感激!観劇雑感 2008年版

みんなから寄せられた劇評や感想文を掲載するコーナーです。道演集の芝居に限らず、どんな芝居でも観たら、観劇したら原稿をお寄せください。チラシなどもいっしょに頂けると活用できます。


目次
劇団海鳴り              2008年(平成20年)10月26日(日)  
  「お糸・文七」                            田丸 誠

感激!観劇雑感へ戻る

 

 

劇団海鳴り                    

2008年(平成20)10月26日(日)

紋別市まちなか芸術館

   『お糸・文七』  (原作 三遊亭圓朝  脚色・演出 いがらし陽子)

 

田丸 誠

 1026日、大栄君の車に同乗させてもらって北見から紋別まで出かけ、劇団海鳴りの『お糸・文七』の夜の部を観てきました。午後6時30分の開演には間に合わず、残念ながら芝居の出だしは観る事ができませんでした。

 会場は今年5月に開館した「まちなか芸術館」の多目的ホールで、四方に柱があり、舞台条件としては良くない中央に、平台を重ねて舞台をつくり、正面に黒幕を吊るして仕切り、客席がそれを三方から取り囲む形になっていました。客席はお客様が一杯で、残った席は見通しが悪いので、立ち見することにしました。お客さんは200人位いたでしょうか。

  原作は落語好きなら誰でも知っている、明治の落語名人、初代三遊亭圓朝が作った人情噺『文七元結』なので、これをいがらし陽子さんが海鳴りの役者と紋別市民に合うように脚色しているので、最初から安心して観ることが出来るわけです。

 原作と違うのは、長屋のおかみさんたちの助けを受けて、左官屋長兵衛(斉藤利治)とお兼(伊藤純子)夫婦にお糸という一粒種が授かる話から始まることで、長屋の連中が子どもたちも含めて多数出てくる仕掛けになっています。常に市民との交流を目指す海鳴りとしては当然の芝居作りの手法です。

  さて、お糸が生れて家族を幸福にすると決心した長兵衛でしたが、時が経過し、お糸(横内望美)が16歳になった時には、仕事の事故で左官職人として自慢の腕を振るえなくなった上に、博打にのめり込む毎日であることが、長屋のおかみさんの井戸端会議で説明され、毎日の夫婦喧嘩に心やさしいお糸は辛い思いを募らせ、ある決心をして家出します。

 そこへ身ぐるみはがされ、猿股と子供のチャンチャンコ姿の長兵衛が賭場から帰り、お兼といつもの喧嘩になります。この遣り取りは息が合って中々よろしい。長兵衛役の斉藤君は前からみると数段うまくなった。これは相手役の伊藤さんの力があってのことだと思いました。安心して絡める相手役がいることは、役者には心強いことです。

 娘の無断外出を心配してお兼が探しにでようとしていたところに、吉原の女郎屋、角海老楼の番頭(進藤史郎)がやってきて、女主人がどうしても長兵衛を至急同行してくるようにということで、着る物もない長兵衛はお兼の着物を着て出かけます。

  長兵衛が訪ねた角海老楼には娘のお糸がいました。そこで女将のお角(五十嵐陽子)から、娘お糸が親のために自ら進んで身売りにきたことを告げられます。

これはお糸役の横内さんだけの問題ではなくて演出の問題でもあるのですが、お糸が女将に両親の仲違いに心痛め、父親に立ち直ってもらいたい心情を打明ける場面は、この芝居の山場の一つなので、多少芝居がくさくても、商売人のお角の心を揺り動かすだけの、全身を投げ出したような、もっと直截的な表現がお糸に欲しかったように思いました。

本を書いて、演出をしている上に、役者をしている五十嵐さんも大変ですが、女将の五十嵐さんも長兵衛を諫める場面では、苦界の鬼の怖さ、凄みを感じられる迫力がほしかったように思いました。物分りが良いだけではなく、金が敵の女郎屋の主人として、厳しい掟に生きているわけですから。

芝居に先輩の女郎を登場させたのは、お糸のあるかもしれない将来を暗示して良い着想だと思いました。やさしいけれど病気がちで客がつかず借金が増えるだけのはんこ(舘山留美子)と、同郷の馴染み客に身請けされるお京(中越真樹)。はんこがお京から貰った菓子を懐から取り出して、笑いながら我が身の不憫さに泣く場面は、もう少し間を持って溜めて演技して貰うと、見る側の腑に落ちて、より深く哀れを感じさせたと思います。

文七役の園部渉君の芝居は、私は初見参。素直な演技で好感が持てました。

ただ、橋の上で、女郎屋へ身売りに行くお糸と擦れ違う形で初めて文七が登場してくるのですが、何かを必死に探しているような様子がなくて、最初から気落ちして身投げをしようとしているようでした。

女主人から戒められ、娘からも母親と喧嘩しないようにといわれ、娘を取戻すために仕事に励むことを誓って女郎屋をあとにした長兵衛は家に急ぎます。そして橋の上で、身投げをしようとしていた文七と出会ってしまいます。

その長兵衛と出会う時の文七は集金した50両を掏られ、江戸中、気違いのようにそのスリを探し回って、前後の記憶も浮かばないほど疲れはて、途方にくれて橋の欄干にもたれ、律儀に身投げをして主人にお詫びしようという心身の状態だと思いますが、そうした表現があったとは見えませんでした。つい長兵衛を振返らす、非力な危なっかしい、はかなげな感じが出たらもっと良くなると思いました。

橋のたもとでの文七との絡みが、この芝居の最大の山場なわけで、長兵衛役の演技の見せ所です。斉藤氏もがんばって演技していたと思いました。

娘が女郎屋に身を売って作ってくれた50両という大金を、名も知らない手代の命を救うためにくれてやるという葛藤。これを腹でぐっと堪える演技で表現しなくてはなりません。最後は江戸っ子らしく、きっぱりと金をくれてやる。そのかわりに、手代に娘の安全を祈ってやってくれという親心。この苦しい気持ちの揺れ具合をどう表現するか、役者としては大変ですが、この気持ちの振幅の表現がこの場面の見せ場でしょう。 

鼈甲を商う近江屋主人・卯兵衛(松浦伸二)と番頭・平助(安川俊二)は、文七の帰りが遅いのを心配して待っているところに、文七が戻り、長兵衛から貰った50両を差出す。ところが掏られたと思った50両は碁に夢中になって集金先に置き忘れ、最前そこから店に届けられていたのです。その矛盾を追及する主人と番頭。ここらの遣り取りは、卯兵衛役の松浦氏の落着いた演技と、平助役の安川氏の軽妙な笑いを誘う演技が良いアンサンブルでした。

文七について言えば、この場面で金を差出す時に、どんな心理であったか、ただの嘘つきではない、おどおどしたところがほしかった。特に集金先にお金を置き忘れていたことを思い出してから、事実を告白するうちに自分の勘違いで長兵衛に取り返しのつかないことをしたという自責の念など、心理的な混乱が極度に達するわけで、そうした思いをどう表現するか、挑戦がほしい。

その面でいえば、主人もしっかりと文七を叱るところは叱って、救うところは救う、めりはりがもう一つあっても良かったと思いました。 

長兵衛一家の事情を知った主人は、番頭にある指図をするとともに、翌朝、文七を連れて、長兵衛の長屋にお礼の挨拶に出かけます。途中、酒屋(内宮栄知)に長兵衛の住む長屋を聞くと、夫婦喧嘩の大声が聞こえるから直ぐわかると言われます。

長兵衛は帰宅してから、手代の命を救うために50両をくれてやったとお兼に話したのですが信用してもらえず、昨夜からずっと「お金を博打でなくしたのでは」と責め続けられてうんざり。そこへ突然のお客で、あわてて半裸状態のお兼を枕屏風の陰にかくして、卯兵衛と文七を招き入れます。

卯兵衛は長兵衛に事の顛末を説明し、文七の命を救ってくれたことへのお礼を述べ、以後親類づきあいと、文七の親代わりになってほしいと願い、長兵衛も引受けることにします。その上で、卯兵衛が頂いた50両を返したいというと、長兵衛は「あっしは貧乏人で金が性に合わねえんだ。一度出したものは受取れない。」と江戸っ子のやせ我慢。そんな押し問答に堪らず、お兼が飛び出してきます。

そんな時、番頭が身請けを済ませ、女主人のお角が綺麗に着飾ったお糸の手を引き、長兵衛宅にやってきます。歓喜する長兵衛夫婦。卯兵衛は文七とお糸との縁組みも決め、固めの盃ということで、近所の女房連や親父たちもよってきて祝宴のうちに終演。

時刻は午後8時5分になっていました。途中で帰ったお客は一人くらいで、ほとんどのお客さんは最後までお芝居を楽しんで帰っていったようでした。

しかし、芝居の仲間としては少々考えさせられるところもありました。それは「江戸」人情芝居なのに、長兵衛を除いて男優の頭髪が髷ではなくて現代の髪型であったことでした。鬘を揃えることが出来ないのであれば、散切り頭の明治初期に時代設定してはどうでしょうか。ただ、この場合、紙幣になるので、長兵衛が文七に50両をぶつけるように投げ渡すという仕草が出来なくなるので、一工夫必要になりますが

また長兵衛が賭場から帰ってきて、真っ暗な中でお兼が灯火をつけるのにチャッカマンを使ったのに失笑がおきていましたが、それも「演出」だったのかもしれませんが、火打ち石か、煙草盆の種火を使うとか、丁寧な所作と照明で表現してほしかったと思いました。

これも笑いを取るためなのかも知れませんが、江戸時代なのに「リハビリ」など現代用語が飛び出し、違和感を感じました。江戸時代の「死語」を説明するのに、現代語を使用するのは理解できますが、「養生」など生きている言葉もあるわけですから。

また最後の枕屏風に隠れていたお兼が飛出す場面も、お兼にも他人に見っともない格好を晒すことはできない江戸っ子の女房としてのプライドがあるわけで、原作の落語にあるとおり、お糸の登場で思わず恥かしさも忘れて姿をみせた、という方が納得できるような気がしました。

これは好みの問題ですが、バック音楽も現代風で所々でそぐわない感じがしました。

以上あれこれ書きましたが、何といっても海鳴りは多士済々、役者に美男・美女から個性派もいて、その年令に巾もあって、益々これからどんな芝居をやるか楽しみです。

20081031日)

 

 

 

 

 

 

 

このページのトップへ