「重興圓通寺記幵塔銘」原文掲載(読み下し)

圓通禪寺は東都の古刹にして城を距る事九里、山水の勝に據て修禪の源を得。面して遥かに志を按ずるに、永保三年、将軍義家、奥に赴くの日、王子の路を過ぎり、馬を板橋に進むるに、奇なる哉、駿馬奔過して隅川の西森なる堂前に到り、悲鳴して動かず、将軍鞭を停めて士をして寺を問わしむ、老僧有りて答て云ふ、坂上の将軍此地を開創して豊聰太子一刀三禮七刀全備の光世音を安奉せり、世に傳ふ此尊河内の円法寺の大士と同體なりと、寺を圓通と曰ひ、境を観音原と曰ふと。将軍聞て乃ち歡喜し馬を下つて殿に入り奉信して老僧に告て云く、我冠する年、父頼義に從ひて奥に赴けり、恒に通法大士を念じて未だ嘗て少しも懈らず、金を以って像を鑄て之を髻中に藏む、征戦に臨む毎にuあらわすと云ふ事無し、天喜三年官軍渇に苦しむ時、頼義遙かに大士を念して渇を止めん事を希ひ弓を以て地を刺すに忽ちC泉迸ばり、大軍渇を潤ほし終に利を獲たりしかば更に淨刹を建てて新通法寺と曰へ我が髻中の像を安奉せり、此の日我が馬斯に止りて、大士を拝瞻する事特に妙なりと、倍々信念して、誦して覺へず眠に就く、夢に老翁を見る、翁云く、汝が父頼義河の香爐峯に登り、佛澤に感佩して遂に通法を開く汝能く父の信を繼ぎ、像を髻中に載せ今また相馬斯に止まる、由なきにあらず、汝今奥に赴く、初めは政道行はれ、後には兵冠起らん、苟くも大士を念ぜば衆怨を消せんと。将軍敬んで諾す。覺め了つて奥に赴く、果して夢讖の如し、始め五年は政道の及ぶ所雷歯濫、後三年を歴てニ衡の兵に罹る、厄を為せり雖も、遂に利を獲て凱歌し、賊首四十八を還送して觀音原に埋め、四十八塚を築きて供を設け怨親揆を同ふす、今喚んで小塚原と曰ふ又觀音原方六里を施てて圓通の境と為し、再び梵刹を建つ、後甲鎧一領劔一口を留めて奉信して上洛す。己にして二百餘歳の後、延文の間、雲遊の行者堂前に寄遇し、意はす火を失し殿閣燼と化し、大士迹を沒して拝瞻するところなし。然る後、異日殿外の碧池一夜光を放ち、道俗驚走す。奇なる哉、大士荷葉に跌坐して金光人を射る見る者之を迎へて更に茅屋に移し大士を安奉す、然るに年月を歴て譜牒を失ひ遞代考へ難し。寛永二年乙丑の春大君放鷹の日に、奉上する所の蒼鷹、翻乎として飛んで圓通の松に止まる、大君臣を與もに来り、鷹を樹上に喚ぶ、直ちに獲て奉る、大君欣懌し、松を稱して鷹見の松と名け、觀音原を限りて圓通の境に属し、下谷街上に四十弓を以て別に地を賜ふ。予宗慶に在て其の奮記を閲し、親しく其の地を履み謀らず、之を聞て官に訴へて界を正し大殿を建て大士井に百觀音を安じ、右に舎藏を造りて舎利古佛を安じ、左に牛頭稲荷のニ社を造つて鎭護と爲す客堂を造つて三聖の像伽藍祖師を安じ、高門を建て密迹金剛を安ず、方丈を造り庫司を造り鐘樓を造る、此に至て規模麁備はる、晨昏の禪誦耳目に溢る。凡そ捨る所の黄金八千餘両、皆衣鉢に須ちて檀門にあづからず、享保七歳旅壬寅端午の日、七層の塔を建て謹で顛末を記して之を基石に貞めこれを以て不朽ならしむ。後に斯を修せん者、庶はくは余が三寳を建立するの意に負く無からんことを、是を記と為す。
円通寺の由緒に戻る
円通寺目次へ