かくいう私も、この演劇祭に北見から招待された「ムーにン谷のなかまたち」が公演する「子供のための劇場」に、人手が足りないということで、車で無理やり拉致され、そのまま名寄に連行され、9月1日、午後1時から1時間、ナレーターと幕開閉スイッチ役を強制労働させられていた。その帰りに、松岡先生が書いた創作市民参加劇『人情天塩路 旅芝居がゆく』を観る機会を得たしだいである。
この芝居は、同じ9月1日、午後7時から開演。会場は名寄市民会館であるが、公民館のそれより幾分大きいぐらいの舞台で、舞台袖も奥行きもなく、収容人員も400名にならない程度のもので、講演会ならともかく、芝居にはまったく向かない小屋である。
最初から困難は目に見えているのに、敢えてその舞台にキャスト・スッタフあわせて100人を超える市民を載せ、セットを組むというのだから、松岡先生らしい。
芝居の筋は、戦争の傷も癒えない昭和22年、名寄の映画館「文化座」(モデルは電気館らしい)に流れてきた旅芝居の松五郎一座と地元農婦・青年団員との交流を縦軸に、若い旅役者と青年の恋の鞘当があったりしながら、また一座は旅に出る、その8日間の出来事を描いている。
旅一座となれば、渋谷健一氏が得意とするところで、これまでの道演集の全道演劇祭の札幌ブロックの出し物として1978年の『放浪記』以来、お馴染みである。こちらは斉藤和子さんを座長にして、芸達者な役者連が明治の北海道を舞台に大立ち回りを見せてくれて、毎回わくわくして見せてもらった。旅一座と言うのは、突然やってくる非日常という意味で、芝居にしやすい側面も持っている。
私も幼少の頃(当然、戦後)、母の実家のあった中湧別の映画館で、旅一座の『義経千本桜』を見ている。篭脱けや、綱渡りといったケレン味もたっぷりで、驚きながらも、楽しんだ記憶がある。こうした旅芝居から、昔の人は歌舞伎の知識や人生の教養を身につけていたかもしれない。松岡先生も出身地、訓子府の実家の近くに芝居小屋でがあったそうだから、こうした旅芸人の姿を見ていたことが、作品に反映しているのだと思う。
導入は文化座の若旦那、一太郎のところへ、幸江(松岡先生好みの美人)が嫁入りする行列が,芝居会場へ入場してくるところから始まる。あちこちからキャストへ声がかかり、和やかな雰囲気であった。ただ難をいえば、披露宴シーンで新郎、新婦と参集したお客さんとの交流が十分で出来ていなかったと思う。
また、名寄に乗り込んでくる肝心の松五郎一座だが、座長の松五郎役はそれらしくあったが、細かい所作には少々不満をおぼえた。刀一本腰に差すにしても、だらしなく見えて仕方なかった。ここは、日本舞踊を習うなり、ピシッと和服が着こなせる特訓が必要であったように思う。若い座員が青年団員に芝居についてお説教するにしては、その立ち居振る舞いがお粗末で、劇中劇で座員がお世話になった農婦にお礼として「国定忠治」や「瞼の母」を演じる場面があったが、さっぱりうまいとは思わなかった。やはり、ここは格好良くきめてほしかった。それでなければ、町のおぼこ娘が惚れるわけがないのだ。「下町の玉三郎」で売れた梅沢一座も、結構、こうした所作については厳しく座員を指導しているのを、テレビドキュメントでみたことがある。せっかく役者として良い素材を持ちながら、市民劇場だからと甘えて、身内受けを狙ったり、手抜きをしてはいけないと思う。何度かは通用しても、最後はあきられる。
芝居正味1時間半の中で、2幕8場もあるのだから、舞台転換が大変なのである。裏方はよくがんばったとは思うが、大道具については、条件の悪い舞台を考慮して、知恵を出し合う工夫が必要であったように思った。たとえば、若い座員清三と、地元青年団員夏子(こちらも美人)の逢瀬で使う腰掛に必要以上に大きな箱台が用意されていたが、あれも縁台か、木製の丸椅子2脚で十分だ。セット壁面も裏表を使い分けるとかすれば、数を減らし、少しでも転換の負担を減らすことができたと思う。また、転換のブリッジの音楽が必ずしも次の舞台を期待させるものではなく、関係ない大音量の勇壮な曲で少なからず興ざめであった。また、舞台に地ガスリを引いていないために、舞台床面からの照明の反射が目障りであった。
「つらい時、困ったときはいつでも名寄に帰っておいで」がメッセージらしく、芝居全体を見て、良くも悪くも松岡先生らしい作品で、心やさしい人ばかりで悪人が出てこない。実際はもっとドロドロしていると思う。ある旅役者が「旅芝居では、巡業先の女の子が役者に熱を上げて駆け落ちなんてのはたくさんあったし、遊んで捨てたこともあった」と、テレビで語っていたのを聞いたことがある。それから見ると、夏子と清三の関係の何と機清らかなことか。(あまり、そこにこだわると、横溝正史の小説になってしまうが┉。)
文化座についても、これからは映画の時代といいながら、映画館らしいところがさっぱり見えない。ポスターや流行歌を多用してもよかったと思う。結局、あの旅一座のような大衆演劇は、劇作家井上ひさしが指摘しているように、ストリップや映画に駆逐されていったのではないか。そうした点の書き込みも必要な気がした。
しかし、偉そうに言わせてもらうと、不満があるにしても、これまで私が観た松岡先生の創作劇の中では一番出来が良かったと思う。
ところで話はそれるが、それにしても名寄市民は電気館という文化財を持っていると思った。この芝居で使われた芝居用の引き幕(定式幕)、名前入りの半纏と番傘、どれを取っても今では中々手に入らないものばかりである。こうした映画館とその文化を残すことも、名寄市民にとっては大切なことだと思う。(残念ながら、北見では大手資本シネマコンプレックス進出のおかげで、地元映画館は絶滅してしまった。)
普段、芝居などに縁の無い市民が参加した舞台となれば、これを指導していくのは至難の業といわざるを得ない。松岡先生のストレスは想像以上だったろう。
私は、かねがね演劇は祝祭だと思っている。苦労して創り出したもの=芝居を、出演者も観客も一体になって、「分かち食らうもの」と考えている。しかし「祭」だからといって、参加した者たちが、てんで勝手にやることは許されない。各地の歴史ある祭は、それぞれの参加者が自分の分をわきまえ、責任を果たしているから続いているのである。そう考えると、総合芸術の祭典である名寄演劇祭も、中心になる役者やスタッフ責任者の方たちが、何時までも松岡先生を当てにせず、自分たちが「この名寄で札幌や東京とは違う文化を創造していく」という自立した自覚が必要になってくる。これからも継続して市民参加劇を創造するには、名寄市民自身でそうした意識を育てていくことが必要になってくるだろう。
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