「女坂」と呼ばれる坂の半ばにある校門をくぐり、四階の講堂の入り口に立ったあなたをそっと迎える小さなブロンズ像がある。
『未完の女(ひと)』と題されたその像は、事故で命を落とし卒業の日を迎えられなかった少女の父母が、娘の死を悼み、ここで学ぶすべての少女たちの健やかな成長を願って贈られたもの。
彼女は去り行く過去を手繰り寄せ、見えぬ不思議を目にすることのせつなさを、あなたに黙って語りはじめる。 |
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目の前にあるものだけがすべてなら、その人たちに言葉はいらない。
離れた人の心を引き寄せ、去り行く過去を手繰り寄せ、見えぬ不思議を形にしたいと願う切なさが、人に言葉を求めさせた。
言霊を信じた記紀万葉の人々が、神に願いをかなえてもらおうと捧げた美しい祈りの言葉は、やがて幾多の歌となり物語を紡いだ。
死の淵に立つ日も知らぬ欲望は、生の限りに輝かす闇に灯った命の明滅。
無常の川を遡る小舟の行く手に瞬いた恋の炎の美しさ。
春霞む時の流れにこぎ出でた慣れぬ小舟の櫓に手を添える旅のお供が、古典の教師。
◇
小舟を降り立つ闇の岸辺で、一人の少女がポツリとつぶやく。
「最近、私なんのために生まれて来たのか、何のために生きて行くのか分からなくなってきた」
光は決して闇の速度を越えられず、ヘッドライトが照らすのは逃げ去った闇の抜け殻。
遠くから眺めていたものは虚像でしかなく、本質をつかみたければ自分の足で闇に分け入るほかはない。
闘うつもりはなかったのに、気付いた時にはリングに立っていた。
勝手に付けられたリングネームは「自我」だった。
ゴングの鳴るのも知らず繰り出したパンチに舞ったのは、血でも汗でも涙でもなく湿った黴臭さ。
その匂いを吸い込んだ時、相手の名が「常識」だと悟った。
コミュニケーションは沈黙を恐れた二人の間を言葉の泡で埋めることではなく、論理は人々を世間の枠に繋ぎとめる鎖ではなかった。
孤独は冷たい沈黙ではなく、思策と表現の最も親密な友だった。
文学は書き割りの自由の部屋に置かれた常識の安楽椅子から身を起こし、泡の言葉で群がる人間関係を断ち切り、語るべき自分を探し続けた苦闘の足跡だった。
自分の足跡を記す闘いに挑むあなたのセコンドが、現代文の教師。
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