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チンタラ・ボチボチ 脇道・袋小路の歩き方指導

その10  計算力と記憶力と想像力を鍛えて、飛ぶ

2004年度 20枚目 2004/07/20

高校生活最初の夏休みが明日から始まります。君が京女の高校生活に、本当のところ何を求めていたのかはわかりません。ただ、君がこの三ヶ月ちょっとの間に上積みした力の一部は、今日渡した「学業評価連絡表」にも表わされているはずです。裏に載せた科目別クラス成績一覧も参考にして、まずは謙虚に自分の一学期の出来を自己評価してみてください。


■  計算力

さて、生きて行くには様々な力が必要です。その一つが『計算力』。数学の授業で学んでいる高度で複雑な計算は、抽象的かつ論理的な思考力を鍛える上で重要ですが、ここでいう計算力とは、
「これからガンバル」と言うなら、何時までにどれだけやるのかを示す力です。

ある夏の午後、僕はささやかな発見をして、そのあまりの切なさに涙ぐんだことがありました。その時までの僕は、7月21日の夕暮れは夏休み最初の40分の1の終りであり、次の日から8月31日までも同じように40分の1ずつ減っていくだけだと、ぼんやり思っていたのでした。

ところが突然もう一つの時間の計算方法に気付いたのです。7月21日の夕暮れには夏休みのざっと40分の1が終っただけでしたが、翌日の夕暮れにはなんと20分の1が終っていて、4日目の24日には10分の1が終っているのです。それを表にすると……

11日

12日
模擬試験

13日
HR

14日
補習開始

15日
16日 17日

18日

19日
海の日

7月20日
終業式

21日

1/40

22日

1/20

23日

24日

1/10

25日

26日

27日

1/6

28日

29日

1/5

30日

31日

1/4

8月
1日

2日

3日

1/3

4日

5日

6日

7日

8日

9日

10日

1/2

11日

12日

13日

14日

15日

16日

17日

18日

19日

20日

21日

22日

23日

24日

25日

26日

27日

28日

29日

30日

31日

1/1

9月1日
始業式9:30〜

宿題確認テスト

 

 

 

 


テストとHRが終り、実質的に夏休みが始まった13日から今日までの一週間で、自分に何ができたのか?それをもとに考えたら、長そうに見える夏休みで「できること」がどれほど限られているのか『計算』できるでしょう。自分の努力を無視した「取らぬ狸の皮算用」を繰り返したあげく、夏の終りにつまらぬ「帳尻あわせ」で自分の怠惰をごまかすことがないように、一つの提案。

            毎週火曜日は、「心静めて来し方行く末点検日」にしましょう!


■  記憶力

夏休みに伸ばしたい力の二つ目は『記憶力』。学校では単語や年号や公式やらを、覚えてつなげて組み合わせて答えさせられ、夏休みにはその反復も求められます。ただ、ここで僕が問題にしたい記憶力とは、
生きる励みになるような一生忘れられない思い出を作り、悔しさを乗り越え失敗を繰り返さないように経験を教訓化する力のことです。

どこかの誰かがやったことや見つけたことやまとめたことを記憶するだけで夏休みを終らせず、「
自分でやって、自分で気付いて、自分で考えた大切なこと」を一つでも増やす。あるいは、これまでの自分を振り返り、自分のやりたいこと・やるべきことを少しでもはっきりさせましょう!

ただし君は未成年です。自分で責任を取れる範囲は限られているので、家の人と必要な相談を面倒がらずにしましょう。それが多様な人とのコミュニケーション能力をも高めます。


■  想像力

とりとめのない空想を楽しむ想像力は、人生の幅を広げます。

自分自身や目の前にいる人の心の襞に隠された何かを思う想像力は、人生の味わいを深めます。

そして、いま目の前にない何かを思い描く力は、人生の意味を教えてくれるかもしれません。

少女の夢はどれだけ大きくても突拍子もなくても、有るだけですばらしい。ただ、「絵に描いたモチ」ということわざがあるように、多くの夢は夢のまま終ります。夢がかなわなくても人生が破滅することはなく、それはそれでなんとかなります。だからこそ知っておきたいのは、
大人の夢は頭の中に描いて終るものではなく、日々の努力によってかなえるものだということです。

何かをしたい、できるようになりたいと願ったら、次にはそれを実現する方法や手段を見つけて努力する。やり始めるとすぐに自分の限界に突き当たる。それでも夢をかなえたければ、多くの人に、時には自分と考えや感覚の異なる人にも協力や援助を頼まなければならなくなります。その時にも必要となるのが、相手の立場や言葉にされていない思いを読み取る想像力です。

想像力は「
今ない何かを信じる力」でもあります。夢を見つけ、夢見た何かを実現していくには、自分の可能性と誰かの助けがあることを信じる力が必要です。それを信じられるようにしてくれるのがステキな人との出会いであり、それを実感させてくれる本(物語)です

右の本の国際インターンシップコーディネーター和栗百恵さんの紹介ページ(裏に目次をコピー)に次の言葉がありました。


この人がかっこいい!
この仕事がおもしろい!
キャリナビ編
日経BP社発行

鳥は『鳥だから』飛べるんじゃない。『飛びたい』と思うから飛べるんだ

君のこれからの人生を支える、思い出深い夏休みとなりますように。

つづく
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その9 妻の死に際して    天命に安んじて人事を尽くす

2004年度 18枚目 2004/07/10

期末考査期間中という大事な時期でありながら、まる一週間学校を休み、何かと迷惑を掛けてしまったことをお詫びします。ごめんなさい。また、クラスのみんなが慰めの供花をくださったことに感謝しています。別れの席に足を運んでくださった保護者の皆様や、悼みと励ましのメールを下さった方々に、深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

この間、どうなっていたのかと心配してくださった方も多々いらっしゃるので、経緯を少しお話します。それがこれからの君の生き方の参考になり、ひょっとしたら人知れず同じような辛さや悲しみを抱きながら生きている人の力になれば、幸いです。

僕と妻とは18歳の春、大学のクラブ(京都教育大学管弦楽団)で出会い、20歳の秋から付き合い始め、23歳で結婚しました。24歳で一人目、28歳で二人目の子どもを授かりましたが、今年の8月1日の22回目の結婚記念日を、二人で迎えることはできなくなりました。

妻は2年半前の2002年2月22日の夜中、腸閉塞で緊急入院しました。その翌日、僕と二人の息子は手術室の前で手術着のままの医者から「癌性腹膜炎に間違いありません。手の施しようがないので、検査用の組織だけとってお腹を閉じました。残念ながら半年持たないと思ってください」と、宣告されました。

そしてその翌々日、妻は別の病院に転院しました。自分の病気を治すためではなく、食道癌で臨終間際だった妻の父の最期を看取るためでした。3月1日に父の葬儀を済ませた後、妻にも病名を告知し、妻と家族の病気との闘いが始まりました。


それから妻は四つの病院で入退院を繰り返し、五度の手術の痛みと、六種類の抗癌剤の副作用に耐えました。リンパ免疫療法や温熱療法、食事療法や様々な民間療法も試しつつ、生き延びるための精一杯の努力を続けました。ストマ(人工肛門)を作り、抗癌剤で髪も抜けましたが、去年の春休みには家族四人で沖縄に行き、夏休みには夫婦二人で北海道に旅行に行くことができるまで回復し、秋には妻の母と妹の三人で長崎にも行きました。

しかし今年の1月29日、名古屋で父と二人暮しだった僕の母が突然死に、その葬式の準備に名古屋に戻った翌日、京都に残った妻が再入院となりました。そして五ヵ月後の6月29日にホスピスに転院し、その四日目の7月3日午後9時36分、妻を生んだ母と、妻が産んだ二人の息子と、妻と血を分けたただ一人の妹と、そして22年をともに過ごした僕に手を握られ、みなに声を掛けられながら、妻は静かに息を引き取りました。


二人の子供たちにしても、母親が倒れてからの二年半は激動の日々でした。長男は、高校の卒業式の日が母方の祖父の葬式で、次男は大学入試の前日が父方の祖母の葬式でした。僕が修学旅行の引率で沖縄に行っている最中に行われた、妻の3度目の手術の付き添いをしたのも、二人の息子でした。容態の悪くなった今年の五月の連休以降は、僕と3人交替で病室に泊まって学校に通いました。

母が死んでから火葬に付されるまでの間、長男は、夜中に何度も母の顔に掛けられた白布を取り、「やっぱり、死んどる。夢やない。最悪や!」と呟いていました。次男は母の死を認めたくなくて遺体の傍にいようとしませんでしたが、今は骨壷と遺影の前で一人ぼんやり座っています。



葬儀は業界用語で言うところの「無宗教」で行いました。僕と妻は特定の宗教・宗派に対する信仰はなく、家も特定のお寺とお付き合いがなかったからです。それで、牧師さんも神主さんもお坊さんも呼ばない葬儀をしました。ただ、僕ら二人にはオリジナルの「天の神様」がいました。それは人間やこの世のあらゆるものを超えた大いなる存在で、命をはぐくむ自然と通じ、宇宙とつながる不思議な力でした。それを、ある人はヤハウェと呼んだり、天照大神と呼んだり、あるいは阿弥陀仏と呼んでいるのかもしれません。事実、妻は街角のお地蔵さんを見ると、いつも手を合わせて黙礼していました。

僕は霊魂と呼ばれているものや、死後の世界を信じていません。しかし、僕らすべての生き物は、宇宙の『不思議な力の現れ』だと思っています。肉体(体)が灰(物質)になり、やがて別の何かの一部を形作るのと同様、肉体(物体)としての存在(現われ)には限りがあっても、『いのち』は永遠に存在し、常に新たな形となってどこかに現れるのだと思っています。


僕らはよく「自分の人生」という言葉を使います。君も「自分探し」などという言葉を使ったことがあるかもしれません。でも僕らは、誰もこの世に生まれ出た瞬間を覚えておらず、この世を去る瞬間を知ることはできません。君が16歳で僕が46歳という経験の差はあっても、それは共に出所も行方もわからない『途中』の存在であることにかわりはありません。僕らは「何かの死によって支えられた存在」であると同時に、「何かを支えるための生」であるのかもしれません。


孔子の『論語』には「人事を尽くして天命を知る」という言葉がありますが、大谷大学の初代学長だった清沢満之は「天命に安んじて人事を尽くす」と言ったそうです。最大限努力をして、後(結果)は運に任せるというのではなく、大いなる力に見守られていることを自覚して、迷いながらも誠実に努力して生きること(経過)を大事にすべしという教えでしょう。

人知を超えた大いなる存在を感じているからこそ、人は自分の生き方に自信を持ち、他人を慈しみ、共に生きることができるのかもしれません。だからこそ、この世で限りある命を奪い、掛け替えのない人としての尊厳(人権)を傷つけるものに対して、本気で怒り、勇気を持ってそれと闘うこともできるのかもしれません。


話が長くなりました。これからもこんな思いを持ちながら、できる限り君とも向き合っていくつもりです。いっしょに何かに挑戦し、よい思い出を一つでも多く作って行ければ幸いです。


最後になりましたが、保護者の皆様にも多くの励ましと慰めをいただき、重ねて御礼申し上げます。ご迷惑をお掛けしましたが、今後ともよろしくお願いいたします。なお、夏の個人面談は予定通り行います。別紙「面談日程希望調査用紙」の提出をお願いいたします。


つづく

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その8  芸術・教育・戦争・自殺……沖縄慰霊の日のマイスタージンガー

2004年度 18枚目 2004/06/24

昨日の京都コンサートホールにはゆったり柔らかで密度の濃い時間が流れていました。球技大会や遠足の時もそうでしたが、非日常の世界で得られる感動はとても新鮮です。芸術鑑賞会での演奏に心惹かれ、心揺さぶられている君の表情も、とても生き生きしていました。そんなホールの片隅で僕が気になったことが二つ。かつてオケ部の顧問でもあった僕の思いをちょっと聴いてくれますか。


■ 芸術

その一つ目は指揮者の言葉。休憩後のステージで、彼は「演奏前の拍手より演奏後の拍手のほうが小さいという経験は初めてです。ここにいるみんなのために演奏しているのですから、しっかり受け止めてください」と君に語りかけていました。ひょっとしたら君は、それを聞いて何だか押し付けがましいなと思ったかもしれません。でもね、それを「演奏者を励まして!」という誇り高き指揮者の必死の呼びかけだと感じた人もいたでしょう。

「芸術」はいくら発信者が修行を積んで高い技術と深い理解に到達していても、その表現を受け止める受信者が存在しなければ、ただの自己満足、あるいは虚しい独り言でしかありません。特に演奏や舞台芸術は、目の前にいる観客との共同作業で感動を生み出すものです。ですから「俺の芸術を理解できない奴は馬鹿で低俗だ」などと観客を見下す芸術家ほど滑稽なものはなく、そうした芸術家の表現をありがたがっている観客がいたとしたら、それはただの自虐趣味でしょう。


■ 教育

「教育」もそれと同じかもしれません。教師がいくら「役に立つ知識」や「ためになる話」を語っても、それが教師の思い込みに過ぎなかったり、学校の都合の押し付けだったり、生徒の感性や感情、論理や人権を無視した一方通行では、授業も指導も教育も成立しないでしょうね。(などと言うと、この『手紙』こそその代表だ!と言われたりして……)

と同時に、君がよりよい教育(サービス)を求めるなら、単なる授業のお客さん、あるいは盲目的で従順な羊であることから脱却し、教師の力を借りながらも一つの教材、ひとつの問題、一つの作業、一つの課題に主体的に向き合ってください。そして、昨日の指揮者の言葉を思い出し、時には教師の力を引き出すために教師を励ましてみてはどうでしょうか。


■ ベートーヴェン

もう一つ気になったのは演奏の順番。保守的な僕の感覚では、ベートーヴェンの交響曲「運命」で始まりワグナーの序曲「マイスタージンガー」で終わるのは、本来の順序と逆のように思えたのです。でも、それはひょっとしたら、今の日本の姿を暗示しているのかもしれません。

ベートーヴェンは交響曲第3番「英雄」は、王制を打倒し人々を解放したナポレオンにささげられるはずでした。しかし、ナポレオンが皇帝の座についたことを知ったベートーヴェンは、楽譜の表紙の「ボナパルトを元に作曲」という文字を怒りと共にかき消したと伝えられています。また、ベートーヴェンの交響曲第9番の日本初演は1918年6月1日、第一次世界大戦中の徳島県の捕虜収容所でドイツ人捕虜の手による演奏でした。そしてその演奏は、敵対する二つの国の人々の心を繋いだのです。


■ ワグナー

一方、反ユダヤ主義者だったワグナーの曲はユダヤ人を虐殺したナチスドイツの総統ヒトラーに愛されました(ヒトラーはユダヤ人であったマーラーやメンデルスゾーンの曲の演奏を禁じました)。そしてゲルマン民族を讃美する『楽劇マイスタージンガー』をナチスの国民統合運動に利用したため、戦後長らくドイツではワグナーの曲は演奏は避けられていました。またワグナーの『ワルキューレ(戦いの神)の騎行』は、ベトナム戦争でのアメリカ軍の残虐行為を描いたコッポラ監督の映画『地獄の黙示録』のクライマックスで使われていました。そうしたことから、ワグナーの曲の好戦性や悪魔性を知ることができるかもしれません。


■ 沖縄慰霊の日

さてさて、君もニュースで聞いたと思いますが、昨日は『沖縄慰霊の日』でもありました。1945年6月23日、沖縄守備軍司令官だった牛島満が自殺し、沖縄での戦闘が事実上終わりました。それで沖縄県だけはこの日が休日となり、命を奪われた20万人以上の人々の冥福を祈り、平和への願いを新たにする集会などが行われています。1年半後、君はその沖縄へ修学旅行に行きます。昔オキナワで何があったのか、そして今何が起きているのか。それを知ることが、君が学ぶことの意味を知り、守るべきものと闘うべき相手を知り、どう生きるべきかを知ることにつながると僕は思っています。

君は、裏に紹介した新聞記事(朝日新聞2004年6月4日朝刊)の女性の顔をかすかに覚えていませんか。僕は9年前のテレビに大写しになった高校生の彼女の顔と、まっすぐに見つめた大群衆に向けて、鋭く発せられた「軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください」という彼女の声を忘れることができません。

全世界の人々に不戦の誓いを立てた日本は、イラクでの多国籍軍に参加を決め、憲法や教育基本法を「改正」しようとしているます。プログラム最後のマイスタージンガーは、日本が今また戦争への道に一歩踏み出し始はじめた序曲だったのかもしれません。

今生きているこの社会で、何を選択しどう生きるか。それが、僕らの課題です。

つづく

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その 7  言ったようにはならず、やったことから始まる

2004年度 17枚目 2004/06/16

昔からの名言に「子どもは親の言ったようには育たず、親がやったように育つ」というのがあります。口で千度言って聞かせるより、一つやって見せたほうが良い。親が口やかましく言ったことではなく、親が毎日している生活を見て子どもは習慣や考え方を身に付けるものだ、だから「子どもの行動を叱る前に、親は自分の生活を振り返れ」ということのようです。親にしてみれば耳の痛い言葉です。が、それは君自身に対する言葉にもなっていくでしょう。

「やりたいことを見つけたいけど見つからない」とか「チャンスが在ればやりたいけれど機会がない」、「人は良いというけれど興味がない」、「誘われたけど自分に向かない」、「やる気はあるけど時間がない」etc.

何かを「しない」でおくための理由は山ほど挙げられますが、本当は何かを「する」にはちょっとした勇気だけが必要なのです。後になって「本当はしたかったのに」「するつもりだったけど」と言い訳することはいくらもできます。でも、そこに残っているのは、何かをしなかった事実ではなく、その代わりに別の何かをしていたという事実です。

どうせ何かをするのなら、納得できる何かをしたいと誰もが思う。なのにいつも現実は……。

この夏、その殻を脱ぎ、その壁を破り、その繰り返しを断ってみませんか。


先日京都市東山区社会福祉協議会が主催する「ユースアクション  東山区青少年福祉体験事業」の案内が一人一人に渡されました。何かを変えたい見つけたいと思うみんなには、結構お手ごろのチャンスだと思います。これまでも、この活動に参加して自分が進みたい学部や大学を見つけるきっかけを得た卒業生も結構居ます。


「そんなんやってもどうにもならんやろ」という君は、
この夏なにをやるつもり?

「そんなんわたしにはむかへんで」という君は、
自分に向くものをどうやって見つける?

いまの自分に満足し、今の生活をキープしたい人は、
無理する必要ありません。

でも自分に何ができるのか、自分は何に向いているのか知りたい人は、
いろんなことを一つ一つやってみる。

ウジャウジャ言ってる自分に自己嫌悪を感じた時がチャンスです。

身近なものでは物足りない人のために僕からのお薦めを裏に紹介。

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■2004-06-14■
■No.649  Mainichi Daily Mail Education               毎日教育メール
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EduMail)))………………………………………………………………………………………
 【支援】フィリピンで住宅建設手伝う高校生募集 関西の学生NPO
………………………………………………………………………………………((((((News

関西の学生らでつくるNPO「ブレーンヒューマニティー」(兵庫県西宮市)は8月17〜27日、フィリピン・セブ島で行う住居建設ワークキャンプに参加する高校生20人を募集している。

同NPOは阪神大震災直後から被災児童・生徒の学習支援などを実施。2001年にフィリピン・ネグロス島のスラム地域に住宅を建てるワークキャンプを行って以来、アジアを中心とした貧困地域や自然災害被災地に、ハンセン病患者療養施設や住宅の建設、植林活動など多彩な活動を続けている。

今回は国際NGO「ハビタット・フォア・ヒューマニティー・インターナショナル」と連携。建設作業のほか、ホームステイなどを通じて現地の人々との交流も予定。1泊2日の事前合宿や、フリーマーケットによる募金活動などもする。参加費14万8000円。

ブレーンヒューマニティー事務局(0798・63・4442)。

【ブレーンヒューマニティー】 http://brainhumanity.or.jp/

※ 以下はブレーンヒューマニティのHPからの転載です。

私たちは、全国初の学生主体NPO法人として、BrainHumanity Missionのもと、若者による多様な価値の創造と子どもたちへの多様な価値の提供を目指しています。

「子どもたちに多様な価値を、子どもたちに多様性を」

BrainHumanity Mission
ブレーンヒューマニティーは、若者や子ども達が将来の社会において重要な役割を担うことを信じ、次の使命を掲げる。
1. 子ども達に対し、それぞれが多様な価値に触れ、選択肢を広げることのできる機会を提供する。
2. 若者に対し、多様な価値を創造していくための機会と基盤を提供する。
3. 社会や地域に対し、若者や子ども達が自分らしく生きることのできる環境づくりを推進する。

想像してください。自分に帰る家がないことを・・・。
現在劣悪な住環境で暮らさなければならない人、
そもそも家がない人は、世界中で4人に1人。
15億人にものぼる。日本で生活している私たちには
実感のわかない問題かもしれない。でもこれが私たちの
生きている、時代の現実なのだ。私たちのできることはなんだろう。

それは、まず、知ろうとすること。


信じる前に、自分の目で確かめる。

今回のワークキャンプでは、家のない人のため、家を建てに行く。行き先はフィリピン、セブ島ミンガニラ。
ボランティア、国際貢献、住居建設、異文化交流、ホームステイ、共同生活。発展途上国、貧困、政府開発援助、スラム街、ストリートチルドレン。国籍、人種。そして先進国、日本。
教科書やニュースでは見たことのある言葉。
でも、あなたはそれらを、自分の目で、体で、感じたことがあるだろうか?
現実をその眼で見よう、そして、ただ感じれば良い。


まず一歩、自分の意志で踏み出すこと。
世界中にあるたくさんの問題。それらに対して私たちができることはほんの小さなことかもしれない。
心に何かを感じたなら、まず一歩、自分の意志で歩き出す。
とりあえずでもいい。大それた目的のためでなくてもいい。
踏み出すこと、動き出すことが重要なこと。
フィリピンという、貧困という1つの世界へ。
新たな自分と出会うかもしれない。新しい生き方を知るかもしれない。

さぁ、旅に出よう。
それはきっと、 あなたの力になる。


つづく

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その 6   「異質の質」を創造できる人になるために

2004年度 15枚目 2004/06/10

最近読んだ本の中で「なるほどね」と思うことがいくつかあった本の一つが、日経BP社から今年の3月に出版された『モノづくりのこころ』です。

テキスト ボックス:  著者の常盤文克さんはビオレやロリエでおなじみの「花王」の社長を勤めた方です。

  本の内容は、これからの企業ではどのような人材が求められ、どうすることで会社が成長していくのかという話が中心で、そのP68には人材について次のように書かれています。

「研究者でありながら会社全体のことを考えて仕事ができる人。あるいはそれを含めて技術を中心としたコンセプトづくりができる人もっと、財務、経理、生産、販売、物流、マーケティングなど、自分をとりまく他部門の人たちと話し合えるような人」

「ものごとを横から、あるいは一歩さがって見ることができ、ものごとを一度抽象化してから本質を見ぬけるような人材の育成も課題」

「そのためには部門の壁を越えた人事交流を行なうのが一番の近道だ」

それに続いて、次のような話が書かれていました。

  ある企業からヒット商品が生まれたとき、競合他社の社員たちはどんな反応を示すだろうか。おそらく、開発部門の社員なら「あっ、こんな商品が出た。われわれも対抗する商品を出さなくては!」と思ってしまうだろう。

  そういう発想は、たえず消費者を見ているつもりが、じつは競合他社のほうに目が向いているのである。企業同士で争っていると、ライバルの動きばかりに気を取られて、つい消費者に目がいかなくなる。そうなれば商品開発のレベルも目標も低くなり、「他社が100ならばわが社は105、110程度のものを」ちう発想になっていく。それでは結局、革新的な、大きな差のある商品、すなわち異質の質は生まれてこない。消費者に本当の満足も届けられなくなる。

  他人と同じことをする方が、他人と違うことをするよりも、じつはリスクが大きい。

  重要なことは、他社との競争ではなく、「これまで消費者が見たこと、経験したこともないような商品」の開発である。「他社にないものを」ではなく、「消費者にないものを」という発想が必要なのだ。それはまた、競争の域から想像の域に足を踏み入れることでもある。創造とは、、従来にない質を作り出すことであり、究極的には人の力に負うところが大きい。……独自の質の創造は、働く一人ひとりの力が最大限に発揮される仕組みや環境があってはじめてできることなのである。

学校という場で君は、何を、どう学んでいくのか。学校という狭い枠に囚われすぎず、いろいろな人の経験や生きる姿に学ぼうとすることが、いま自分がすべきことを見つける近道かもしれません。

そこで、これからしばらくこの手紙の裏面に「12枚目の手紙」で紹介した本『人を助ける仕事』(小学館文庫)から様々な女性の姿を抜き出して紹介します。時間のある時に、香りの良いハーブティでもすすりながら(が無理な人は帰りの電車に揺られながら)じっくり読んでみてください。


つづく

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その 5  一人の君の悲しみに

2004年度 14枚目 2004/06/09

今日の仏参で一人の先生から紹介された、かつての生徒の「詩」を聞きながら、いろんな生徒を思い出し、悲しい未来を想っていました。

京女の高校1年生対象の性教育は『生命について考える』と題されています。プリントの内容は、生殖と避妊と感染症予防に関する知識が中心でしたが、生命の誕生は科学では説明しきれない神秘と感動の物語です。そして言葉にならない情念の渦巻く瞬間です。

一人の女と一人の男が結ばれて、一人の女のお腹に宿った一つの命が君だった

一人の君はそうとは知らず、女の腹ではぐくまれ、やがてこの世に生まれ出た


一人の君が宿った母は、戸惑い恐れ不安に慄き、宿った君と宿した男を呪ったことを

一人の君が生まれ出るのを待つことなく、父になるのを拒んだ男は君と母から去ったことを

そうとは知らず生まれ出た


一人の君が生まれたことで、女の暮らしは変わったのに、男は暮らしを変えなかったことを

一人の君が生まれたことを、女も男も祝福したが、どうしようもなく別れたことを

そうとは知らず生きてきた


一人の君は生まれてすぐから今日までずっと、母に怒鳴られ罵られ、叩かれ続けてきたことを

一人の君は愛されたくて、父の顔色ばかりを見ているうちに、愛されるべき自分を見失ったことを

そうと知りつつ黙っていた


一人で居るのが寂しくて、だれかとおしゃべりしたかった

一人の君は愛されることを知らないままに、ヤサシイ言葉に乗せられて、ヤサシイ腕にいだかれた

一人で居るのが恐くって、だれかに守ってほしかった

一人の君は人を愛する仕方も知らず、愛と欲との見分けもつかず、一つの命をお腹に宿した


一人の君は戸惑い恐れ、不安に慄き泣き暮れた

二人で一緒にいたかったのに

一人の君のお腹に宿った一つの命はそうとも知らず……


子が宿り子を産むことが、どの親にとっても手放しの喜びに満ちたものとは限りません。

親と子が妻と夫が暮らす場が、暖かな励ましと安らぎに満ちたものとも限りません。

精一杯支えあって暮らしている家族でも、死によって分かたれる時をだれも知ることはできません。

だからこそ、今ある生命を慈しみたい。だからこそ、生命を宿す営みを大切にしたい。

性について学ぶことは自分が一人の人としてどう生きるのかを知ることです。どんな人とどう向き合い、どんな喜びをともに味わっていくのか、そのために何を責任として背負うのかを学ぶことです。二人が深く結びつく悦びを得るためには、互いの人格を尊重する知性を育て、体を守る技術を身に付けなければなりません。

もし、君がそうしたことを自分で学べる本を読んでみたいのなら、どさっと貸してあげます。ご希望があれば教室の棚に置いてスペシャルHR文庫にしても良いです。(たぶん、この学校の先生の中で最もたくさんの「高校生の性」に関する本を持っているのは僕です)

で(というほどの脈絡はないのですが)、茨木のり子さんの詩を、今日も一つ紹介します。


小さな娘が思ったこと

茨木のり子

小さな娘が思ったこと

ひとの奥さんの肩はなぜあんなに匂うのだろう

木犀みたいに

くちなしみたいに

ひとの奥さんの肩にかかる

あの淡い靄のようなものは

なんだろう?

小さな娘は自分もそれを欲しいと思った

どんなきれいな娘にもない

とても素敵な或るなにか……

小さな娘がおとなになって

妻になって母になって

ある日不意に気づいてしまう

ひとの奥さんの肩にふりつもる

あのやさしいものは

日々

ひとを愛してゆくための

    ただの疲労であったと

『見えない配達夫』童話屋より


つづく
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その4  鏡よ鏡はどこにある

2004年度 13枚目 2004/06/02

昨夜、関西テレビの番組「ビューティーコロシアム2004」を観ました。ずっと以前観た時に悪趣味な企画の番組だな思ったのですが、昨日も何となく観てしまいました。おまえはブスだ≠ニ身近な人にそう罵られ、疎まれ蔑まれ傷付けられ、自らそう思い込んだ女性たちが、和田あきこと島田紳助のもとに助けを求めにやってきて、一流の整形外科医やメイクアップアーティスト達の力で変身していきます。

そこでの気付いた小さな発見  ブス≠ヘ多様だけど美人≠ヘ画一的。


やって来る女性たちの顔つきは多様性に富み、どこかで見たことのある顔は少なく、一人として同じように見えることがありません。ただ共通しているのが暗い表情。みなうつむき加減で、顔ばかりでなく言葉の表情も沈んでいます。

なのに美容整形後の彼女たちは、誰もがどこかで見たような顔になり、にぎやかしに出ている芸能人達も「モデルさんみたい」という誉め言葉を捧げます。ただ一番印象的な共通点は笑顔。そして伸びた背筋とはっきりした口の動き。

手術や技術による「見栄えの良さ」は、ある社会のある基準≠ノ合わせて作られるので、それはいわば非個性的な人物像を作ります。でも、その型≠ノはまったことによる安心感や喜びが、彼女たちの内面を解放し、ゆとりと自信を生み、それが豊かな表情となって表れてきたのでしょう。

「整形手術をして、本当の自分を取り戻したい」という出演者の言葉は、とても矛盾したものに聞こえますが、生まれつきの肉体(あるいは親や学校から与えられた評価)の殻に閉じ込められてきた人にとって、脱皮は生きるために必要な手続きなのかもしれません。

「内面の美をこそ大切に」とか、「人は見かけじゃない」などと気安く言うのは、浅はかなことかもしれません。ただ、押し付けられた型から逃れようとして、別の押し付けの型にはまってしまうのはあまりに悲しい。

そこで生まれた微かな希望  多様な不幸が幸福の常識をやぶり、多様な幸福を生み出す


君は、君自身をどんな基準で評価したいですか?評価されたくないですか?


つづく

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チンタラ・ボチボチ 脇道・袋小路の歩き方指導

その3   直線より曲線のほうが美しいと思うのはひねくれ者でしょうか? 自然界に直線なんてないのです。

2004年度 12枚目 2004/06/01

今日から6月。君はどんな一ヶ月にしたい?陰暦の呼び名は水無月で、京都の街の和菓子やさんでは水無月と名付けられたウイロウにアズキがのったお菓子が売られ始めます。今月の主な行事は15日(火)の保護者会(午後授業なし)と23日(水)の芸術鑑賞会(京都コンサートホールでベートーベンの交響曲第5番「運命」鑑賞)です。1年のうちで比較的落ち着いた時期は6月と11月。自分の生活をちょっと振り返り、次に足を踏み出す先を確かめる良い時期かもしれません。

さて、今日は進路指導係から「進路適性検査」の案内が配られました。それを見て思い出したのは今から30年以上前、僕が中3の頃、毎月定期講読していた旺文社の『中三時代』という月刊誌(このライバル誌が学研の『中三コース』でした)のある号に付いていた付録「職業適性検査」のはがきを出した時のことです。検査の結果、僕に向いている職業は弁護士か新聞記者ということでした。

その時はへ〜と思ったぐらいで、それを目標に勉強したわけではありませんが、それでも自分がどんな仕事をして世の中で生きて行くのだろうかと考えるきっかけにはなりました。少なくとも山羊座のO型は…と言っているより、自分の特性や社会とのかかわり方を考える材料にはなりました。

進路というとすぐにどこの大学の何学部に進むのかという話に絞られがちで、国公立か私学か、関関同立か龍近産甲かなどと、どこかの塾や予備校のパンフに踊る言葉に躍らされたような会話がされがちです。もちろんどこで学ぶのか、それにいくら掛かるのかというのは重大な問題ですが、ややもすると、その問題の「核」が置き去りにされてしまいます。

君は、大学に入るために勉強しているのでしょうか。高校を卒業するために勉強しているのでしょうか。それとも、ただ毎日授業があり宿題が出されテストがあるから勉強しているのでしょうか。

君は、何を学びたいのでしょうか。どのように生きたくて、どんな力を身につけたいのでしょうか。そしてそれを考え、みつけていく努力をしているでしょうか。テストをやり過ごし、卒業して大学に入るための努力をしているだけでは、自分の進路は見えてこないし、勉強する気も湧いてきません。

君がもし薬剤師になりたくて、それもお金がかからない国公立大学に行きたくて、それも家から通える所がいいと願うなら、君が受験する大学も受験に必要な科目も合格に必要な学力レベルも、すでに決まっているのです。だから後は受験勉強に励むだけ。それなら、この前のHRで進路指導係主任の先生が言った「平日3時間、日曜7時間の家庭学習」も当然でしょうし、それをしなければ合格できないかもしれません。

ただ君が違う望みを持ち、違ったことを大切に生きていきたくて、高校時代に経験し大学で学び社会に出て果たして行きたい役割を違ったものと考えるなら、「平日3時間、日曜7時間」を別の何かに使わなければ、君の願いは実現できないでしょう。

君のこれからの人生の基礎となるこれまでの15年間はきっと豊かな思い出にあふれているでしょう。でも、あまりに広く多様な世の中と比べると、君の経験の量や種類はほんのわずかかもしれません。それは46年生きてきた僕も同じで、君のお母さんやお父さんも含め、一人の人間が体験できることには限りがあります。

だから多分君も君の身近な人の生活や暮らしぶりを見て、身近な人の価値観に左右されて将来を探っていくことになるでしょう。でも、そこに本当に君が求める何かがあるとは限りません。だからと言って高校生をやりながらいろんな体験を重ねることも難しい。

そんな君の人生を揺さぶるものが1冊の本かもしれないし、一本の映画、一枚の写真、一編の詩かもしれません。ドキュメンタリーにしろフィクションにしろ、誰かによって描かれたものは「現実」とはまた違った迫力や感動を持っているものです。

今回は「生きがい」を求めて紆余曲折・悪戦苦闘している若者たちの生き方を集めた小学館の文庫本、江川紹子さんの『人を助ける仕事』を紹介します。是非手にとってみてください。

ひょっとしたら君よりも、迷える君のお母さんやお父さんの心を打つかもしれません。裏面に本の目次と前書きをコピーしました。(略)それを読むだけでいろんな思いが湧いてくるかも。

そんな6月の初日にふさわしい、生き方を考えさせてくれる詩を一つ。僕の憧れの詩人、茨木のり子の詩です。君も、ともに生きる美しい街の美しい人になって下さい。

       六月

             茨木のり子

     どこかに美しい村はないか

     一日の仕事の終わりにはいっぱいの黒麦酒

     鍬を立てかけ  籠を置き

     男も女も大きなジョッキをかたむける


    どこかに美しい街はないか

     食べられる実をつけた街路樹が

     どこまでも続き  すみれいろした夕暮れは


    若者のやさしいさざめきで満ち満ちる


     どこかに美しい人と人との力はないか

     同じ時代をともに生きる

    したしさとおかさしさとそうして怒りが

     鋭い力となって  たちあらわれる


『見えない配達夫』童話屋刊より
つづく
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チンタラ・ボチボチ 脇道・袋小路の歩き方指導

その2   溺れたくなければ  沈む勇気を持て   高く跳びたければ  まず深く潜れ

2004年度 11枚目 2004/05/31

梅雨前だというのに連日蒸し暑い空気がのしかかってきてクラクラするので血圧を測ってみたら、なんと身長以上に高くなっていて自己最高記録を更新!しんどいのもあたりまえ、と妙に納得してしまいました。だからといってそれで血圧が下がらないのは、勉強とおんなじ。出てきた数字に驚いたり、はしゃいだり落ち込んだりしたところで、体調も成績も良くなるわけがありません。

ならどうする!

「地道な努力」とか「規則正しい生活」とか「根性一発」とか「一日一善人類皆兄弟」などと机の前に張ったところで思うような成果は上がらないことに、君はとっくに気付いています。

あせってバタバタおびえてビクビクしていると、体はこわばり声はかすれ、ガンバリすべてが徒労に終り、助けを求める意欲もなくしてしまうのは、川で溺れている人と同じ。鍛え抜かれた筋肉隆々の人は別にして、君が運動不足で脂肪が気になる並の人なら、普通に息して空気を吸えば必ず水に浮かびます。なのに、沈む恐怖にとりつかれ水の上に出ようと体を立ててもがくから、逆に体は沈んでゆきます。押し流す流れに逆らおうとするから、力尽きてしまいます。昔の人も言いました。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。

燃える闘魂もたぎる情熱も大切ですが、ヤバイと思ったときには心静かに自分に本来備わっている力を生かしていくのがよさそうです。沈む勇気は自分の力を信じる心。それを育ててくれるのは、君が挑戦し続けたの数限りない失敗と、君の失敗を温かく見守り支えてくれる誰かの愛かな。

失敗しない最も良い方法は挑戦しないこと。失敗を繰り返さない一番の方法は一度であきらめること。自分の子どもや友達にそうしてほしければ、「失敗したら取り返しがつかない」「失敗しないように頑張れ」「失敗しても私は知らない」と言い続けるだけですぐに効果が現れるでしょう。

その一方で、人より上に、人より前へ、人より早く、人より多くと願いつつ、「日々これ精進、重ねた努力は山より高い!流した汗は海より深い!」と自信を持って生きてる人もいるにはいますが、誰もがそうそう、そうは生きられないということを、君はぼちぼち気付いています。

だからといって「どうでもいいや」と投げやりになってしまうのはちょっとシャクだし、「おいしいものや楽しいことと無縁の生活でもかまわない」と言えるほどには悟れない。

見下されるより仰がれたい、この世でちょっとは得したい、どうせのことなら誉められて、嫌味にならない程度に威張ってみたい、と思うのも自然な心。煩悩は生きる意欲です。

君がもし高く跳びたければ、まずは深く潜れ。

君の力を君自身が高めて最高の成果を得たいのなら、まず君の心の底の暗闇に気付かぬうちに隠れたものと、気付かぬように君自身が隠したものを見つめるべきです。

なぜなら闘うべき相手は常に、どこかの誰かではなく君自身だからです。

なぜなら大木が光を受けて大きくなり、やがてくる嵐に耐えられるのは、水を吸い上げ体を支える無数の根っこが土の闇にあるからです。

そんなこんなのあれこれを君なりに考えてゆくお手伝い、二度目の面談始めます。一人で考えててもどうどう巡り、あるいは逆に煮詰まりがちな君が求める分だけ、時間を取ろうと思います。

さて、今日紹介したのは僕の敬愛する詩人高見順の詩。彼の詩の中で一番のお気に入りは『黒板』と題された詩です。よければ暇な時に図書館で探してみてください。


高見順詩集 『わが埋葬』所収

  みんな山へ

みんな

山へ

高いところへ

昇りたがつて

谷底へ降りようとはせぬ

自分自身の心さえ

のぞきに降りようとはせぬ



詩集  『樹木派』所収

  樹木(二)

葉はやはらかく

枝はかたい


かたい枝が

やはらかい葉をつくる.



  樹木(四)

葉と枝は人に見せ

大切な
根は人に見せない


現代詩文庫1014『高見順』思潮社刊より
つづく
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チンタラ・ボチボチ 脇道・袋小路の歩き方指導

その1 前向きってどっち向き?  夢中ってどこの中

2004年度 10枚目 2004/05/20

昨日死んだ国語学者の金田一春彦さんと、そのお父さんの京助さんが編集した三省堂の『新明解国語辞典』で「進路」という言葉を引くと、その対義語として「退路」が出てきます。人生の突き進み方は進路指導の先生に任せることにして、この手紙では脇道へのそれ方や袋小路での迷い方、困った時の逃げ道や疲れた時の休み方を、いっしょにみつけていきましょう。

さて、昨日の晩、お気に入りのティーカップに注いだ熱い紅茶をすすりつつ、とっておきのクッキーをかじりながら進路オリエンテーションで配られた『高校生活スターティングブック』のページをゆっくりめくった人は幸いです。なぜなら、そこには“人生を考える材料”がいっぱい詰まっていたからです。

たとえば5ページ。

「前向きスタンスでいこう!」……そう言われると考えちゃいます。
前向きの「前」っていったいどっちで、後ろ向きはどっち向き?
「いこう」って言うけど行き先はどこ?


どこであっても前なら良くて、後ろや横はいけないの?
攻める人はいつでも勇者で、逃げる人は臆病者、止まっているのはただのくだらぬ怠け者なの?

午前は昼前・午後は昼過ぎ、だったら「前」は過去で未来が後ろ。
そんなら前向きのスタンスってのは「自分の未来を探す」んじゃなく「自分の過去をしっかり見つめる」ってことなのかも。

高速道路を飛ばすだけなら、しっかり前見てアクセルを踏み続けていれば良いけれど、それで一体どこ行くの?
遠くへ早く行きたいだけなら、早死にするのが一番いい。
仏様に護られて、極楽浄土に一直線。

大通りから横道それて誰かと二人で道草食ったり、木陰のベンチでおしゃべりしたり、
たった一人で迷い込んだ袋小路の突き当たりでステキなお店を見つけたり……
それて止まって迷ってみつける。

生きてる僕らが大事にすべきは「これからどこに行くのか」ってことよりも、
「いま誰といっしょにどう歩いているのか」ってことなのかも。

たとえば6と7ページ。

「トコトン夢中になれる!そんなクラブ活動に挑戦しよう」と言いながら「“学習時間”と“自由時間”をバランスよく配分していこう」って言われるから困っちゃいます。


「夢中」っていうのは夢の中。
「夢か現(うつつ)か」っていうように夢の反対は現実か?
夢中になった娘なら、先生が出した宿題も、親の決めた門限も、食べることも寝ることも、我をも忘れて夜を明かしてもおかしくない。
エジソンだってそうだった。

牧場の柵の中で自由に草をはむ羊、籠の中で思いのままにさえずる鳥!
タイマー付きのゲーム、ゴング付きの格闘技、寿命付きの人生。
私はいったいどこでどうすりゃいいんでしょう?

そんな思いにかられたら、こんな詩を小さな声で読んで下さい。


  モーツアルト
               大木実

死ぬということは

モーツアルトを聴けなくなるということだ


アインシュタインがそう言ったそうだ

その本を僕は読んでいないので

言いかたが違っているかもしれない


生きているということは

モーツアルトを聴けるということだ


何を聴こうかと選ぶに迷い

今夜もひとときひとり聴く


この深いよろこび

この大きなしあわせ

生きているあいだ 生きているかぎり

現代詩文庫1047 『大木実詩集』思潮社刊より
つづく
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