2014年3月末で早期退職するに当たり、勤務校の宗教教育センターから、なんぞ置き土産になるような文章を掛けとのご所望。以前から気に掛けてきた補柁落(ふだらく)渡海について書くことにしました。 そうすると、大事なことを思い出したのです。いつもは忘れていたけれど決して忘れなかったことを。 そして、何年か前に作った詩を書き変えて、もう一つ忘れずに思い続けていたことを歌にしました。 よければ一緒に、歌って下さい。 |
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夜の窓へ | 管理人室へ |
涙のうちに住まうもの |
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今から三十年近く前の高校の卒業式の日、卒業生になったばかりの彼女は僕の所にやってきて「先生、この座布団預かっててほしいんやけど。取りに来るまで先生が使っててくれてもいいし」と、彼女が教室で使っていた座布団を差し出しました。そこには 電話の相手から“some other time Bye-bye”と言われて受話器片手に涙を流しているペンギンがいました。当時、高校の生徒会の担当をしていた僕は、生徒会長だった彼女の進路について相談に乗っていたこともあり、「わかった。なんかあったらいつでもおいで。そのときまであずかっとく」と応えて、座布団を職員室のイスにくくり付けて座ると、彼女は笑顔で職員室を出て行きました。 それから十年ほどたった頃、座布団の布が擦り切れてきたので薄手のクッションを上に重ね、それからまた十年ほどする内に重ねたクッションも擦り切れたので新しいものに替え……ご主人を待ち続けるペンギンは今も、僕の席の三代目のクッションの下で、知らない人にはペンギンだとは見分けがつかないほどに擦り切れながら泣き続けています。 長いこと一緒にいるので僕にはペンギンの思いが分かります。「信じている限り‘いつか’はいつかやってくる」と信じ続けているのです。彼女が約束した‘いつか’を待ち続けているペンギンはお人好しのアホでしょうか。それとも救いようのないバカでしょうか。 |
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鴨長明の『発心(ほっしん)集』には、娘に先だたれた悲しみの底で阿弥陀さんの住まう西方(さいほう)浄土に行こうと海に入って自殺した女房の話や、阿弥陀さんの名を呼びながら西の果てまで歩き続けて餓死した狩人の話が載っています。 それらと共に観音菩薩さんの住まう日本のはるか南方洋上の補陀落(ふだらく)浄土にたどり着こうと海を渡った男の話、「第三の五 或る禅師、補陀落山(ふだらくせん)に詣づる事」があります。浄土に行くことを願っていた男は「この世は自分の事であっても思う様にならない事ばかりだ。難病にでもかかったら死ぬ間際がどうなるかわからず、ちゃんと往生(浄土に行くこと)できないかもしれない。元気な内に死んでこそ落ちついて死と向き合うことができるというものだ。そのために身燈(しんとう)(=焼身自殺)をしよう」と考えて、試しに真っ赤に焼いたクワを体に押し付けると肉が焼けただれたのですが、「焼身自殺は意外に簡単にできそうだが、死ぬ間際に自分はどうなるか分からない。」と心配し、「生きたこの身のまま補陀落山に向う事こそ浄土にたどり着く唯一の道だ」と思い直します。そこで土佐の海岸から小舟に乗り込み、たった独りで南を目指して去りました。 彼を引き止めることができなかった妻や子はただ泣き悲しむばかりでしたが、世間の人は「これほどの決意と信心があったのだから、きっと補陀落山にたどり着いたに違いない」と思ったということです。(『新潮日本古典集成 方丈記・発心集』一三七頁参照) 補陀落(ふだらく)浄土への最初の「渡海(とかい)」は八六九(貞観(じょうがん)十一)年、三陸沖を震源とする大地震と大津波が陸奥(岩手・宮城県)を襲った貞観地震の起きた年、和歌山県の那智(なち)勝浦で行われたと言われています。渡海を志した行者は小さな木造船の船底に据え付けられた箱に乗り込みます。すると扉は外から釘で打ち付けられて出られなくなり、他の舟がひく小舟の綱は沖で切られ、後は海流に乗って漂って行くばかり。唯ひたすら観音菩薩を信ずる心によってのみ浄土にたどり着こうとする「捨て身の行」だったのです。 「渡海」を単なる現実逃避、命を粗末にする自殺行為と批判した人は当時からいたようですし、井上靖の小説『補陀落渡海記』も、その信心を懐疑的に描きました。しかし、それを「今ある身を捨ててもう一つの世界と出会い、そこからこの世の闇を照らす手助けをする行い」ととらえ直す時、僕は補陀落渡海に深い親密感を抱きます。 「信じる」とは、誰かの言葉を鵜呑(うの)みにすることではなく、そのものの本質を見抜いた上で受け止めることであり、普遍的な何かに気付くこと。そして何かを信じるために必要なことは小難しい理屈でもなく、並べ立てられた証拠でもなく、信じる覚悟一つなのかもしれない。仏教徒ではない僕にはそう思えて仕方ありません。 さて、僕はもうすぐ鹿児島港からフェリーに乗り、残された時間を屋久島の六角堂で過ごします。そこは滴り溢れる水と緑の中で、小さな存在同士が時空を超えた変わらぬ何かを確かめ合い、失いかけた元気を産み出すことを願って作ったスパイシーな空間〈マイノリティの交差点〉です。 そうそう、あのペンギンは職員室に残しておくわけにはいかないので六角堂に連れていきます。彼女が訪ねてきたらそう伝えて下さい。みなさんにはこれまでのお礼方々、六年ほど前に作った歌を置き土産とさせてもらいます。 悲しみ、喜び、感動、どの涙(namida)の中にも阿弥陀(amida)が住んでいます。あなたが涙を浮かべる時、自分が大いなるものと共にあることに気付けたら幸いです。そして深い悲しみを知って涙を流すあなたが、誰かの悲しみをすくい取る存在であったら、それ以上の喜びはありません。そんな思いで作った歌詞と曲に、僕の大学時代の先輩でもある中島先生がピアノ伴奏を付けてくれました。ここに謝意を表します。 |
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汝(na) 弥(mi) 陀(da) の花 −エミに 作詞 成田 文広 namida amida 悲しみに暮れた夕べ amida namida 痛みに耐えた朝(あした) 浮かぶ涙に宿るものは 慈(いつく)しみ深き救いの光 namida amida 悲しみ抱きとめる amida namida 痛み掬(すく)い取る 零(こぼ)れた涙受けるものは 優しき腕(かいな)と大きな胸 namida amida 悲しみを力に変え amida namida 痛みを優しさに変え 拭う涙に咲いた花は 巡る命繋ぐ君の微笑み 涙(namida) 阿弥陀(amida) 汝(na)も(mo)阿弥陀(amida) |
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