円通寺の由緒

開創 延暦十年 西暦791年 坂上田村麻呂将軍、八幡太郎義家再建
本尊 聖観世音菩薩、聖徳太子一刀三禮御作
開山 観月徹禪大和尚(前永平宗慶4世中興・總泉17世中興兼最乗258世)

石造七重の塔の銘に    
(現存する荒川区最古の石文)
「七層虚をあお凌ぎ、貞石兪々新たなり、永く惠日懸りて、枯木も常に春なり」
とあり、別の面に当寺の由緒が刻んである。 
                  由緒の原文を読む時はココをクリックして下さい。

江戸時代「下谷の三寺」として下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に、
箕輪の圓通寺として、有名であった。
百観音というのは当寺の通称で門前に(秩父・板東・西國)の観音像を安置した観音堂が有ったからである。ただし安政2年の大地震にて倒壊、現在三十三体が本堂に安置されている。

当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、
八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚を築いたことにより、
小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。

また、慶応四年(1868)五月十五日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、当寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をいただけた。
これが、逆に明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。
「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬(現在でも記念碑があるが、火葬場所で墓では無い)
遺骸266体を当寺に埋葬する。


円通寺目次へ