これは、2001年秋に創作した小さなお話です。 ヒントになったのは「生老病死の教育観 仏教と心理療法」という本です。 このお話を作る直接の動機は、2001年の初夏、永く京女に勤めながら病に倒れ、やむなく中途退職された国語科の寺澤一視先生がお亡くなりになったことです。 その死を悼んで作りました。 それと同じ頃、管理人の義父も食道癌を患って余命を告げられていました。 そして、この時すでに妻の体を癌が蝕んでいることは、誰も知りませんでした。 |
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夜の窓へ | 管理人室へ |
葉っぱとアナグマ ― 豊かな生と安らかな死
長く暗い冬の後には、明るくあたたかな春が来ると信じたい。
今は苦しくとも、自分には無限の可能性があり、努力しさえすれば明るい未来を手にいれることができると思っている人も、みなさんの中にはいるでしょう。
しかし、自分の能力は有限で、努力したことが報われないこともあると思い知り、ひどく落ちこんで自分の生きる意味について思いをめぐらす日が来るかもしれません。そうでなくとも、いつの日か、だれもが確実に死と向き合う日をむかえます。
そこで今日は、二冊の絵本から、生と死についていっしょに考えたいと思います。
レオ・バスカーリアの絵本『葉っぱのフレディ』は、春にめばえた若葉が仲間とともに成長し、冬には落ち葉となって一生を終える物語です。秋が深まり、死におびえるフレディは、仲間のダニエルに問いかけます。
「ぼく 死ぬのがこわいよ。」とフレディは言いました。 「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。 「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるとき こわかったかい?緑から紅葉するとき こわくなかったろう?ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」 変化するって自然なことだと聞いて フレディはすこし安心しました。枝にはもう ダニエルしか残っていません。 「この木も死ぬの?」 「いつかは死ぬさ。でもいのち≠ヘ永遠に生きているのだよ。」とダニエルは答えました。 葉っぱも死ぬ 木も死ぬ。そうなると 春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生には どういう意味があるというのでしょう。 「ねえ ダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」とフレディはたずねました。 ダニエルは深くうなずきました。 「ぼくらは 春から冬までの間 ほんとうによく働いたし よく遊んだね。まわりには月や太陽や星がいた。雨や風もいた。人間に木かげを作ったり 秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね。それはどんなに 楽しかったことだろう。それはどんなに 幸せだったことだろう。」 |
フレディはダニエルの言葉になぐさめられながらも、完全に死を受け入れることはできません。私たちは感情や感覚、考えや思い出を持って生きています。ほかの誰とも違う自分らしさにこそ、私の生きる意味があるように思われます。
「どう生きようと、どれも変化の一つに過ぎず、自分ははどこのだれであっても同じなのだ」としたら、自分らしく生きようとすることもむなしくなってきます。死によって私という存在が消え去ってしまうことがおそろしいのです。
そこでダニエルは、ある形を持って生きている間に、あるものとしての役割を果たすことが生きる意味なのだと、フレディに教えます。
自分に備わった性質、見えるものや見えないもの、自分をとりまいているすべてのものによって育まれた自分の力を、ありのままに出し切ることこそが、すべての生き物にあたえられた本当の仕事だ。
それをやりとげることが生きる意味であり、生きる喜びだというのです。
やがて、ダニエルにも先立たれ、たった一人になったフレディにも死がやってきます。
明け方フレディはむか迎えに来た風にのって枝をはなれました。痛くもなく こわくもありませんでした。 フレディは 空中にしばらくま舞って それからそっと地面におりていきました。 そのときはじめてフレディは 木の全体の姿を見ました。なんてがっしりした たくましい木なのでしょう。これならいつまでも生きつづけるにちがいありません。フレディはダニエルから聞いたいのち≠ニいうことばを思い出しました。いのち≠ニいうのは 永遠に生きているのだ ということでした。 フレディがおりたところは雪の上です。やわらかくて 意外とあたたかでした。引っこし先は ふわふわして居心地のよいところだったのです。フレディは目を閉じ ねむりに入りました。 フレディは知らなかったのですがー 冬が終わると春が来て 雪はとけ水になり 枯れ葉のフレディは その水にまじり 土に溶けこんで 木を育てる力になるのです。 いのち≠ヘ土や根や木の中の 目には見えないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備をしています。 大自然の設計図は 寸分の狂いもなくいのち≠変化させつづけているのです。 |
また 春がめぐってきました。 |
「すべてのものは原子からできている。死んだ体は微生物によって分解され、新しい物質に作りかえられるのだ」と、科学的な説明を聞かされただけでは、やはり、しっくりこないものが残ります。死んだ体は別の生き物の材料として生かされるにしても、私たちの心はどうなってしまうのか。
そこでレオ・バスカーリアは、一人一人は特色を持ったかけがいのない存在であると同時に、すべては個人をこえた大きな一つのいのち≠フあらわれなのだと語ったのです。
フレディも、自分のいのち≠ヘ、変化しながらも永遠に生きつづけると確信したからこそ、静かな眠りにつくことができたのでしょう。大自然の設計図の中には無意味な存在などないのです。
しかし、神の教えに従い、貧しい人々のために自分のすべてをなげうったマザー・テレサでさえ、死の間際には眠れぬ夜に苦しみ、神父さんに悪魔ばらいをしてもらったそうです。ましてや設計図の存在を信じることが難しい人々や、愛する人を失った人々は、いったい死とどう向き合い、どう生きたらよいのでしょう。
それに対する一つの答えを、イギリスの絵本作家スーザン・バーレイは絵本『わすれられない おくりもの』で示してくれています。それは年老いたアナグマの死に直面した森の動物たちが、死の悲しみをのりこえていく物語です。
森のみんなはアナグマをとても愛していましたから、悲しまないものはいませんでした。なかでもモグラは、やりきれないほど悲しくなりました。 ベッドの中で、モグラはアナグマのことばかり考えていました。なみだは、あとからあとからほおをつたい、毛布をぐっしょりぬらします。 その夜、雪がふりました。冬がはじまったのです。これからのさむいきせつ、みんなをあたたかく、まもってくれる家の上にも、雪はふりつもりました。 雪は地上を、すっかりおおいました。けれども、心の中の悲しみをおおいかくしてはくれません。 |
やがて春がきて、外に出られるようになると、野原の仲間はたがいに行き来してはアナグマの思い出を語りあいます。この物語の最後は、次のようにしめくくられます。
みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひとりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してくれたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。 さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていました。アナグマの話が出るたびに、だれかがいつも、楽しい思い出を、話すことができるように、なったのです。 あるあたたかい春の日に、モグラは、アナグマが残してくれた、おくりもののおれいがいいたくなりました。 「ありがとう、アナグマさん。」 モグラは、なんだかそばでアナグマが、聞いていてくれるような気がしました。 そうですね…きっとアナグマに…聞こえたにちがいありませんよね。 |
スーザン・バーレイは、死の悲しみがいやされるには、じっと一人で悲しみにたえる時間≠ニ、思い出を語りあえる仲間≠ェ必要だということを教えてくれています。
ともに過ごす喜びが、ともに過ごす人との愛を育みます。死の悲しみは、失った人への愛の深さに比例して深まります。そして、深い悲しみは、時間とともに残された人の心の中で何ものにも代え難い思い出に変化します。
アナグマのおくりものは、残されたみんなの生きる支えになりました。アナグマは、死んだ後もみんなの心の中でみんなとともに生き続けたのです。そのことを知っていたからこそ、アナグマも死をおそれなかったのでしょう。
ただ、たいていの人は多くのことをやり残し、思いも果たせず、だれかの役に立つ事など何も残せないまま一生を終わってしまうのではないかと心配になります。
しかし、生きていく上でもっとも大切なことを忘れさえしなければ、死に行く人も残される人も、死を受け入れていくことはできるのだと、二つの物語は教えてくれています。
自分だけは勝ち残ろう、人をおしのけてでも得をしたいとあくせくし、心のゆとりを失ってしまったら、ゆたかな生も、安らかな死も手に入れることはできないのでしょうね。
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