■ バーチャル(仮想)ではなく、リアル(現実)な成績表 一学期の授業が終ってから15日。期末考査が終ってから10日。その間に君にできたことが、これから始まる43日間の夏休みで君に何ができるかを計る目安になるはずです。「何かを為すためには、人生はあまりに短く、何も為さない者には、あまりに長い」。それが人生です。 裏に「各教科百点法順五段階評定付き成績一覧表」を載せました。中間考査の後に出したのはバーチャル五段階でしたが、今回のは正身の五段階です。君はあの後、具体的な改善策を立ててステップアップした人でしょうか、それとも悪夢が現実になってしまった人でしょうか? 言うまでもないことですが、通知票に示された成績は君の「人物評定」ではありません。その出来によって、君が「ダメな奴」の烙印を押されたり、「偉いお方」とあがめられる訳ではありません。もし「何しとんねん」と叱られるべき人がいるとすれば、それは君を教えた教師でしょう。僕もその一人として、君の成績票の数字を謙虚に受け止めたいと思います。君には、ここに現われた君の一つの現実から、君が乗り越え鍛えるべき要素を分析してほしいのです。 通知票の数字は君が受けた週34時間の授業と、君が自宅で自発的に行なった「予習や復習」の成果です。それは授業を通して学んだ様々な知識や思策や活動に対する君の「意欲や関心」のあらわれです。面倒臭いことを投げずくじけず繰り返しやり遂げる君の「努力や忍耐」の集積です。様々な誘惑に打ち勝ち休めた腰を浮かせる「意志と勇気」の反映です。毎日自分で決めた時間に勉強するのに必要な食事や睡眠を中心とした「健康管理と生活習慣」の結果です。そして君を支える家族の温かさと、君の刺激となる友人の頑張りがそこから透けて見えるはずです。つまりは、そこにも君の人生があるわけです。 今回の成績は君の未来を決定付けるものではありません。しかし、模擬テストの日に君が書いた志望校への道のりを計る材料の一つです。過去を引きずり過去にとらわれるのではなく、僕らは今をどう生きるか判断するために、過去から多くを学ぶべきでしょう。済んだことはどうしようもありません。だからこそ、今日をどう生き明日に何を望むのかが問われるのです。その答えを自分で導き出す手掛かりの一つとして、一枚の紙切れにも真剣に向き合ってほしい。その手伝いが必要なら、僕はいつでも喜んでします。 さて、この一学期間、担任としてたいしたこともできなくてごめんなさい。こうして僕が学期末を迎えられたのも、君が2年2組の一人としてそこに居てくれたおかげです。ありがとう。元気な君と、また会えますように。 ■ 「いきがい」と問われて、何と答えますか?――F そう問われて、健康な肉体の持主や健全な精神の持主なら、「未知の未来を自分の手で切り開くこと」と答えることもできるでしょう。しかし、衰えつつある肉体と擦り切れかけた精神の持主は、それにどう答えたらよいのでしょうか。 「今ある現実に即して、今自分が手がけている事を丁寧にやり続けること」が幸せへの一番の近道だという言葉は正しいでしょう。ただ、今日と同じように明日を過ごす自信をなくし、自分で人生を閉じたくなった時には、新たなパワーを見い出す場や人を求めることが必要でしょう。それは「生き甲斐」というより、生き続けるために必要な手立てといったほうがよいかもしれません。 先日、京都シネマでチャールズ・ダンス監督のイギリス映画『ラヴェンダーの咲く庭で』(出演:ジュディ・デンチ、マギー・スミス他)を観ました。1936年、老姉妹が暮す家の裏の海岸に天才的ヴァイオリニストの青年が漂着。独身のまま年老いた妹のアーシュラは、50歳ほども年下の美しい青年に一目惚れ。平穏だった生活は苦しく切ない恋心に乱れます。
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■ 次の授業は9月3日――61日間の自習期間 今日から期末考査。記憶と理解、気力と体力の限界への挑戦です。この一週間の過ごし方で、君が口にする「ホンキの重さ」が計られます。そして、昨日終った授業が再開されるのは9月3日。それまでの61日間の過ごし方が、君の人生を大きく変える、と言うより、これからの人生の基礎になっていくかもしれません。それはどこに進学あるいは就職するかと言う近い将来に関わる話ではなく、たぶん「長い人生の中で一番生命力にあふれている17歳の夏」を、君がどう過ごしたかという問題なのだと思います。 授業について行けてなくて積み残しがたっぷりの人にとっては、何とかみんなに追いつく期間。高く遠い目標に向かって歩んでいる人には、その目標との差をつめる期間。部屋や図書館にこもってギリギリ脳味噌を絞り上げる人もいれば、太陽の光を浴びながら森や海を渡る風に吹かれてはじける人もいるでしょう。それとも君は、蒸れた夜の街に吸い込まれていくのでしょうか。 この夏、君が何に取り組むのか知りません。それが何であれ、君がホンキを試して、たくましくかつ繊細に成長してくれることを願うばかりです。 2005年7月4日付け『毎日教育メールNo.798』に掲載されていた平野秋一郎氏のコラム「学問も人生も奥深い」の一部を転載します。そう考えている大人もいることを知っておいて下さい。
■ 「いきがい」と問われて、何と答えますか?――E 6月20日のクラス懇談会に端を発したこのシリーズも6回目。『手紙』を読んでくださっている保護者の方から返信を頂きました。『手紙』にはくれぐれも載せないようにと添え書きがあったので、「若い人たちには、どんどん悩んでもらいたい。自分の生き方や生きがい全てに悩みもがいてほしい」といった願いが書かれていたことだけを紹介します。 自分にとって大切な人が悩み苦しむことを肯定・奨励するにはかなりの覚悟がいります。それには、強く繊細な人の成長には負の要素が必須であることを確信し、時には自分も修羅を歩いていく厳しさが求められるからです。 以前も紹介しましたように、この『手紙』の一部は私のホームページでどなたでもご覧頂けるよう公開しています。ある卒業生がそれを見て、葉書を送ってくれました。そこには「生き甲斐=目標・支えとなるものはいくつかあると思います。私も何が生き甲斐?と考えると一つに絞ったり、言葉に表わすには困ってしまいます。でも、たくさんのことが私を支えてくれ、目標とするものがあることは確かなんです」とありました。 古い和風家屋を支える太い梁や大黒柱の存在感は実感しやすい。でも、どこかから折に触れて気に掛けてくれている、ささやかではあるけれどたくさんの眼差しに気付くことは難しいものです。それには繊細な神経と豊かな感受性と、少しばかりの心のゆとりが必要だからです。そして、それを生きる支えとして実感するには、もう一つ別のものが必要です。 私達は人やモノの価値を何かの役に立つか立たないかで決めがちです。言わば社会システム(家族・学校・会社・国家など)の部品として機能するかどうかという価値の有無です。しかし、そうした公的な機能の価値ではなく、極めて私的でオリジナルな喜びの価値といったものがあります。 人が見たら不細工でも、私にはいとおしいもの。役に立たないけれど捨てがたい、手が掛るけれどいじらしい、アホ臭いけど面白い、そうした不完全さや無能さが秘めたオリジナルの価値を大事にしたい、そういうものとして自分も大事にされたい、いつくしみ合いたいと思うことがあります。ただ、それには濃密な人間関係を結ぶ勇気と、他人に左右されない強固な価値観を持つことが求められます。 「誰か」にとって自分は必要な存在だという感覚は、裏返せばその誰かによって自分の存在価値が実感できるということでしょう。それゆえ、相手が自分を必要としている以上に自分が相手を失うことを恐れた時、相手を自分の支配のもとに閉じ込めようとする。エゴの押し付けが起きかねません。誰かの自立や成長を願いつつ、自分も一人の人間として自立・成長していくことは容易なことではありません。
つづく |
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■ ホンキ出し始めた人が、あっちにもこっちにも 今日のHRでは、文化祭のクラス演劇について活発に意見が出て、横で見ていて微笑ましくも爽快でした。劇団四季が上演するミュージカルや、ディズニー映画になったファンタジーがいくつも候補に上がっていましたが、それをどんな脚本や演出にするのか、自分達でテーマをどう掘り下げ、何をお客さんに訴えるのか!?これからの展開が楽しみです。何を素材にするのであれ、そこに「私たちの問題」がくっきりと浮かび上がることを期待しています。 一方、期末考査まで一週間を切って、今までなかったほどに気合を入れて勉強し始めた人のシャンと伸びた背筋が、雨後の筍のように目立ち始めました。ホンキで指定校推薦や京女大への願う学部への推薦進学を考え始めた人が増えてきたという事なんだろうね。 さて、この夏、君は何に“燃える”つもりですか?クラブ?体育祭や文化祭の準備?読書?異文化体験?それとも受験勉強でしょうか?そのどれであっても、その他なんでも、ムキになって意地になって熱く熱くやり抜いてみてはどうでしょう。 辞書で【むきになる】を引くと「客観的にはそうまでする必要は無いと思われるのに、本気になって対抗的な言動をとる。」とあります。死なない程度に、自分の限界に挑戦する季節があってこそ、色彩豊かな人生といえるのではないでしょうか。 何にせよ、君が夏の暑さに負けてダラダラトロトロ溶けてしまったり、クーラーのきいた密室で昼か夜かも分からぬままドヨ〜ンと沈澱してしまわぬことを、心の底から願っています。 ■ 「いきがい」と問われて、何と答えますか?――D クラス懇談会で「先生の生き甲斐」と問われたことをきっかけに、あれこれ思いを綴ってきました。「人生にはどんな意味があるのか」と問う人に、「神様の導きを信じなさい」と諭す人、「人はただ生きて死ぬだけ、そもそも人生に意味などないのだ」と突き放す人、「そんな悩みは気楽な生活をしている証拠だ。青臭いこと言ってないでやるべきことをとっととやれ」と叱る人。もし友人や子供からそう問われたら、どう答えますか。 私は教師の仕事は嫌いではありませんし、全然向いていないわけでもなさそうです。しかし、これからの学校で、そうあり続ける見通しがないのです。二人の息子を妻の分まで見守り続けるのが親の務めだという人もいます。しかし、21歳と19歳の彼らは、まだとても一人前とは言えませんが、ヨタヨタよろけながらでも巣立っていくべき時期に来ています。だからここで、素の自分に立ち戻って、私に残された時間をどう生きるか、そこにどんな意味を見い出せるか、そこで自分がどう役立てるかを問い直さざるを得ないのです。 私にとって、今日一日食べていくこと以外の問題は、何が本当なのか(真)を見極め、すべき行動(善)を見つけ、生きている実感(美)を得ることです。それは虚無や空虚に対抗できる夢や理想を持つことです。
夢を持たずに生きることと、夢を追いながら生きることと、どちらが困難な道か。人生に意味を求めるのか、違うものを求めるのか。その違いが人生観を形作り、生きがいの意味や形を決めていくのかもしれません。 つづく |
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■ むいているかは、むいて見なくちゃ分からない 先週の土曜日、うちのクラスでも進路適性検査を受けた人が7〜8人いたようです。結果が楽しみですね。いろんなところで自分の進路を考えるきっかけを得ようとする意欲がステキです。一方、面談をしていても、大丈夫かな?と思うような人もいます。
「これからはやる職業って何ですか」と聞かれたとき、「数年後に、どの府県でも教師が大量退職するので、これからは教員がねらい目」と言われたら、君は教師になろうとしますか?先日のクラス懇談会で、僕は「先生は、自分は教師に向いていないと思っていらっしゃるのですか」と聞かれてしまいました。その時の僕の答えは「25年続いているので、全然向いていないわけではないんでしょうけどね……」。 1980年の秋、僕は大学院受験を投げ出して就職することにしました。しかし、その頃の教育大には学校関係や教科書会社以外の求人はほとんど来ず、「そこそこ自分で食べていく」手段の選択肢は多くありませんでした。しかもその時の僕の問題は、何が向いているかどうかなどということより、大学2回生から付き合っていた「彼女(死んだヨメさん)と結婚する」には何とか就職しなくっちゃということでした。それで、国文学科の研究室に掲示してあった梅花と京女の採用試験を受けたらどちらも受かって、先に通知をくれた京女に行くことに決め、山あり谷ありの25年です。 そんなこんななのですが、今更ながらと思いつつ、みんなの情報の足しになるかもしれないと思って『Benesse マナビジョン』(ベネッセコーポレーションが提供する大学進学を応援するサイトhttp://manabi.benesse.ne.jp/op/)を開いて、《性格・得意分野から職業・学問を診断する》という診断ゲームを試してみました。その結果は……裏に載せたので興味のある人は見て下さい。 「何が仕事の役に立つか」とか「必要な資格は何か」とかは、実際に仕事をして経験を積んでから分かることなのではないでしょうか。「ご飯が食べられるかどうか」は、その時々でなんとでもなることで、自分が生き生きと意欲的に行動するのは「計算」ではなく「興味」のあることをトコトン追求している時かもしれません。そして自分に似合うものを見つけるにはどうすればよいかといえば、やってみなけりゃわからないと答えるのが一番誠実な答え方なのかもしれません。 ■ 「いきがい」と問われて、何と答えますか?――C 「生き甲斐は」と問われて、「家族」と答える方は多いかもしれませんね。今日もあるクラスの授業で梶井基次郎の『檸檬』をやっていて、「あなたが好きなものは何?」と質問すると「家族」と答えた子がいました。「家族の中の特に誰?」と聞くと「お母さん」と答えた彼女に、重ねて「それじゃ、お母さんに『好きなものは』と聞いたら『娘』と答えるかな?」と問うと、彼女は「娘じゃなくって、お父さんって言うかな」と答えました。きっと幸せな家族なんでしょうねぇ。 そんなやり取りに自分自身を振り返ると、家族を「生き甲斐」と言えない自分に気付きます。共働きだったので家事は結構してきました。妻の仕事の都合で保育所の送り迎えはたいてい私でした。夕飯は先に帰った方が作っていました。週末には家族で買い物に出かけ、休みごとに春夏秋冬アウトドア・ライフを楽しんできました。妻が病床についてからは、母の葬式で名古屋に帰った時と修学旅行の時以外、毎日病室に通いました。来週の日曜で、妻が死んで一年になりますが、ずっと朝夕の子供達の食事を作り続けています。毎週日曜の午前中、妻の墓碑を飾る鉢植えの花の手入れをします。空梅雨と暑さのため、一日おきには出勤前に水やりに寄ります。 しかし、そんな私にとって、その全ては「精一杯世話をしている」という感じであり、決して「生き甲斐」といった感じではないのです。胸に巣食う「空虚」を埋めることは至難の業です。 妻の墓がある『桃山霊苑』のすぐ西側は、桃陽養護学校です。そこには小児病棟が付属していて、病室から教室に通っている子どもたちがいます。平日の朝、静かな霊苑に「コンドルは飛んで行く」や「マルセリーノの歌」が流れてきます。家族と離れて辛い治療を受けながら勉強している子どもが吹くリコーダーの音色です。それは霊苑に、優しく切なげに響きます。 先週の土曜、京都シネマで三原光尋監督の映画『村の写真集』を観ました。四国は徳島の山村が舞台です。写真館を営んでいて妻に先立たれた初老の男と、その父の影響で写真家を志して都会に出ていった息子や駆け落ちした娘との断絶が、ダムに沈み行く故郷の人々の写真を撮ることで埋められて行く物語です。
一番印象的だったシーンは、村を俯瞰する高台に立つ父と息子を包むように、夕暮れを告げる有線放送からゴスペル『アメージング・グレイス』が響き渡る場面でした。アメリカ合衆国の第2の国歌とも呼ばれるこの歌の作詞者ジョン・ニュートンは、奴隷貿易船の船長から牧師となり、奴隷制廃止運動に影響を与えた人物だそうです。 親子が理解し合うきっかけを見つけたい方にお薦めの映画です。 歌詞参照: http://www.geocities.co.jp/MusicStar/3875/amazing.html と http://kfn.ksp.or.jp/~gauche/Languages/Column/column11E.html つづく |
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■ 「ことば」でご飯を食べるために 今日の合同HR「高3科目選択オリエンテーション」の説明で、うちのクラスに関わるポイントは次の3点でした。 1、夏休み中に志望校・学部・学科を決めて、受験科目を自分で確認すること 2、夏休み中に、自分の受験志望について親の承諾を求めること 3、選択科目で迷う場合は教科の先生に相談に行くこと 講座選択上、特に気をつけてほしいのは次の3点。 1、 京都市立芸術大学や京都教育大学などの国公立文系学科を志望する場合、高3でどの科目を取るべきかは微妙。進路の先生とも相談しましょう。 2、 私大受験一本で行こうと思っている人も、センター試験を利用することを選択肢に入れようとするなら、その比重も考えて演習を取りましょう。 3、 指定校推薦狙いの人は、配布済みのピンクパンフ(進路指導ニュース分析編)で昨年度の状況を再確認すること。自分が指定校推薦に外れた場合、その学校を一般受験で受け直すことを第一に考えるのか、京女大推薦に切り替えるのかで科目選択の仕方が変わります。この夏、ひとまず覚悟を決めましょう。 さて、前にも話しましたが、2組には外国語や外国文化に興味のある人が結構いるようです。また翻訳やガイド、ホテルのフロントや空港のカウンターでの接客、出版やマスコミ、宣伝の仕事につきたいと面談で話してくれている人もいました。そうした「ことば(コミュニケーション)を仕事にする」ことを望む人は、自分の言語能力や言葉のセンスを磨く努力を日々心掛けているはずです。 君はそれを具体的にどんな形でしていますか?いろんな人の文章の気に入ったフレーズをメモする癖は付きましたか?日記を付け続けていますか?『公募ガイド』(図書館にもあります)などを利用して、自作の詩やエッセイや小論文を投稿しましたか?そうしたことのどれ一つすることも無く、ただ小テストや授業の復習に追われているだけでは、「売り」になるものを身に付けることはできません。今日の仏参でR先生が語られた「このことについてならあの人にと頼られる能力」を身に付けるのは、大学に入ってからの話ではなく、目の前にある様々なものとどう関わろうとしているのかという今現在の君の課題です。 そんな君の言語能力や感性を試すのにうってつけの材料があります。「17枚目の手紙」で紹介した絵本『悲しい本』の英語版原作が手に入ったのでそのある見開きを裏に縮小して載せました。谷川俊太郎のおざなりな翻訳を超える、原作の音楽性を生かした翻訳を是非試みてください。 ■「いきがい」と問われて、何と答えますか?――B 今日は『沖縄慰霊の日』。1945年6月23日、沖縄守備軍司令官だった牛島満が自殺し、沖縄での戦闘が事実上終わりました。それで沖縄県だけはこの日が休日となり、命を奪われた20万人以上の人々の冥福を祈り、平和への願いを新たにする集会などが行われています。何変わりなく京都の街で暮らしている僕らの日常ですが、せめてあの映画『月桃の花』のワンシーンだけでも思い浮かべておきたいものです。 「天皇陛下万歳!」と叫ぶ沖縄の集団自決(というより日本軍による自殺の強要)と、「ジハード(聖戦)に勝利を!」と叫んで今日も繰り返されたイラクやアフガニスタンの自爆テロは別物に見えません。それは国家や神への忠誠、崇高な使命に燃えた熱情や狂気というより、一個人では変えることのできない現実への絶望、死ぬことでしかこの世に刻むことができないような自己の存在感が横たわっているように見えます。そこで問題になるのは自分にとっての生きる意味を自分自身で見出すことができるかどうかでしょう。 先日、去年担任した生徒のお母さんからメールを頂きました。保護者会で久しぶりに私の姿を見て「痩せられましたね。ダイエットですか?」とありました。今日で体重を減らし始めてちょうど3ヵ月になります。その間に体重は20s、体脂肪は10%減り、ズボンのベルトも10p切りました。 健康や美容のためのダイエットをしている訳ではありません。春休みに入ってすぐのある日、一人の卒業生が私を訪ねてきてくれました。彼女と話をした後、自分の体のどこかで「カタン」と音がして、その瞬間ひらめいたのです。「体重を減らそう。そうすることで大切な何かに『コツン』と突き当たるかもしれない。そこに生きて行くのに必要な光が見えたら幸い」と思ったのです。 その日から食事制限と同時に、家から御香宮までの往復12kmのウォーキングを始め、今はサウナスーツを着てウォーキングとジョギング半々、特別な用事(映画を観に行ったり)がない限り続けています。それはひょっとしたら、見つかる当ての無いものを見出そうとしているだけなのかもしれませんが。
そして、そんなテクテクトコトコの先に夢想する、私なりの大きな野望が、何とか今日一日を支えているようにも思えるのです。 つづく つづく |
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■ 京女大を見に行かずして、京女大に行きたいと言うなかれ まずは、いろんな学校(大学や専門学校)のホームページで情報を仕入れる。で、何かちょっとでも心に留まるものがあった学校に足を運ぶ。8月1、2日は京都の21私立大学が一斉にオープンキャンパス開催。パソコンが使いにくい人は携帯に http://www.oc-kyoto.com を登録してチェック!京女大に行く気がある人は、「京女倶楽部」を登録しましょう。下に転載したオープンキャンパスと受験生ルームの情報を確認して下さい。 (裏は終礼で紹介したビラの縮小コピー※省略) ■ 「生きがい」と問われて、何と答えますか?――A 「生き甲斐」を辞書で引いても、そこに自分がどう生きるべきかなど示されている訳がありません。しかし、言葉の元々の意味を確認することで、自分なりの考えを整理するきっかけが得られることもしばしばあります。そこで、おもむろに『新明解国語辞典第四版』を引くと……
「生き甲斐」が、自分が何かをしたことによって得られる満足感であるならば、「生き甲斐を求める」というのは、「自分が活動した結果として満足感が得られる何か」を求めるということになります。 つまり、「生きがい」を問題にする前提には「長生きしたい」「家族を食べさせていくぞ」「あれもしたい、これができたらいいのに」という、生きることへの貪欲さ、欲望を抱くことを肯定する感覚が必要なようです。それがない、あるいは希薄な人は「あなたの生きがいは何か」と問われて戸惑うのでしょう。きっと私もその一人なんだろうなと思います。しかし、だからといって、何の欲も希望もなく生きていけるのかといえば、私にはそんな自信はありません。
つづく |
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■ この夏、オープンキャンパスに行こう 今日から試験二週間前。テストテストで区切られ追いたてられることに、君はめまいのようなものを感じているかもしれません。君は、自分の生活や人生を、自分が所属する何か(学校や会社や家庭etc.)によって区切られ、順序立てられていることに違和感を感じ、居心地の悪い焦燥感を抱きながら生活しているのでしょうか。それとも、そうした縛りに安定した秩序を見出し、忙しさの中にも安心感を抱きながら生活しているのでしょうか。 先週、ある卒業生がやって来て、僕の前で自分のスケジュール帳をめくりながら、「こんなに予定が詰まっているのに、全然充実感が得られない」と嘆いていました。大学の授業はそこそこ真面目に受け、サークルにも所属しバイトもやり、友達とも遊びに行っている。暇にしていることはほとんどなく、足りないものといえば彼ぐらい……。なのに、充実感が得られないのは何故だろうと溜め息混じりの愚痴をこぼしていました。 その数日後、また別の卒業生がやってきて、自分や友達の京女大生活についてあれこれ話してくれました。彼女は推薦で進学する上で一番大事なのは学部学科選択だといっていました。そして京女大の現代社会学部を選択したことに満足しているものの、今やっているゼミが面白くないとこぼしていました。その一方で、同じ学科に進んだ友達の中には、積極的にゼミに参加し、自分でテーマを見つけて意欲的に勉強している子もいるといいます。 また、食物学科に行った友達は、授業が厳しいことは覚悟していったけれど、思った以上に大変で、後悔はしていないけれど自分の考えが甘かったことを実感しているといいます。気になるのは授業に来なくなり、久しく姿を見ない子が何人かいるということでした。大学以外に自分の居場所や活躍の場を見つけてくれていることを願うばかりです。 さて3ヵ月後の9月、君は高校3年生で受ける選択授業を決めなければなりません。それは、自分が何大学の何学部の何学科を受験するつもりなのか、その受験科目は何なのか、推薦を第一に考えるのか一般受験も頭に置くのか、一般受験ならセンター試験も使うのか使わないのかを決めるということです。「どーせ私は京女大の推薦しか考えてないし」などという他人事感覚で安易に選択して、後悔する人が毎年います。 とにかくこの夏、京女大も含めて、クラブを休んでもオープンキャンパスに足を運ぶこと!!! 百聞は一見にしかず ■ 「生きがい」と問われて、何と答えますか?――保護者会・クラス懇談会報告 昨日は暑さ厳しい中、保護者会への多数のご参加ありがとうございました。「全体会」の話の一部については裏面に転載させてもらった『6組ランドNo.7』(6組のS・Y先生作)をご参照下さい(省略)。クラス懇談会へご参加は27名、1時間半足らずの限られた時間でしたが、お互い直接顔を見合わせながらお話ができたことを嬉しく思っております。お嬢さん方の活躍の一端を知っていただくためにお配りした「クラス役割一覧」も、裏面に再掲載しておきました(省略)。 懇談会で話題になった数Uと英Uの授業の件は、学年主任に報告しておきました。一定の検討、あるいは配慮がなされることと思います。話が分かりやすくなるようにと、少しばかり誇張をした表現にエッと思われた点もおありかと思いますが、疑問やご意見につきましては個人面談などでも受けたまわりますので、ご遠慮なく仰ってください。 また、「受験や進学は自分の願いや意思に基づくものであり、子供が親に進学させてくれとお願いして頼む筋合いのものだ」と言うことは、今日の終礼で念を押しました。(裏面にユニセフの通信に載っていたアフリカの子供の手記を転載しました。)私物の整理やゴミの始末ができる自活能力を高めることや、クーラーなどによる体温調節などの健康管理につきましては、ご家庭でもご配慮下さいますよう重ねてお願い申し上げます。 さて、グループ懇談の際、あるテーブルで進学と就職の関連が話題にされていました。「大学では文学などのように非実用的で一見役に立たないものを学んでみるのもいいのではないか」という私の意見に対し、「不況の最中、資格や技術が必要では」という話題。そこで出たのは「やりたいことや好きなことが見つからない」という悩みでした。 「好きなことを仕事にできている人など一握り、大概はしんどい思いをしなが稼だお金で好きなことをしているのでは?」と話を振ると、「先生は仕事が生きがいじゃないのですか?」と問い返されました。それに対し、私は「学校の仕事はうんざりすることがたくさんあります。それでも何とか続けていられるのは、生徒達と授業や面談やクラブ活動で付き合うことが楽しいからです」と答えました。 どうでしょうか? 今している仕事に誇りを持っていらっしゃる方も、始めからそれが自分にぴったりのやりたいことだと思って始められたでしょうか? 家族を養うに必要な収入を得ている仕事を、即座にそれが生きがいだと答えられますか? 今、それなりの幸せや楽しさを感じながら過ごしている方は、その幸福感と仕事をストレートに結びつけていらっしゃいますか? どうでしょうか? あなたの夢は何ですかと聞かれて、仕事がうまく行くことと答えますか? それとも、仕事以外の何かについて語られますか? これからの何枚かの「手紙」で、それについて考えてまいりたいと思います。 皆様からのお手紙を頂けたら、幸いです。 つづく |
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■ 言葉にできない思いがある 言葉にできない人がいる 東京芸術座の『夏の庭―Friends』は楽しめましたか?僕の第一印象は「君らは『名探偵コナン』の友達か?」と言った感じで、あの声の質やしゃべり方には少しばかり抵抗がありました。でも、テンポのよい舞台回しや演出が小気味よい、若々しいお芝居には好感が持てました。文化祭でお芝居をする時の参考になれば幸いです。
この本の翻訳者谷川俊太郎は、あとがきに「悲しみは『私の悲しみ』であり『ほかの誰か』が必要になってくる。その、他の誰かは悲しむ私に共感してくれる誰、悲しむ私を愛してくれる誰かであるとともに、新しく誕生する生命そのものだ。ロウソクの光りは、悲しみの闇にひそむ明日へと向かう道を照らし出す」と書きました。 しかし僕には、最後のページで写真立ての後ろにともされたのロウソクの焔を見つめる男の瞳に、「明日へと向かう道」が映っているようには見えませんでした。翻訳された言葉もフィットしませんでした。 どこかの生命保険会社の宣伝文句を書いている谷川俊太郎には、もう「二十億光年の孤独」を直感し表現する力が失われているように感じた悲しい本でした。そして、何とかして英語で書かれたこの絵本の原書を読んでみたくなりました。誰か持っていたら貸して下さい。 ■ しないのは「思ってない」から 「思ってるだけ」では始まらない 違和感を感じた絵本の翻訳と、その絵本の主人公の家族を失った悲しみが重なったので、学校のごちゃごちゃ用事を済ませた後、三時過ぎから三条のMOVIX京都へ。国連で通訳をしている女性と事故で妻を失った男が交差する映画、シドニー・ポラック監督、ニコール・キッドマン主演の『ザ・インタープリター』(2005年/アメリカ/UIP映画)を観に行くことにしました。 ニコール・キッドマン演ずるアフリカ生まれの白人女性は通訳(interpreter)。内乱(武力)によって肉親を失った彼女は、外交(ことば)によって平和な社会を作る手助けになろうと決意し、国連で同時通訳として活躍していました。ところが偶然祖国の大統領の暗殺計画を知ってしまい命を狙われます。その彼女を守るシークレット・サービスは、事故で二週間前に妻を失って職場復帰してきたばかりの男。 最後10分間の緊迫した場面で、銃をつきつけられた大統領が朗読する「騒々しい雑音の中で、微かなささやきが伝わるのは、その言葉に真実があるからだ」という意味の台詞が印象的でした。語学や社会学、政治学を学びたい人にはお薦めの映画です。
誠実で情熱を持った依頼者が恋によって豊かな人生を手に入れるために、彼は依頼者とその相手の情報を徹底的に集め、分析し、改善すべき問題点を洗い出し、取るべき行動を決定します。そこには、「辛い日常に耐えて待っていれば、いつか白馬の王子様がやってきて、私を幸せにしてくれる」といった受動的で他人任せの人生に対する批判があります。 長く生きれば生きるほど「思い通り」に生きることの難しさ思い知らされます。「思った通り」になる時は、たいてい悪い予想があたった時。それなら「何も思わず期待せず、空行く雲のごとく、河を流れる水のごとく、無常のこの世を漂うしかない」と思い込む人もいるでしょう。それに対して「思い通りにはならないのが普通なら、今ある自分のやれることから、やれる限り、思うがままに行動しよう」と思い切るのも一つかも。 でも、自分の内側に何も思い描くことができず、まわりばかりをキョロキョロ見回し、はみださないようオタオタ日々を過ごしていくことを、辛いと思い煩うことなく生きていける人もいるんだろうね。 つづく |
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■ Offense is the best defense? 「攻撃は最大の防御なり」と言うことわざがヨーロッパにはあるようですが、それを聞くとき僕がいつも思うのは、「闘うべき相手は何で、守るべきものは何か」と言うことです。君にとって血を流してでも守りたいものは何ですか? 先週木曜日は金剛能楽堂で能楽鑑賞。金剛流の能『土蜘蛛』と狂言『ぶす』を楽しみました。去年まで京都観世会館で観ていた観世流に比べて、金剛流は土蜘蛛の吐く糸の量が三倍ほど多いし、後ろ向きに反り返って糸を吐きながら死ぬ演出も派手で、退屈せずに楽しめたのではないでしょうか。 ただ僕は、土蜘』の最期を観るたびに「結局は権力者が勝つのか?!」と、切なくなります。『土蜘蛛』を一口で説明すれば、「支配を強める中央政府から、自分達の土地を守ろうと立ち上がった地方の豪族が、政府軍に返り討ちにあって死に絶えた話」といったところでしょう。「もののけ姫」もそう。殺した相手は、本当は善良な農民であったり、自分達の文化や伝統を大切にする心優しい人々かもしれません。 しかし、勝った者達は、自分達の行いを正当化するために、やっつけた相手を非人間的な悪者として描きます。それは、第二次世界大戦の時にアメリカ人を鬼のように描いた日本軍にも、フセインを悪魔と呼んだブッシュ大統領にも、いま北朝鮮の人々を同様に描こうとしている日本のある人々にも同じことが言えるでしょう。 攻撃だの防御だの、大げさな言葉にウッカリ乗ると、自分が大切大切にすべきものを見失いかねません。自分がどんな社会で暮らしていきたいのか?そのために自分はどう行動すべきなのか?そのためには何をどう学んでいくことが必要なのか?そうしたことを面倒くさがらずに考える時間を一日の中で、わずかでも持つことが、自分の「進路」を考えることそのものなのだと、思うのですがねぇ…… ■ 死の自覚が自立の扉 さて、今週の木曜日は長岡京文化会館で演劇「夏の庭」の鑑賞。原作は新潮文庫にも入っていますし、映画化もされている作品なのでストーリーを知っている人もいるでしょうね。相米慎二監督、三國連太郎主演の映画『夏の庭―The Friends』(1994年)は、ストーリーもテーマも「日本版スタンド・バイ・ミー」という感じ。1986年に公開されたロブ・ライナー監督による映画『スタンド・バイ・ミー』(Stand by me)を観たことがない人は、ビデオでもいいので是非観てください。人の死を通して少年達が子ども時代と決別し、大人の世界へと旅立つ話。自分の生き方を貫いた主人公の少年が、大人になったラストシーンが悲しい! 自分がどんな生き方をしたいのか、それをイメージしにくい人は、なかなかガンバル気にもならないものです。そんな君へのお薦めは、いろんな人の伝記や自伝、半生記を読むこと。二昔前の伝記といえば、男の子向けには『エジソン』『ファーブル』『野口英雄』、女の子向けなら『ヘレン・ケラー』『ナイチン・ゲール』『キューリー夫人』といったところでした。そうした定番の偉人伝でもよいのですが、小説も含めて、自分の生き方のモデルにしたくなるような本を見つけてみてはどうでしょう。
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■ 答案の そのあまり悪きに泣きて 三歩あゆまず 君は、中間考査が終ってからの一週間に漏らした深い溜め息を、今日の努力にどう結びつけているでしょうか。裏に「バーチャル五段階表」を載せました。(省略)もし今回の中間テストの点数そのもので五段階評価をつけたらどうなるのかという仮想評定です。実際の成績は提出物や小テスト、実技その他の平常点が加味されますから、この通りにはなりません。あくまでも一つの目安です。右端の各科目の五段階を合計して受験科目数で割った「評定平均」も同様です。君が願う京女大への内部推薦や指定校推薦を実現する上で、どれほどの努力が必要かを考える目安にしてください。 学校の成績が悪くても、死にません。勉強の出来が悪いからといって、人格までが否定されることがあってはなりません。成果が出ずに謝る先生がいてもおかしくありませんが、できなかった生徒が先生や親にごめんなさいと謝る必要はありません。 学ぶことそのものは、知る喜びや分かる楽しさを味わう、人間特有の知的好奇心を満足させる営みです。様々な知識や技術や思考方法を学ぶことで、豊かな人生を作り上げ、社会の一員としての役割を果たしていくためにするものです。大学や専門学校に進学しようとするのは、君がそうした場を求めているからでしょう。 「早く試験が終ってほしい」「とりあえずさっさと高校を卒業できたらいい」などという声もどこかから聞こえてきます。僕も疲れてくると「早く一週間が終って日曜が来てほしい」と思うし、「さっさとこの世を卒業したい」と思う日もあります。でもね、「何かが終ることが願い」というのは切ない話です。「明日のために今日もガンバル」と言うのが自分にあっている人はそれもよし。でも、「明日のことはわからないから、今日一日を精一杯過ごす」というのもありでしょう。いずれにしても、何かに追われ怯えて、オロオロオドオドしながら暮らすのはごめんだよね。 明日は能楽鑑賞会、来週の木曜は芸術鑑賞会。溜め息付いて吐いた息のかわりに、文化の香りをたっぷり吸って、君自身を豊かに育ててくれることを「すべてのさいわいをかけて願ふ」ばかりです。 ■ 問われるのは実績、試されるのは誠実さ このところ卒業生がよく職員室を訪れてくれます。昨日も京女大の生活福祉学科に推薦で進学した二人が「先生相談にのって」とやってきました。二回生になると老人福祉施設に実習に行くことになるそうです。そうした「現実」が一つ一つ目の前にやってくるにつけ、自分が福祉の仕事が向いていないのではないかと不安になり、卒業までに何をどうしたらいいのか一緒に考えてほしいということでした。 そんな彼女たちと話したのは、「就職する際に問われるのは、君が何をしたいのかではなく、君に何ができるのかということ」だという、考えてみればあたりまえの事実です。「自分が興味をもてる仕事をしたい」「自分の趣味にあった仕事をしたい」「これからガンバルつもりです」というのは、君の勝手でお好きにドウゾと言われるだけ。問われるのは「君が今日までに何に取り組み、今どんな力を身に付けているのか」ということでしょう。
2年2組の保護者の皆様へのお願い きたる6月20日(月)の保護者会・クラス懇談会への出欠確認は15日までですが、現在出席17名、欠席4名の連絡を頂いております。年に幾度もない貴重な機会ですので、少しでも充実したものにし、クラス懇談では、仕事の都合等で出席できない方のご意見も踏まえて資料なども用意したいと考えております。下欄を切り取りの上、是非アドバイスを下さい。 つづく |
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■ 1ラウンド50分、最後まで闘う脳力を鍛えよ 今日から6月。二年生最初の定期考査も後一日。答案の出来不出来は別にして、君の受験態度はどうでしょう。試験終了のチャイムが鳴る寸前までペンを走らせ続けている人がいる一方で、解答用紙の大半が空欄のまま、時間半ばにして机に突っ伏している人がいます。 1ラウンド50分間を闘うだけの体力+気力+知性=脳力がない。
1ラウンド50分、一秒のすきもなくパワー全開で問題を解き続けられたら、どんなに爽快でしょう。 骨や筋肉がギシギシ音を立ててきしむような勉強で、自分の脳をいじめて鍛える。ありったけの力で知識を詰め込み絞り切り、脳味噌から血が噴き出すほどに思考の回転を上げ、気を失うほどに意識の宇宙を急降下し急上昇し急旋回する。美しく浮かび上がったひらめきを言葉や数式に描く。 それを可能にするタフでエレガントなユニットに、自分を鍛え上げてみたいと思いませんか。それを、苦痛を伴う快楽だと思う僕は、マゾヒストでしょうか? ■ 自分を守る・自分を作る
「自分を守る」とは、自分の夢を育てること、自分のプライドを失わないこと、自分の信念を貫くこと、自分のアイデンティティーを確立すること、自分の立場をわきまえて人との関わりを大切にすること、そして自分の生き方=死に方を納得できるものにすること。 この数10年、「自分らしさ」だの「個性」だの「自分の好きなことを見つける」だのと口で言う人は多いですが、それを掴んで育て上げる厳しさに立ち向かう人は限られています。何かの型にはめられたくない、決まったものに縛られたくないと言うならば、それ相応の覚悟と努力と忍耐を持って自分を鍛え、道を遮る常識や足を引っ張る世間体と闘うことが必要なのです。 それがどういうことなのか、テレビ画面で実感したい人は、ヒラリー・スワンクが主演したキンバリー・ピアース監督の映画「ボーイズ・ドント・クライ」(Boys Don't Cry /1999年/アメリカ/第72回アカデミー賞主演女優賞受賞)を是非観てください。1993年ネブラスカ州リンカーンで起きた実話が元になっています。一人の性同一性障害を抱える人間が、差別や偏見の中で自分の生き方を貫こうとしつつ、悲惨な結末を迎える深刻な映画です。たいていのレンタルビデオショップに置いてあります。 つづく |
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■ 天才の切れ味、異才のうまみ、凡才のほろ苦さ 保健室からロビーにかけての廊下は、様々な催し物のポスターが張られています。その一つに大丸京都店大丸ミュージアムKYOTOで開かれていた「入定310年 庶民の信仰・慈愛の微笑み 円空展」がありました。中学校の美術の教科書で円空を最初に知った時、「なんと独創的で格好のよい彫刻作品だ」と新鮮な驚きを得たことを今でも覚えています。で、この機会を逃してはならじと、降誕会のあと大丸に足を運びました。 観音菩薩を中心に百点以上の仏様が陳列されていましたが、どれも仏像でありながらポリネシアや南米の神像にも通じるような神秘性にあふれ、かつ超モダンなデザインです。そのノミの運びはこれぞ天才といったまねのしようもない完璧さを感じました。会期は今日の5時までなので、もし学校帰りに寄れるなら、是非ご覧下さい。 大丸を出たあとは京都シネマで、ウッディ・アレン監督・主演の「さよなら、さよならハリウッド」を鑑賞。(原題:Hollywood Ending/2002年/アメリカ/113分、配給:日活)を鑑賞。僕が初めて観たウッディ・アレンの映画は「カメレオンマン」というバカバカしくも物悲しいコメディでした。それ以来、彼の知的なユーモアやペーソスのセンス、マイノリティが抱える問題を随所に織込む社会性が気に入り、レンタルビデオで楽しんできました。で、久しぶりに日本で公開される作品の京都上映初日に是非と足を運びました。 この映画を観てつくづく思ったのは、英語を理解し使いこなせる力があったらきっと10倍楽しめるんだろうなと言うこと。字幕では表現し得ないような英語特有の言いまわしやジョーク、アメリカ文化に通じている人ならピンとくるパロディや皮肉が、きっと山ほど盛り込まれているのでしょうが、悲しいかな、語学力に乏しい僕には、きっとそうだろうなと想像するぐらいしかできませんでした。英米語科に進学しようと思っている人には、お薦めの映画です。 外国文化といえば、JR京都駅・伊勢丹7階の美術館「えき」KYOTOで催されている「市田ひろみのコレクション 世界の民族衣裳展」もおもしろそうです。 割引優待券の裏に書かれている紹介文によれば、「服飾評論家、市田ひろみは、ライフワークとして30年以上にわたり、世界100カ国以上を自らが歩き、民族衣裳の収集と保存、そして調査研究に努めています。それらの民族衣裳は、上流階級の豪華な衣裳ではなく、一般の人たちが着用する素朴な普段着であり、女達の手仕事によって生まれてきたものです。本店では、市田ひろみの膨大なコレクションの中から世界各国の民族衣裳60点を展覧します。」とのこと。 外国語、国際文化、民族学、生活デザイン、被服などを大学で学んでみようかなと思っている人にはよい刺激になるかも。僕は、今週中に行くつもり。 会期は5月18日〜6月5日(日)、最終日以外は夜7:30まで入館できます。高校生の当日入場券500円です。 ■ 一度きりの人生だから
今日、進路指導係から「ベネッセ進路アドバイスシステム 学部・学科編」という1000円で受けられる適性検査のお報せが来ました。その結果を、自分を知る手掛かりにしてみるのもいいかもしれません つづく |
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■ 今日の風に吹かれて、明日の風となる
昨日の合同HRの進路オリエンテーションは、君にとってどんな刺激となったでしょうか。その時配られた4冊のパンフレット、増進会の「Z会 進路解体新書 進路のヒント 勉強のヒント」「Z会 受験解体新書 受験生で行こう!2005」、旺文社の「蛍雪時代 SUPER HIGH SCOOL GUIDE」、栄美通信の「エイビ進学ライブラリー」をゆっくり読みましたか? いずれも受験業者が智恵を絞って作った冊子です。せいぜい利用して下さい。 さて、個人面談も順調に進み、残るは後3人。自分自身についても、クラスの子に付いても、そんなに大きなお困り事はないというのが大半でしたが、二つ気になることがありました。一つは「ざわざわして落ちついて授業が受けずらい科目がある」ということ。心当たりのある人は、困っている人がいるということを心にとめて暮らして下さい。 もう一つは進路に関することで、「文学」と「語学」の混同です。うちのクラスは「TAコース」というだけあって、「大学では外国語学んで、将来それを生かせる仕事につきたい」という志望を持っている人が片手の指では足りないぐらいいました。ただ、「英文学科」と「英語学科」を混同している人もいました。読んで字のごとく、英文学科は、「英語で書かれた文学作品の研究」をするのが主であり、英語学科は「英米を中心に話されている言語の性質や、その言葉の背景としての文化を研究」をするのが主です。 たとえば、英語を話せるようになって通訳になりたいとか、空港のグランドホステス、ホテルのフロント係、旅行会社の添乗員などになりたいというのであれば、文学を学ぶのではなく、外国語学部で学ぶほうがぴったりくるかも。翻訳の仕事がしたいとか、海外の映画作品の紹介をする雑誌の編集をしたいとか言うのであれば、文学部で学ぶのも一つです。 もちろん大学によって講座や教授のラインナップはいろいろですから二つを単純に分けることはできません。ただ、名は体を表わすというように、「学科の名前が違えば研究対象も違う」のだということは知っておきましょう。最近の京女大の推薦で、文学部英文学科の人気が低いのは、文学にどっぷり浸かって人間の生き方を探求しようという人よりも、言葉を道具として考え、それを使って仕事の役に立てたいという実利的な考えの人が増えているからでしょう。 京女生がよく進学する外国語系学科があるのは国立の大阪外大、公立の神戸外大、私立の関西外大、京都外大、京都産業大学外国語学科です。 何にせよ、「自分がなぜ大学に行こうとするのか」すら考えず、どこに行くかを考えるなどというのはナンセンスです。入れそうなとこはどこかなどと考える前に、「4年の月日と500〜800万円かけて学ぶ値打ちのあることは何か」を、資料を取り寄せ、そこに足を運びながら探してみましょう。 ただ、その答えは、自分のそとにあるのではなく、たぶん16年間の君の人生(経験と意識と感動)のなかにあるのだと思います。 ■ 大きく道を分ける小さな一つの変化 明日から京都シネマではウッディ・アレン自作自演の「さよなら、さよならハリウッド」が始まるので、僕は降誕会の式典が終ったら観に行くつもりです。CGばやりのアメリカ映画は少し食傷気味なのですが、予告編に惹かれて一昨日はMOVIX京都南館でエリック・ブレス、J・マッキー・グルーバー監督の「バタフライ・エフェクト」を観てきました。蝶々のほんの小さな羽ばたきが、地球の裏側の嵐に結びついて行くというのがバタフライ・エフェクト理論です。記憶を失った主人公が超能力を得て過去に遡り、良かれと思って過去を変えたことが思わぬ悲劇に結びついていきます。まあまあのできの映画でした。 ひょっとしたら今日のあの授業でのその質問が、今日の放課後のあの友達へのその一言が、君や友達の人生ばかりでなく、全人類の未来を変えていくのかもしれません。それを知ることができる力を、僕は特殊な超能力ではなく、豊かな想像力と呼びたい。 さて、今日の夜9時から始まる藤原紀香主演のTVドラマ「天国へのカレンダー」は、昨日も話したように、京女の卒業生石橋美和子さんがモデルとなっている作品です。僕は国語科の歓送迎会で見られないので、その感想を君に教えてほしいと思っています。下に、5月17日付け朝日新聞夕刊の番組紹介記事の切抜きを載せておきます。(省略) つづく |
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■ 安全で効率的か危険で無駄か 昨日の仏参でK先生がされた夏のプールのお話を、君はどんな風に受けとめたでしょう。僕はなるほどねぇと感心しました。水飛沫を上げながらみんなが好き勝手な方向を向いて戯れているプールにコースロープを張って、クロールで泳ぐ人、平泳ぎで泳ぐ人、早く泳ぐ人、ゆっくり泳ぐ人etc.とコース分けし、決まった間隔を置いて泳ぐようにすればぶつかることもなく「安全かつ効率的」に泳ぐことができるでしょう。プールサイドの上からみんなの姿を眺めていてそれに気付いたK少年の目は、「混沌」に「秩序」を与え、この世界を作りたもうた神の視点に近かったかもしれません。 その話を聞きながら僕が思ったのは、「でもそれって、楽しいのかな?」ということです。昔読んだある本に、とあるスイミングクラブのエピソードが載っていました。それは、夏休みにスイミングクラブの生徒達が海に遊びに行った時の事。青い海を前にした生徒達は、白い砂浜に立ったまま海に入ろうとしない。先生が「さあ思う存分泳ごう!」と言ったところ、生徒曰く「コースロープが張っていないので、どう泳いだらいいのか分かりません。」 僕の小学校にプールができたのは確か小学校3年生のころでした。それから高校3年の夏休みまで、夏休みのプール解放日は皆勤賞をもらえるほど足を運び、夏を満喫しました。プールの中では「水泳」よりも、先生がプールに投げ込んだビー玉拾いの競争をしたり、水中騎馬戦や水中ドッヂボールをしたり、女の子も男の子も混ざり合ってワーワーキャーキャーやるのが楽しみでした。 今でも、潜水競争で覚えた酸欠のめまいを、飛び込んで腹打ちして赤くなったお腹のしびれを、好きな女の子の腕が触れた時のドキッとした恥じらいを、プールサイドで背中をチリチリ焼きながら暖まっていくお腹の温みを、あのプールのカルキ(塩素)臭さと共にありありと思い浮かべることができます。もし、誰かに決められたとおりコース別に順序良く泳いでいるだけだったら、そうした思い出は僕に残らなかったでしょう。 人生の送り方も、ひょっとしたらそれと同じかもしれません。「これから流行そうで、安定した高収入が得られそうな××の仕事をするには、■の資格が必要で、それには○○大学△学部に進むのが有利、だから高校では◎コースで勉強する。あれとこれとはいらないから手を抜いて、その分それとこれとに力を入れよう。」というように考えて、日々計画的に努力する。 将来どんな役に立つのかというフルイで物事をえり分ける暮らし方が、安全で効率的に大きな成果を得られると考える人がいるのも事実です。 その一方で、今やっていることそのものを、じっくり味わいしっかり楽しむ暮し方を大切にする人もいます。いろんなものに出会うという事は、時にはぶつかって痛い目もし、愛し合ってもケンカになったり別れたり、危険や無駄を覚悟するという事です。 「自分の好きな事」「自分の興味が持てること」「自分にあっている事」が、コースロープの向うにちゃんと用意されていると思うのは「幻想」だと、本当は君のお母さんもお父さんも知っているんじゃないかな。 ■ 悪いことだけど味わい深いこと 今日、図書係の先生の会議で不思議な事件を知りました。京女の図書館の本43冊が、伏見区の中央図書館の返却用ブックポストに入れられていて、それを引き取りに行ったというのです。それらの多くは無断持ち出しで、どうやら卒業した生徒のしわざだろうということでした。 無断持ち出しも、公立図書館に本を放り込むのも悪事です。ただ、僕はその少女が本を捨てられない本好きの子だったんだなと思いました。そして43冊の本の中のシャガールの画集や山村暮鳥の詩集に混ざって藤原新也の写真集「メメント・モリ―死を想え」(情報センタ−出版局 1983年出版 \1,275)を見つけた時、僕はその少女にたまらなく会ってみたくなりました。 「メメント・モリ」とは「死を想え」という意味のラテン語です。君は「将来のことをしっかり考えなさい」といわれた時、何を考えることなのだと思いますか?誰にも必ず待ち受けている究極の将来は死です。それをどう受け止めて行くのかによって、今日一日の過ごし方も変わるのだと、僕は思って生きています。 この本には人の生死に関わる74枚の写真に著者の短いコメントが付けられています。下に紹介したのはその一ページで(省略)、ガンジス河のほとりで火葬にされる人の姿です。こうした写真や東京芸術大学油絵科中退の藤原新也に興味のある人は、彼のオフィシャルサイトhttp://www.fujiwarashinya.com/ をのぞいてみてもいいかもしれません。 (ちなみに、見知らぬ彼女が持ち出した本は、図書館の棚に戻っています) つづく |
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■ 人間としての尊厳 新クラスへの慣れが生活のダレに変質しかけていた君は、席替えで良いしきり直しができたでしょか? さて、先週土曜はお釈迦さんのお誕生会(生きていれば2500歳ぐらい)で楽しみ、来週の土曜は親鸞さんのお誕生会(1173年生まれ。生きていれば829歳)で一日授業なし。イエス・キリストもそうだけど、死んだ後まで誕生日を祝ってもらえるっていうのは、その人たちの「登場」が、時代を超えてこの世の多くの人の救いになったことの証なのでしょうね。 お釈迦さんが生まれた時、突然甘い雨が降り出し、その中で彼は「天上天下 唯我独尊」と言ったそうな。それは一人一人が掛け替えのない尊い存在であることを人々に知らせる釈迦の誕生を人間界を包み込む自然、宇宙の大きな存在が祝福したからでしょう。それにならって釈迦の像に甘茶をかける現代の僕らは、この世のすべての生命、共に暮らす一人一人の「人間の尊厳」に敏感になるべきだということを再確認すべきなんでしょうね。 僕らの生活は、ややもすると「時間」に追われ、「予定」に追いつめられ、「規則」に縛りつけられてしまいます。時間も予定も規則も、社会生活を送る上で重要な要素だとされていますが、それが時に人の命さえ奪うということを、この前のJR福知山線の事故が示してしまいました。僕らが本当に守るべきものは何なのか、限りある人生を豊かなものにしていくために必要なことは何なのか?それを考えるのをやめて、進路も模試も授業もへったくれもないでしょう。 ただ、明日は追試、明後日は補習、次の日曜はクラブといった生活をしている君には、自分がどうあるべきかを考えることは難しいかも。そんな君へのお薦めの映画が京都シネマで封切られたアレハンドロ・アメナーバル監督のスペイン映画『海を飛ぶ夢』です。事故で首から下が麻痺してしまい28年間ベットで寝たきりになっているラモンが尊厳死を求めながら法廷で却下され、恋人と友人の協力で最後にそれをやり遂げる物語です。 僕は、ラストシーンをまばたき一つせず、涙一筋流さず見つめました。尊厳のある死がハッピーエンドとなる、手ごたえのある映画でした。下に、京都シネマのホームページの作品紹介を転載します。
一番印象に残った台詞はラモンの面倒を見ていた義理のお姉さんがカトリックの神父に向って吐き出すように言った「何が正しいのか私にはわかりません。ただひとつ言えるのは、あなたが騒がしいってことです」という台詞。神父はラモンの言葉に耳を傾けようとせず、神の教え=自分の考えを押し付け、彼の家族を一方的に批判する事しかしませんでした。 自分の考えを押し付ける説教は弱った人の心をかき乱すばかりで、その人の力には決してなりません。神父の態度には、少なくとも「愛」はなく、彼の「傲慢さ」ばかりが鼻につきました。「私がお前を救ってやる」「私の考えに従えわなければお前は救われない」といった傲慢さは、決して人を救わないということを、映像は語っていました。 ■ 自己決定権を行使できる能力を身につける 尊厳死という呼び方に対して、『海を飛ぶ夢』で登場した神父は「はっきり自殺と言ったらどうなんだ」と批判しました。日本でも「命の大切さ」を教えることはあっても、「人間としての尊厳をもって生きる=死ぬこと」を教えようとする人は少数です。一方、現代のオランダでは12歳以上の国民すべてに尊厳死、あるいは安楽死が法的に認められています。 その基礎をなしているのが「自己決定権」という考え方。自分の生き方は誰かに決められるのではなく自分の責任で決める。社会(国家)は、個人(国民)の意思を尊重できるように多様な選択肢を保障する機関。個人は、その選択の結果に対し責任を持つ。学校は、生徒が自分の責任で自分の人生を選び取る力を育てる場所。それがオランダ流といえるかも。 島国の小さな学校の片隅でオロオロ・セカセカと生きている僕らにとって、同性結婚、医師による麻薬の処方、登録制の売春制度など、個人の生き方を最大限追及し続ける人権最先端国オランダを紹介する本は、出島に足を踏み入れた江戸の人々以上の驚きを与えてくれるかもしれません。そんな一冊、三井美奈著『安楽死のできる国』はお薦めの一冊です。
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■ 高くついた好奇心 今日は四人も遅刻して、なんとなくダランと始まった連休明けの一日でしたが、君の連休はどんなだったでしょう? 僕は「愛・地球博」をのぞきに行ったり、ガーデニングに精を出したり、陽射しの中で過ごしていました。地球博は、とりあえず冷凍マンモスの死体を観られればいいやと思って出かけたのですが、朝10時に手に入れた観覧整理券は夜6時20分からの分。それまでの8時間、トロトロブラブラいろんなパビリオンをのぞきました。 飲食物持ち込み禁止(後から手作り弁当は可に変更)の規則は「食中毒の防止」ということでしたが、あれは完全に商売のためでしょう。各国の展示場には売店やレストランがあって、本場の味が楽しめるようになっているのですが……例えば、アメリカのステーキホットドック1200円、インドのカレーセット1300円、ドイツのマッシュポテト付きソーセージの盛り合わせ2600円など、おいしくてもそんな値段をつけられては、ちょっとね。 で、日が暮れかかってやっと入場できるたマンモス・ラボは、ゆっくり進む動く歩道に乗ってガラス張りの冷凍室の前を通りすぎるだけ。8時間待って、参観時間約1分でした。夜8時半に会場を出るまでの10時間、座ったのは食事でレストランに入った1時間ほどだけで後は立ちっぱなし。「博覧会とは何か?」を研究してみたい人にはお薦めですが、僕には4600円の入場料(当日券)は割高でした。 そんな連休中、一番よかったのは京都シネマで観た中国の映画『故郷(ふるさと)の香り』原題:暖(ヌアン)でした。中国の山奥の小さな村が舞台で、ヒトコマのCGもワンカットの特撮もない地味な映画です。しかしCGの博覧会のような『コンスタンティン』の10倍味わい深い映画でした。人生の豊かさとは何か、人の優しさとはどのようなものかが、美しい映像からしみじみ伝わってくる素晴らしく出来の良い(そしてヒロインがたまらなくかわいい)映画です。京都シネマのHPの紹介を下に転載します。君にも是非観て欲しいお薦めの一品です。
■ 今あるのは先生のお蔭? さて、5月に入ってはや6日。明日7日の3時間目はお釈迦さんのお誕生会(花祭)、来週木曜12日はHR読書会、土曜21日は親鸞さんのお誕生パーティ(降誕会)、で月末の月曜30日からは中間考査となります。テストまで24日しかないなんて、どうしましょうね。 どうしましょうねと言えば、再来週のHRは進路オリエンテーションです。君も、日頃の勉強や高校卒業後の進路について、何とはなしの焦りやぼんやりした不安を、いつも体のどこかに感じているのではないでしょうか。そんな君はHR読書会で我がクラスが読むことになった山田詠美の『ぼくは勉強ができない』を、どんな思いで読んだでしょうか?「青春時代の悩み」をいかにも山田詠美らしい軽さで描いたこの作品を、きっと君も楽しく読めたでしょう。 そんな作中で、僕が一番共感したのは、「不純異性交遊」をとがめた学年主任の佐藤先生に対して、主人公とその担任が交わすP110の会話です。
これを読んでいて、僕の高校時代を思い起こしました。ときどき受ける質問に「なぜ先生になろうと思ったんですか?」というのがありますが、僕が、今こうして「教師を仕事にしている五つのわけ」の一つがそこにあったからです。 僕が卒業した高校は、愛知県の「管理教育」を売り物にした新設校でした。そこには特定の考えに従う「優秀な」先生が集められていました。その入学式の校長先生の祝辞は「学校の規則に従わないような生徒は、今すぐこの武道場(体育館もプールもなかったなのに、なぜか武道場だけはありました)から出て行け!」でした。そうした学校にも親しく話のできる先生もいましたが、そうした先生は言わば日陰の存在で、元気良く学校の廊下を歩いているのは「厳しい生活指導が生徒の進路を保障する」と合唱しているような先生ばかりでした。 ある日、そうした先生の一人に向って学校批判をして、先生と喧嘩になったところ、 先生曰く「偉そうなことばかり言ってるが、お前が教師になったら、どうせ俺達と同じ事をするんだ。」 僕答えて曰く「一緒にするな、俺はあんたらとは違うぞ。」 先生曰く「教師になってからそう言ってみろ!」 答えて曰く「ああ、教師になって言ったるわい!」 「なれるもんならなってみい!」 「言われんでもなったるわい!」 と言うわけで、その後いろいろあったのですが教育大学に進学しました。ただし、彼らと同じ道を歩まぬよう、愛知教育大学ではなく、京都教育大学に進んだのです。その時一緒に教師とやりあった友達は一浪して宮城教育大に進み、今は小学校の教師をしています。(つづく) つづく |
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