感じる女性 結腸がん死 リスク1.7倍 名古屋市大など、全国8万人を調査">No .N950a030920m3
小嶋助手は「この世代の男性はなかなか弱音をはかない。ストレスがあったとしても表に出していない可能性があり、差が出なかったのではないか」と推測する。 日本では大腸がん患者が増加の傾向にある。2001年には、結腸がんで約2万4000人、直腸がんで約1万3000人が死亡した。 |
朝日 |
2003/08/24 |
刊 | 面 | No .N950a030824xxx |
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千葉県 |
女 |
39 |
山口真理子 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 乳がん、検診で見落とされ…千葉の女性「余命半年」 |
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メモ : 乳がんが見つかる人は年3万人を超え、毎年増え続けている。一方、早く治療すれば、回復の割合が高いのも乳がんの特徴だ。その検診態勢は必ずしも十分ではない。千葉県に住む山口真理子さん(39)の場合――。 県内の郊外の庭付き一戸建て。3人の子供たちに黒いラブラドル犬。そして優しい夫。山口さんは、欲しいものすべてを手に入れたはずだった。 米国の大学を卒業後、外資系製薬会社に就職、留学中に知り合った夫(40)と結婚した。長女(14)、次女(11)に続き、1994年に長男(8)が生まれた。直後、出産した産婦人科診療所で、気になっていた乳房のしこりについて尋ねた。 医師は触診後「乳腺症でしょう」と答えた。 5年後の1999年夏。しこりが痛みだした。30歳以上を対象とした市の乳がん検診を受けた。出産した産婦人科が指定医療機関になっていた。 「痛みがあるんです」 医師は、触診だけでなく超音波(エコー)検査で調べてくれた。「乳がんは痛まない。脂肪の塊です」 そのころパソコンインストラクターの仕事を始めた。育児による遅れを取り戻すかのように夢中で働いた。楽しかった。 2年後の2001年秋、しこりがはじける感覚が走った。5センチ以上はある。あの産婦人科医を訪ねた。 エコー検査をする医師の顔が一瞬、曇った。そして専門病院での精密検査を勧めた。数日後、大病院でしこりの組織を調べた。結果が出たのはその日の午後。「悪性でした」それ以外の主治医の言葉は覚えていない。 12月、摘出手術。7×5×2.5センチのがんだった。摘出したリンパ節すべてに転移していた。 外国の論文を含め、資料を読みあさった。がんの成長には、長い時間がかかる。あの時なぜ、産婦人科医は見逃したのか。産婦人科は乳がんの専門科でないという。では、なぜ検診の指定機関になっているのか。 転移を抑える治療が始まった。放射線治療や抗がん剤。髪は抜け落ち、体中がギシギシ痛む。一日中、寝ている。何もする気にならない。自殺ばかり考えた。 昨夏、夫が歌舞伎に誘ってきた。かつらをかぶって、いやいや出かけた。銀座のカフェでお茶を飲み、相田みつを美術館に行った。そこで夫が掛け軸を買ってくれた。 「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」 無口な夫の、精いっぱいの励ましなのだろう。心がふっきれたような気がした。帰宅後、職場復帰を申し出るメールを上司に打った。 今年6月、主治医のもとでエコー検査をした。その検査結果を夫と一緒に聞きに行った。肝臓に転移していた。冷静に「余命は?」と尋ねた。 「どうしても聞きたいですか?」。主治医の顔はゆがんだ。そして「半年です」と。 夫と一緒に昼食をとった。いつになく饒舌(じょうぜつ)な夫を見ていて、かわいそうで仕方がなかった。その日夕方、仕事を終えて車に乗ったとき、初めて涙がこみあげた。 7月。乳腺症と診断した産婦人科医を訪ねた。 「先生はエコーに自信があるのですか?」 しばらくして医師は答えた。「得意ではないかもしれません」。研修も受けていない。だが、医師は続けた。「私は今後も続けます」 コピーさせてくれたカルテには、一言だけ「乳腺症か!」との検診結果が記されていた。 半年。どうやって生きようか。産婦人科医を訴えようか。だが、いやな思いをして半年を過ごしたくはない。 厚生労働省や市役所を訪ね、検診制度見直しを訴えた。動いてくれるかはわからない。だが、仕事を続けながら訴え続けようと思う。家族には寂しい思いをさせるが。 「残された時間は短いんで」。山口さんは、少しだけ涙ぐんだ。 |
朝日 |
2002/11/26 |
朝刊 | 27面 | No .N950a021126m27 |
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内科医:高橋都、産婦人科医:落合和徳 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: がん女性の性、みつめて/心と体、抱きしめてほしい |
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メモ : 子宮がん、卵巣がん、乳がん……。医療の進歩で病気から社会復帰する女性たちが増える一方で、置き去りにされてきたテーマがる。「性」の悩みだ。医療現場も術後の性生活に関心を寄せ始めており、様々な取り組みが始まっている。 「私はセックスができる体なのか?」。東海地方の主婦(30)は結婚式を控えた3年前、一人悩んでいた。23歳の時に子宮体がんと診断され、子宮と両卵巣を摘出していた。当時、まだ性体験がなかった。 がん治療後に恋人ができた時、子供が産めないことに、後ろめたさを感じた。別れ話になる覚悟でうち明けると、「話してくれてありがとう」と彼。 性行為はできるのか? 婦人科がんの本には「支障ない」とあるが不安はぬぐえず、親にも相談できなかった。思い切って主治医に尋ねると、「未婚なので膣を長めに残してある」との返事、少し安心した。 1年前から参加する患者会では、同じ体験を持つ人が性に関する工夫を話し合う。参考になる情報は夫にも伝える。「互いにいたわりあって楽しみたい。健康だったら、性のことをここまでオープンに話さなかったと思う」 4年前に大腸がんと診断された東京都の主婦(54)は手術を経て退院した直後の出来事が忘れられない。大腸70cmと子宮、両卵巣を切除し、一時的に人工肛門が作られた。脇腹に垂れ下がる袋を交換するのが苦痛で、いつも泣きたかった。 そんな状態にもかかわらず、帰宅3日目で夫がセックスを求めてきた。拒んだが夫は「無理なら手で出jきるだろう」と言った。 以前から気持ちのずれを感じていた。「こちらのしんどさをまったく理解せず、妻を性欲の処理対象のように扱う」。ある晩、しつこく迫る夫に、裸の我が身をさらして抗議した。最後通告だった。 数ヵ月後に離婚が成立。「『術後しばらくはセックスを控えたら』など、夫もいる場でアドバイスを受けられたら、夫もこちらを思いやることができ、状況は変わっていたかもしれない」 「手術の前夜、乳房をなでて『ありがとう』と泣いた」と、東京都の自営業者(37)は振り返る。4年前に乳がんで右乳房4分の1を切除した。仕事一筋のキャリアウーマンで、年下の夫とはセックスレス。「それが自然な関係だった」 だが、がんを機に心境が一変した。「心も体も抱きしめてほしい」と言う欲求が抑えきれなくなった。失業中の夫は「今の僕には君を受けとめられない」と家を出た。一人部屋にこもり、自殺を考える日々。落ち着くまで2年。今では夫の戸惑いが理解できる。 「がんの告知で、自分の中の『女』という意識がむき出しになった。崩れそうな私を支えてと、夫を追い詰めてしまったのだろうか」 患者向け本出版■問診表で確認■医師も動き出す 東大大学院助手で内科医の高橋都さんは1998〜99年に乳がん体験者21人に術後の性に関してインタビューした。患者からの性についての相談がきっかけだった。 その結果、抗がん剤投与やホルモン療法などが原因の性交痛、傷跡に触られる際の痛みや不快感で、セックスに苦痛を感じる人が多いことがわかった。「見られてしまうのを恐れて下着で胸を隠してしまう」「相手が自分を求めなくなた」との声もあった。 2001年は外科医約600人を調査した。6割が「性の相談も仕事」と認識していたが、8割は「(乳がんが性に及ぼす影響について)信頼できる情報が足りない」と考え、、4割は「セックスカウンセリングの研修を受けたい」と答えた。 高橋さんは2002年夏、医師仲間とともに米国の患者向け冊子を翻訳し、『がん患者の〈幸せな性〉』(春秋社2000円)という本をまとめた。 治療による体の変化に慣れて自信を取り戻すこと、相手と十分に意思疎通する大切さなど心構えも説く。 医療現場で実践も始まった。慈恵医大病院産婦人科の落合和徳医師は3年ほど前から、定期検診の問診表で直近1週間の生活を調べる。「性行為が怖い」「膣が狭く短いように感じる」などの質問を盛り込んでいる。 「患者さんの多くは女性性の喪失感と向き合う。しかし、性は生活を豊かにするための一つの要素。患者さんの体をきちんと把握し、対処したい」 管理人:『がん患者の〈幸せな性〉』の図書紹介はこちらから。 |
朝日 |
2002/04/04 |
朝刊 | 27 |
面 | No .N950a020404m27 |
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大分県/別府市 |
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シリーズ・特集; | ||||||||||
見出し: 乳がん女性に温泉貸し切り/別府の11軒毎週水曜に |
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メモ : 大分県別府市旅館ホテル組合連合会は2002年4月3日、乳がん患者らが周りの目を気にせずに温泉に入れるようにと、大浴場を貸し切りにする「ほっとマンマの日」を始めた。組合加盟の11軒のホテルや旅館が、交代で毎週水曜日に一定の時間を設ける。同県内の患者団体の要望で始め、「ほっとする」とラテン語で乳房を意味する「マンマ」を組み合わせた。 初日には、同市内のホテルで午後1時から2時間が貸し切りになり、約20人が入浴を楽しんだ。 大分県の病院ホスピス長、藤富豊さんは「患者の特別扱いではなく、乳がんへの理解を深めてもらう試み」と言う。 別府市旅館ホテル組合連合会は電話 0977‐22‐0401 管理人: 関連サイト「ほっとマンマの日」紹介はこちらから |
朝日 |
2002/03/31 |
朝刊 | 3面 | No .N142a020331m3 |
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東京都 |
評論家 |
女 |
71 |
俵萌子/1・2・3で温泉に入る会 |
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シリーズ・特集; ひと | ||||||||||
見出し: 「1・2・3で温泉に入る会」をつくった評論家 |
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メモ : 「手をつないでザブンと温泉に入りませんか」と、乳がんで乳房を失った女性に呼びかけている。 2001年11月、共感した女性達が集まって、「1・2・3で温泉に入る会」を発足させた。すでに会員は140人。「6月に群馬支部の会員と温泉に行きます」湯煙の立つ大浴場に入るのは久しぶりだ。 乳がんで右の乳房を切除したのは1996年。65歳だった。以来、人目が気になり、温泉に入れなかった。旅館でこっそり部屋の風呂に入る自分が不愉快でならない。そんな時やはり乳がんを手術した女性に「温泉に入れますか」と聞かれた。みんなでは入れば怖くない。会作りに取り掛かった。 手術後、50代で始めた陶器の作品展を開き、翌年には体験記を出版した。これだしはガンに勝った、通っていたのだけど、そうではなかった。傷のある、自分の体を恥じていたことに気付きました」 30代で新聞記者からフリーになり、教育、女性問題などで活発に発言し、運動に関わった。東京都中野区で全国初の準公選による教育委員も勤めた。老後は群馬県・赤城山のふもとに作った俵萌子美術館で陶芸や絵を楽しみながら暮らすつもりだった。だが、「温泉」の一言に行動派の血が騒いだ。喪失の悲しみ、再発・転移の悩みを誰もが抱いていた。 「おっぱいを失うのがどんなにむごいことか。乳房を温存する技術の向上、カルテの公開など、女達の声をあげていきたい」いい湯だな、と心からいえる日のために。 (文・写真 松井京子) |