年度 44枚目 2002/11/18

夏目漱石は1914年(T3)10月、『こころ』を発刊するにあたって次のような広告文を書きました。

自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。

言いかえれば「あなた自身を知るための本です」というところでしょう。

小説は「虚構」=ウソの世界です。では小説にはホント=「現実」の世界にはありえないことしか書かれていないのか?というとそうではない。

ウソとしてだからこそ描けるホントの姿があるのです?

もっと言えば、あなたのウソにこそ、あなたの本音が隠されている

もっともっと言えば、ウソをつくことでしか現わせないホントがある

ホントのことは言葉にできず、言葉になっても口には出せない。

みんなの口から出ている言葉はどうでも良いことばかり。

しゃべればしゃべるほどつのるむなしさ。

黙っていれば変だと言われる。

変だと思われないように無理してついたウソで変だと言われる。


ウソを絞れば、じっとり含んだ本音が垂れる。

誰もが垂らしたウソを叱るばかりで、垂れた本音を誰もすくってくれやしない。

あなたに知ってほしいのはホントの気持ちもそうだけど、

ホントの気持ちを言えないウソの苦しさ。

私の胸からこぼれたホントをあなたはすくってくれますか?


ウソつく人の醜さを嫌うあなたは、

私が隠したホントの醜さを、私がさらしたホントの醜さを、目をそむけずに見てくれますか?

それができないあなたなら、私のウソにだまされ続けてほしいんです。


『こころ』で先生が私に次の言葉を言った場面を思い出せますか?

私は死ぬ前にたった一人で好いから、人を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか。

普通に考えればウソをつくのは悪いこと≠ナす。誰かにウソをつかれた人はウソをつかれたことで傷つくからです。
では、ウソを責めるのは善いこと≠ナしょうか?

ウソをついた人は自分を守るためにウソをついただけなのです。自分の苦しさを受け止めてもらえないのに本音を話せるわけがない。


寒さに凍えた人間に「ウソの衣をさっさと脱いで裸になれ」というよりも、凍えた体を温める暖炉のマキを割る人になりたいと思いませんか?

さて、今日紹介する新聞記事はいつもの「ひと」ではなくて「天声人語」。

右のコピーはそこで紹介されている『自殺って言えなかった。』の表紙です。
興味がある人は職員室にあるので手にとって下さい。

天声人語  2002年11月18日付け朝日新聞 朝刊1面

中学2年のとき、ひとりで風呂に入っていると、父が無言で入ってきた。何年もそんなことはなかった。恥ずかしいので、すぐに出てしまった。その翌日、父は自殺した。

いま大学4年の斉藤勇輝さんはそのときのことを後々まで悔やむ。何か会話をかわしていれば、背中を流しながら「長生きしてね」の一言でも声をかけていれば、父は自殺を思いとどまったかもしれない、と。

斉藤さんらが中心になって、自殺で親を亡くした遺児たちの手記をまとめた。その『自殺って言えなかった。』(サンマーク出版)を読んでみても、必要以上に自責の念に駆られる遺児たちが少なくない。たとえば、父からかかってきた最後の電話にもう少し何か言ってあげられなかったものか……。サインを見逃した悔しさがつきまとう。

親を亡くした悲しみに加え、世間の「偏見」との闘いもつらい。親族らからは自殺ということを隠しておくように諭される。漠然とした罪悪感につきまとわれる。そして自殺のことも亡くなった親のことも心の奥深く封印してしまう。

親を亡くした人に奨学金を出している「あしなが育英会」の集まりで、初めて自分の体験を「告白」して封印を解き、新しい歩みを始める。斉藤さんもそうだったが、そうした例が多い。

18日で22歳の斉藤さんはこう語る。父は借財を背負ってひとりで苦しみ、死んでいった。自分もひとりで苦しんだ時期があったが、仲間が苦しみを受け止めてくれた。「苦しいことを苦しいといえる社会、それを受け止めてくれる社会になってほしい」と。
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あれこれ

することはステキなこと   あることはアリガタイこと

2002年度 22枚目 2002/06/19

5月半ばから始めた個人面談ですが、ようやく3分の1ちょっと。

話を聞いてると、勉強のことやら人間関係やらクラブやら何やらで、何とかしようと思いつつ、何ともならない苛立ちや、もういいやと思いつつ、あきらめきれない焦りや辛さがにじみ出てきます。


            こんな私が、ここにいてはいけませんか。

       歩き出そうとしないのは、目指す目標がないからじゃない。

それが私の本当の目標なのか、わからないから。

そもそも、私が何だかわからない。

ホントをいうと、わかりたいのかどうかもわからない。

わかりたいけど、わかりたくない……ぼんやり夢を見ていたい。


とりあえず、やるべきことをと言うけれど、やるべきことは終わらない。

自分の道を見つけなさいと言うけれど、そんなのみんな誰かの道。

言われたことを言われたとおり、わけもわからずしたくない。

誰かのものを自分のものだと偽って、持っているのは耐えられない。

できないんじゃないよ、しないんだ……小さなつぶやき呑み込んだ。


迷いさ迷い寄り道し、くたびれ果ててうずくまる。

あふれる光の洪水に、耐えられなくて目を伏せる。

つむったまぶたの闇の底、やっとの思いの微かな安らぎ。

夜明けが必ず来るように、私のまぶたも開くはず。

それを信じて待っててほしい、待ってる人がいてほしい。



勉強にしろ趣味にしろ友達付き合いにしろ、すること≠ェあってしている人≠ヘステキな人です。

決められたことを決められたようにやり遂げられる人はエライ人です。

なら、すること≠ヘ見つけられず、すべきことをしていない$lはダメな人なのか


道に迷ってうろつくのも、しんどくなってしゃがみ込むのも、一生懸命していること≠セと思いたい。

学校はお国のため≠ノあるのではなく、私自身≠ニ私がすること≠一人一人が見つけるためにあるはずです。

そして、これから巣立って暮らす社会で、多くの人と生きていくために必要な力を育てる場所であるはずです。

だからこそ、遠くへ速くと励ますの同じぐらい、傍らでそっと待ってることが必要な時もあります。


それなのに、今ある℃pを認めずに、そこにいる≠アとも許さない「現実」もあります。

大人が抱く「這えば立て、立てば歩めの親心」は自然な願いでもあります。

ただ時として、子どもに対する愛情や責任感の強さのあまり、「子どもの情けなさを自分のふがいなさと感じ」て落ち込む。

あるいは、世間から「子どもの不出来は自分のせいだと責められるのではないかという不安」にさいなまれて焦る。

しっかりしろとの励まし≠ェ、非難の声にしか聞こえてこないのは、子どもだけではないでしょう


そうしたときに向き合うこと≠セけでなく、待つこと≠竍見守ること≠ノも耐えられなくなって、無理を強いたり突き放したりしてしまうこともあるでしょう。

子どもに支えがいるように、支える親にも教師にも、時には支えが必要です

大人だろうと子どもだろうと、
疲れたときは悩みを話し、元気な時は悩みを聞く、そんな支え合える人間関係を育てていけたらは思うのは私だけでしょうか。

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あれこれ

さがしものは何ですか

2002年度 21枚目 2002/06/14

2年1組の文化祭テーマは「さがしものは何ですか」に決まりました。

「何のために勉強するんだろう」「どうして人を恋するんだろう」「なんでそんなことをさせられなければならないんだろう」etc.

日常生活の中で、誰もがひそかに抱いている疑問や怒りがあります。でもその答えや解決方法はなかなか見つかりません。つまり「ただ今、探し物中」

文化祭の準備を通して、みんなが何かを見つけることを願っています。

そこで、確か僕が高校生の頃にはやった、井上陽水の歌を応援の気持ちを込めて贈ります。

夢の中へ


探しものは何ですか 見つけにくいものですか

カバンの中も 机の中も 探したけれど見つからないのに

まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか

夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか ・・・さあ

休むことも許されず 笑うことは止められて

はいつくばって はいつくばって いったい何を探しているのか

探すのをやめた時 見つかることもよくある話で

踊りましょう 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか ・・・さあ

探しものは何ですか 見つけにくいものですか

カバンの中も 机の中も 探したけれど見つからないのに

まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか

夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか ・・・さあ


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あれこれ

number           only  
    No.1    より   On.1  を

2002年度 19枚目 2002/06/12

期末考査3週間前の保護者会当日、3週間ぶりの「手紙」です。

遅ればせながら、もし中間テストの結果が一学期の成績だったらという「バーチャル5段階」付きの一覧表を右に載せました。

成績の話になると「何番か」「平均は」といったことにとらわれがち。

そうした人との比較≠ゥら自分を見つめることが必要な時もあります。

でも本当は、たった一人のかけがいのない私≠、どうやってもっと大切にしてあげられるのかということが問題≠ナす。

面談の済んだ四分の一の人と話をしたり、授業中の様子を見ていて切なくなることあれこれ。


返却された答案用紙は、私を映す一つの鏡。

鏡の中の過去の私は、どんな未来を見ていたでしょう。

鏡を見つめる今の私に、どんな未来が描けるでしょう。


先着順の行列ならば、何番なのかは気になるところ。

誰より先か、どれだけ上かと考えて、時には焦りひそかに笑う。

上を見てたらキリないと、下見て自分を慰める。

他人を蔑むことでしか、自信を持てない悲しい安心。


やったらできると思いつつ、やってるつもりの連続で、気持ちはあるけど進まない。

だってあれがあるんだし、これがないから仕方がない。

どうせやっても間に合わないし、間に合わなければやるだけ無駄。

立って歩いて飛び越えて、進んでいくのは大変だから、しびれて寝そべる自虐と自嘲。


私が伏せって眠るのは、やって疲れたからじゃない。

私が落書き綴るのは、やって楽しいからじゃない。

私が隠した私の弱さ、真っ直ぐ見つめる勇気がほしい。

私に隠れた私の強さ、そっと信じて見つめてほしい。


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あれこれ

 自尊心は自分を大切にする心 集団は人を助ける力 ―HR読書会に向けて

2002年度 14枚目 2002/05/10

13枚目の手紙で紹介した禁煙プログラムの一節に「自尊心、自信を高めるために、意志決定や自己主張する技術、意志を伝達する技術、ストレスを処理する技術など、生活技術を教えることも必要だ」とありましたが、それはタバコ≠ノ限らず、また大人≠ノだって言えることです。

僕らは毎日繰り返される何でもない日常生活の中で自分を見失いがちです。

というより、ホントは自分≠ェ何をしたいのか良く分からないまま、とりあえずやれと言われたから≠オていたり、何にせよ面倒だから≠オなかったりの連続かもしれません。

その上とやかく言われないように自分を隠したり=Aごたごたに巻き込まれたくなくって自分を押し殺したり、自分に対してひどいことばかりしているのかもしれません。

恐ろしいのは、そういう日常を繰り返しているうちに、自分のすべきことが分からなくなったり、分かっていながらできなくなった、ただの集団の一部≠ネってしまうことです。

そうなった人でなし≠ェ、正義の旗のもとに集まって人を傷つけ人を殺していくのです。

「私は大丈夫。自分を失うことなんてない」と言える人は、世間の力の大きさと己の力の小ささを知らぬ井の中の蛙≠ゥ、己の怠け心や世間の不条理と日々闘い続けている努力の人≠ナしょう。

さて、HR読書会で1組の課題図書になっている『海がきこえる』のP44に次の場面がありました。どんな場面かすぐに思い出せますか?

「ぼくは、お調子者だし、そのくせ、ここぞというところでは、いい子でいることも出きる、ごく普通の中坊だった。……ぼくが挙手≠したのは、絶対に意地やプライドのためではなかったと思う。

……ただ、ここで手を挙げんかったら、この先、ほんとうに手を挙げなきゃいけないときも挙げられずに、いじいじとうつむいていなきゃならないような気がしたのだった。

……いつか手を挙げたくてたまらない時に、手を挙げるクセをつけてないばかりに、両手をぶらぶらさせて、ぼんやりしているかもしれない。

それはカッコ悪いことのような気がした。カッコ悪いのは、なんかイヤだなと思った。」

民主主義は生まれや地位に関わらず、すべての人を大切にする人類の智恵の結晶です。その特徴の一つに「多数決」があります。これは、一部の特権階級や権力者が決定権を持つのではなく、その社会に生きるより多くの人々が良いと思うことを決める方法です。

しかし、その集団が一部の人間の圧力に支配されていて一人一人が自分だけを守る≠スめに沈黙した時。考えることや関わることを面倒がって判断することを避けたり怠けたりした時。多数決はあっという間に弱肉強食の世界を作り上げます

話し合う必要もなければ助け合うこともないという人は、自分が強者だと思っている人です。そして、その人たちからマイノリティ(社会的弱者・少数者)は邪魔者とされ、軽視され、無視され、共に生きることを拒否されます。

集団≠フ持つ力はスゴイものです。一人では実現できない大きな夢を可能にするからです。頼りなげな一人一人に隠されている力を引き出してくれるからです。その一方で、かけ替えのない一人一人の存在をあっさり押しつぶし、はじき出す暴力装置となるからです。

「社会に出てから集団行動が取れないような奴はだめだ」といわれることがあります。

しかし、学校以外で整列≠オたり号令にしたがって作業しているのは、チャップリンの映画モダンタイムス≠ナ風刺されているとおり、工場と軍隊と刑務所ぐらいなのかもしれません。

「個人より先に集団があって、集団のために個人があるのだ」という世界もあります。

しかし、僕らに必要なのは、多くの人の力を得て一人一人が自立するための集団です

自分たちの利益を損ない、自分たちを押しつぶそうとする力と闘うための集団≠ェ必要なのです。

文化祭・体育祭・修学旅行といった行事のためだけではなく、日々の教室の中でみんなが支え合える優しく力強い集団≠作り上げてみませんか。

その体験こそが、みんなが社会に出てから突き当たる現実の壁≠乗り越えていく自信や希望の源となると僕は思います。


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逃げる足か 闘う頭か どちらを鍛えますか?―生徒会選挙に向けて

2002年度 6枚目 2002/04/17

小泉内閣の姿が日に日にあらわになり、いよいよ有事立法=i他国から攻撃されたり戦争状態になった時どうするのかを決めた法律)が閣議で了承され、国会に掛けられます。

どこの世界にも問題の本質≠はっきりさせることを好まない人々がいます。

それ以上に、本質を覆い隠して何か別のものででもあるかのように見せかけようとする人々すらいます。

軍隊を自衛隊と言い、戦艦を護衛艦と呼んできた日本は、今度は戦争を有事と呼んで戦争が起こったときの対応を法律で決めようというわけです。

実は、あのアフガニスタンの人々は、以前から日本をお手本に国造りをしたいといっていたそうです。その理由の一つは、世界で唯一憲法第9条≠持っているからだといいます。



第9条 戦争放棄、軍備及び交戦権の否認

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


この憲法の中で、僕が一番好きな条文は第12条の前半です。


第12条 自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

高い理想を掲げ憲法を定めた国民が、やがてその理想を捨て、過ちを再び繰り返す日がやってくることを憲法自身が心配しているのです。自由や平和、そしてそれを可能にする民主主義を守り抜こうとしない国民は、やがてその自由と権利を失うと警告しているのです。

 やばくなったらさっさと見を隠せるように“逃げる足”を鍛えることも必要かもしれません。

 でも、ここが自分の生きていく場所だと覚悟を決めるならば、自分たちを守るために欠かせない“闘う頭”を鍛えましょう。矛盾を見逃さず本質を見抜く目を鍛え、疑問や意見を声に出し、多くの人々と手をつなぐ勇気を育てていくことが大切なのだと、僕は思います。

 学校の中でも同じようなことがいくつもあります。遅刻・頭髪・盗難・喫煙などの「問題」で、本当は何が問題にされているのか∞本当に変えるべきことは何か∞変えるための手立ては何かを一緒に考えていきませんか?

生徒会選挙の立候補受け付けは今週末までです。

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