夏目漱石は1914年(T3)10月、『こころ』を発刊するにあたって次のような広告文を書きました。
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5月半ばから始めた個人面談ですが、ようやく3分の1ちょっと。
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2年1組の文化祭テーマは「さがしものは何ですか」に決まりました。
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期末考査3週間前の保護者会当日、3週間ぶりの「手紙」です。
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13枚目の手紙で紹介した禁煙プログラムの一節に「自尊心、自信を高めるために、意志決定や自己主張する技術、意志を伝達する技術、ストレスを処理する技術など、生活技術を教えることも必要だ」とありましたが、それはタバコ≠ノ限らず、また大人≠ノだって言えることです。 僕らは毎日繰り返される何でもない日常生活の中で自分を見失いがちです。 というより、ホントは自分≠ェ何をしたいのか良く分からないまま、とりあえずやれと言われたから≠オていたり、何にせよ面倒だから≠オなかったりの連続かもしれません。 その上とやかく言われないように自分を隠したり=Aごたごたに巻き込まれたくなくって自分を押し殺したり、自分に対してひどいことばかりしているのかもしれません。 恐ろしいのは、そういう日常を繰り返しているうちに、自分のすべきことが分からなくなったり、分かっていながらできなくなった、ただの集団の一部≠ネってしまうことです。 そうなった人でなし≠ェ、正義の旗のもとに集まって人を傷つけ人を殺していくのです。 「私は大丈夫。自分を失うことなんてない」と言える人は、世間の力の大きさと己の力の小ささを知らぬ井の中の蛙≠ゥ、己の怠け心や世間の不条理と日々闘い続けている努力の人≠ナしょう。 さて、HR読書会で1組の課題図書になっている『海がきこえる』のP44に次の場面がありました。どんな場面かすぐに思い出せますか?
民主主義は生まれや地位に関わらず、すべての人を大切にする人類の智恵の結晶です。その特徴の一つに「多数決」があります。これは、一部の特権階級や権力者が決定権を持つのではなく、その社会に生きるより多くの人々が良いと思うことを決める方法です。 しかし、その集団が一部の人間の圧力に支配されていて一人一人が自分だけを守る≠スめに沈黙した時。考えることや関わることを面倒がって判断することを避けたり怠けたりした時。多数決はあっという間に弱肉強食の世界を作り上げます。 話し合う必要もなければ助け合うこともないという人は、自分が強者だと思っている人です。そして、その人たちからマイノリティ(社会的弱者・少数者)は邪魔者とされ、軽視され、無視され、共に生きることを拒否されます。 集団≠フ持つ力はスゴイものです。一人では実現できない大きな夢を可能にするからです。頼りなげな一人一人に隠されている力を引き出してくれるからです。その一方で、かけ替えのない一人一人の存在をあっさり押しつぶし、はじき出す暴力装置となるからです。 「社会に出てから集団行動が取れないような奴はだめだ」といわれることがあります。 しかし、学校以外で整列≠オたり号令にしたがって作業しているのは、チャップリンの映画モダンタイムス≠ナ風刺されているとおり、工場と軍隊と刑務所ぐらいなのかもしれません。 「個人より先に集団があって、集団のために個人があるのだ」という世界もあります。 しかし、僕らに必要なのは、多くの人の力を得て一人一人が自立するための集団です。 自分たちの利益を損ない、自分たちを押しつぶそうとする力と闘うための集団≠ェ必要なのです。 文化祭・体育祭・修学旅行といった行事のためだけではなく、日々の教室の中でみんなが支え合える優しく力強い集団≠作り上げてみませんか。 その体験こそが、みんなが社会に出てから突き当たる現実の壁≠乗り越えていく自信や希望の源となると僕は思います。 |
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小泉内閣の姿が日に日にあらわになり、いよいよ有事立法=i他国から攻撃されたり戦争状態になった時どうするのかを決めた法律)が閣議で了承され、国会に掛けられます。 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 高い理想を掲げ憲法を定めた国民が、やがてその理想を捨て、過ちを再び繰り返す日がやってくることを憲法自身が心配しているのです。自由や平和、そしてそれを可能にする民主主義を守り抜こうとしない国民は、やがてその自由と権利を失うと警告しているのです。 |
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