感激!観劇雑感 2001年版

みんなから寄せられた劇評や感想文を掲載するコーナーです。道演集の芝居に限らず、どんな芝居でも観たら、観劇したら原稿をお寄せください。チラシなどもいっしょに頂けると活用できます。


目次

劇団河童 2001年11月17日19時開演 ジャンプ

『煙が目にしみる』観劇記    劇団海鳴り 五十風 陽子

劇団新劇場 2001年9月14日19時開演ジャンプ

『2001年 地底へ』観劇記    劇団さっぽろ 飯田 信之

劇団みずなら 2001年8月26日公演マチネージャンプ

『愛さずにはいられない』観劇記  劇団河童団友 田丸 誠

劇団海鳴り 2001年7月7日公演ジャンプ

『ユタとその不思議な仲間たち』観劇記  劇団河童 布施 茂

釧路演劇集団2001年6月3日公演ジャンプ

『結婚契約破棄宣言』観劇記    劇団河童団友 田丸 誠

偉人舞台2001年6月2日紋別市文化会館公演ジャンプ

『月夜に咲く薔薇』観劇記       劇団河童団友 田丸 誠
 

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劇団kappa 2001年11月17日午後7時開演
 『煙が目にしみる』観劇記      劇団海鳴り 五十風 陽子
11月17日(土)劇団河童の芝居を観るため一人で北見へ出向いた。この本は今年道内だけでも4劇団が上演している。
開幕前楽屋にお邪魔し代表の扇谷氏と少し話をした。この芝居は、演出の仕方でどんなふうにも料理できる台本だからね、と扇谷氏。
さて、河童はどんな風に料理するだろうと思いつつ席に着いた。台本は事前に読んでいてストーリーは知っている。ある斎場の待合室での今焼かれる死人二人とその家族の数時間の話である。緞帳を使わないステージ上にはセンター奥に見事な桜の木が満開の花を咲かせていた。とても綺麗だが、好みから言えば開演前は、舞台明かりを少し落とした方がよいと思った。
開演5分前1ベル後MC、本ベルまでの時間が長い。 白装束をまとった男が二人ソファーで会話を始める。二人は死人であるからシーンで言えばプロローグ的な感じだと思うが、舞台が明るすぎて違和感をもった。二人をサスで包むか、トップ落としにした方がその後の日常のシーンが生きてくると思う。スタートは、役者も観客も緊張しているにしても、出だしから役者が台詞をとちっては興ざめである。笑える台詞もちりばめてあり、観客も沸いていたが、わたしは未だ舞台にのめり込めなかった。
さて、シーンが変わり、暗転の中、読経が聞こえてくる。暗転幕の前でそれぞれの家族が最後のお別れの焼香をして、棺は炉の中へ入っていくのだがそれが妙に可笑しくて、家族のすすり泣きと一致しない。でも、こういう事ってあるよなあと思ってしまう。
後先になったが、舞台装置はていねいに作られていたが下手前は玄関へ通じる入口が袖幕にあるため、出入りの際、幕の揺れが気になった。待合室であるからテーブルとソファーが置かれておりそこが演技エリアになるのだが、客席に向かって置かれてあるためどうしても正面芝居が多くなるし、空間が生かされていない。大事な会話のやりとりの場面でもセンターに立ち、観客を相手に話すものだから役者間の感情の交流がこちらに伝わらない。この芝居は日常を描いているだけに、そういう手法を用いた演出がとても気になった。初演出の細野さんお疲れさまでした。満席の観客は、とても暖かかったですね。


劇団新劇場 200198月14日19時開演 札幌教育文化会館
 『2001年 地底へ』観劇記                劇団さっぽろ演出家 飯田 信之
   劇団新劇場創立四〇周年記念公演、菅村敬次郎作・多海本泰男演出『二〇〇一年 地底へ』初日の舞台を観た。出演者延べ六十名、壮大な群衆劇を想像して、胸をときめかして会場へ。(九月十四日、十九時開演)。開場十五分後には空席を探すのが難しいほどの盛況ぶりがうらやましくなる。(札幌市教育文化会館)
 快調なすべり出し、「語りの老婆」となっているが、蜂谷さんの語りは、やさしく、むしろ若々しく、北海道ことばで親しみがもてる。事故に至る詳細は、現実に起きたことのおさらいをするような気持ちで聞いていた。そして、一九八一年十月十六日のガス突出事故、続く坑内火災発生、予測して見ていても、装置、照明、音響の呼吸の合った効果で、きりりと胸が痛む。一転して、おおぜいの盆踊りの列。その踊りの列の中から父親・源次(山根義昭)が、酔っ払って踊りながら姿を現し、高校生の娘・美樹(斉藤和子)と会話する回想シーン。実にうまい展開だと感心させられる。最近は演出の仕事が続いているので、役者の姿を見るのは久々だが、その山根さんが武骨でやさしい父親像をつくり上げていて、ラストまで堪能した。斉藤さんも、母親役の吉田輝志子さんも、いつもより地味で押さえぎみの演技に好感がもてた。会社側は注水を強行する。
 ここまでが一幕。
 あれから二十年、坑口を訪れた作者は、「この坑口前で、美樹と源次をどうしても会わせてみたいと考えた」とパンフレットに書かれておられる。いい発想だなと思う。その通り、死者との対話というおどろおどろしいシーンではなく、成長した娘の前で、ちょっぴり照れながら話す父親の姿がいい。だが、また一転して、源次一家が九州から夕張へ来た日のさわやかな場面になる。初対面から暖かく仲間として迎え入れる炭住の人々、そのおおらかさや屈託のなさを描くシーンだとわかりながら、「語り」から始めないで、なぜこの場面からドラマを始めなかったのだろうという思いにとらわれた。それは、美樹が最後に琵琶を奏でるのはいいとして、詞はいらないなと思ったり、一幕では一家の部屋として使っていた空間に土足で上がって、演奏のために靴をぬぐというのは、いかにも無神経だなどと瑣末なことを考えている自分に驚いてしまう。最後は紗幕が飛んで、ホリゾントに九十三名の犠牲者の実名が映され、「合掌」の二文字で終わる。だが、この部分は現実であって、「鎮魂のドラマ」とは一線を画すものだと思う。
 創立四〇周年に「夕張」を題材に選び、道内十劇団の役者六十名、スタッフ十数名の大きなアンサンブルで公演が実現したことをまず評価したい。町民参加劇でもなければ、最近では稀有な企画なのだ。それだけに注文というか、感想も多くなる。
 まず最初に気になって、「合掌」の二文字まで見終わってもすっきりしないのが、主要な役十数人を除けば、四十数役は男女それぞれに通し番号をふられた「その他大ぜい」だということだった。一人ずつ名前を付けろというのではないが、最後に九十三名の名前が並ぶのなら、「男1」の広光さんは誰を演じたのだろう、「男6」の鹿角さんは、などと考えてしまう。「盆踊り」、「事故の一報に駆けつける人々」、「繰り込み所の前に献花する人々」などの、いわゆる群衆シーンでは、春日、工藤(篤)、柴山、菊地、西村、松永、紫城のみなさんなど(ごめんなさい、その他の人は名前と顔が一致しなくて)、演じどころがなくて、とまどっているように見えてしまった。その結果、稽古不足だとしか見えない場面も少なくなかった。新劇場の二十年前の舞台、合田一道原作・本山節彌脚本・山根義昭演出『流氷の海に女工節が聴える』のみごとな群衆処理に感心した私としては、大いに不満が残った。本と演出に課題が残されたといえよう。「盆踊り」の場面では、人数が多すぎて逆に民衆のエネルギーが消されてしまったようにも思える。
 次に、母親とか美樹とか照子とかでなくてもいい、事故後、勇気をふるって裁判闘争をたたかった女性たちの姿が見たかった。「遠くの町で暮らす」だけでなく、今も夕張に残って歯をくいしばり、頑張っている人もいるのだと思わせてほしかった。それはまたまったく別のドラマで、ないものねだりの無理な注文だと思いながら、同じ題材で舞台化に挑戦し不発に終わった私としては、そんなドラマをこそ期待していたのだ。
 それに比べれば、後は小さな問題かも知れない。会社側の人間がいかにもパターン化されていて、面白みに欠けていた。ズリ山と坑道の関係では、ズリ山をもっとはっきり見せたかった。親娘対面のバックは全山燃えるような紅葉でありたい。手を洗うところは、段差を利用するなり、照明で小川を表現する工夫がほしい。二幕で目立った小道具の受け渡しや語り手の登退場などに統一性がほしい。全体に、演技スペースの選択とミザンシーンにもっと工夫がほしかった、など。同じ仕事をする者として、自分に向かって書いているようで苦しいが、これらはほとんど演出の責任ではないだろうか。もっと稽古を積んで本番にのぞんでほしい。それが、新劇場のみならず、道演集のこれからを切り拓く道ではないかと思う。「稽古」とは、イニシエヲカンガエルと読むのだと最近初めて知った。
 四〇周年を機に、新劇場のますますのご活躍を祈って。(十月四日)


劇団みずなら 2001年8月26日マチネー
 『愛さずにはいられない』観劇記      劇団河童団友 田丸 誠
  8月26日、河童の仲間4人と共に斜里の劇団みずならの公演『愛さずにはいられない』を観て来ました。筆達者なジェームス・三木が書いた、随所にお客さんを喜ばせるしかけがしてあり、うまくできた本です。
 会場は斜里町自慢の公民館「ゆめホール知床」で、メインの文化ホールは600人収容できるゆったりしたつくりでした。舞台はタッパが高い印象をうけましたが、奥行きが倍とまでは言いませんが、もっとあれば文句ないのに、と思いました。
会場入口で鈴木喜三夫ご夫妻に久しぶりにお会いし、私が図書館から市史編さん担当に異動になったことなど、近況を報告させて頂きました。鈴木氏から、『北海道演劇年表』を贈呈されて恐縮した次第です。
前日の公演には、紋別の海鳴りの我孫子さんご一党や、釧路演劇集団の皆さんも観劇していったとのこと。ロビーにお手伝いの「オリジナルクッキー製作部隊」によるコーヒーコーナーが用意されていたので、一休み。

 午後2時開演。この頃のはやりなのか、前説と称して、携帯電話の電源を切る等の場内注意を兼ねて、3人の青年がスケートウエァで登場。観客に過去何回、劇団みずならの芝居を観たか聞くなどしておりました。
 この芝居の粗筋は、相当昔にテレビで川谷拓三が主人公役をやったこともあるので、ご存じの方もあるかと思いますが、定時制高校に通う35歳の風采のあがらない大工が、結婚詐欺にあって男性不信になっている28歳の数学女教師に恋をするというもの。そこに調子の良い親方がからんだり、大工を応援するクラスメートたちがいたりする。
一幕目は主人公、オッチャンこと落合勝利(本宮尚孝)の自宅。下手に勝利の部屋、上手に茶の間がある設定になっていました。12回も見合いに失敗して、息子の行く末を案じる母親=富江(土屋美恵子)。そんなことには慣れっこになっている勝利。それよりも、今日はヒロインの小坂麗子(井上順子)が家庭教師にやってくる日。(勝利にそんなワクワク、そわそわした感じがほしかった。)予定した時間より早くやってきた麗子の登場にあわてる勝利、メガネをし「やる気」を云々する厳しい教育態度の麗子。そこへ勝利に甥の身代わり見合いを強要する親方=加賀俊造(二口貴之)がやってくる。見合い相手がすくいようのない『メダカブス』でバツイチの甥が逃げ出したというのだ。そのメダカブスが、麗子であることが明らかになる。
2幕目は、教室。下手に黒板がある設定。気になったのはバトンから教室の壁を吊るしたケーブルが太く目立ったこと。吊る本数を減らすか、細いバインド線にするか、何か対策を取った方は良かったのではないか。集団の演技となると、メリハリが必要で、それぞれの生徒の発言に対する反応も、テンポよくなくてはいけない。ここで、麗子と生徒たちの対決。麗子が結婚詐欺で故郷から川崎に逃げてきたことが暴露され、それを校内中に張ろうとする番長グループ。麗子を擁護する勝利。決闘場面。また、勝利が唐突にプロポーズし、拒絶される場面。それぞれ緊張感があって良かったと思う。それらがあったから、麗子に痴漢と間違われビンタをされ、逆上しながら不器用に真情を語る勝利の切なさがきいていたと思いました。 
3幕目は、失恋で仕事も手につかず、不登校になった勝利の自宅。仕事が進まず困った社長が飲めない勝利を誘って、気晴らしに飲みにでた所へ、メガネをはずし「変身」した麗子が飛び込んでくる。そして、麗子は勝利の母、富江にこれまでの非礼を詫び、自分の生い立ちと結婚詐欺にあったこと、勝利の愛に目覚めたことを述べる。すっかり、麗子に同情した富江。しかし、勝利は帰ってこない。一夜明けて、朝帰りした二日酔いの勝利が、今度は麗子を拒絶する。飛び出す麗子。勝利は「一心亭のマダム」(片山真弓)と過ちをおかしたと勘違いしていたことがわかり、ハッピーエンド。

 ゴールデン・シルバー(禿げ頭と白髪の)劇団河童と違い、団員の年齢が若いので、親方役はじめ老け役が苦労してメークアップで皺をつけていましたが、私が舞台近くの席でみたせいか、黒い傷にしか見えませんでした。もう少しメークの勉強をされた方が良いと感じました。
 私は参加していませんが、河童でも1998年に、この『愛さずにはいられない』を公演しています。今回一緒に斜里に行った布施氏が演出を、富木氏が加賀社長役をやっていましたので、それぞれ私とは違う感想がある思いますが、若い劇団だとどうしても力みがちなのに、いずれの役者さんの演技にも無理がなく、好感が持てました。
 特に「一心亭のマダム」役の片山真弓さんには、まいりました。さすが座長!「あんな水商売のおばさん、いるいる」と感じさせました。
 あと付け加えて言うとすれば、130分の上演予定で15分ほどオーバーしていたようですが、もう少しテンポが良くなれば、申し分なかったと思いました。
 しかし、観ていて、この本も古くなったな、とも思いました。もう、今時、結婚年齢が上がって、28歳くらいの独身女性をオールド・ミスなどと言いませんし、あんな男気のある番長もいないと思います。そんな本の時代とのづれはあっても、面白い芝居でした。
劇団みずならの皆さん、地元の観客の方々の暖かい期待を大事にして、これからもっと楽しいお芝居を作ってください。また、観たいと思います。
(2001年8月31日)

劇団海鳴り 2001年7月7日公演
 『ユタとその不思議な仲間たち』観劇記      劇団河童 布施 茂
劇団海鳴り七夕親子劇場「ユタと不思議な仲間たち」を2001年7月7日午後6時半から紋別市民会館大ホールで観た。
1000名収容の客席には親子連れで8割方の席が埋まっていた。
相変わらず、観客組織率が高い海鳴りだ。
4月28日には、劇団にれの作品を札幌市こどもの劇場やまびこ座で観させて頂いたので2度目だ。今年、劇団四季も同じ作品を道内で上演しているが、入場料が高すぎ、我々貧乏人には高嶺の花だ。
さて、にれの脚色は、札幌山の手高等学校演劇部の脚色だったが、今回は海鳴りによる脚色。どう料理されているのか興味があった。
こども向けの芝居というと、こどもにこびを売り作品が多く、かみ砕きすぎて内容のない類型的な脚本になりがちだ。にれや海鳴りの脚色とも、もっとどろどろした大人の世界との関わりを見せて欲しかった。間引きという言葉では語られるが、今のこどもたちにその実感はわからない。

まず、舞台美術から。間口いっぱい高低差をつけた山台を組んだシンプルな舞台だ。山道になったり、村の道になったり、旅館の廊下になったりと観客にイメージをふくらませる意図だ。蹴込み部分は、きれいでさわやかな色遣いで好印象。
下手奥には大木が一本。葉っぱの部分が緑の布きれで、大きく4つ5つに折り分けて、立派な葉っぱに見えるから不思議だ。
ペドロたちが最初に登場する柱は、出来に多少稚拙さが気になるが、照明効果もあり、目的は果たしている。セッティングの二人が裏で待機しているのが見えて、やや興ざめというか、登場するのがネタ割れして、登場の驚きが薄れてしまったのが残念。

演出は、松浦伸二とすわようこの二人。いつもの神山昭は助演出に回っている。
役者では、斎藤利治君の成長に目を見張るものがある。1999年端野で開催の演劇学校に遠軽町から個人参加し、その後劇団海鳴りに入団したのは聞いていたが、うれしい限りだ。
脚色が異なると、登場する人物も異なるというのは面白い。原作を再度読み直したくなった。にれでは、ユタのお母さんが登場するが、海鳴り版では、学校の先生が登場し、お母さんは登場しない。

役者面では、海鳴りは新人が多く、新鮮さが取り得。ユタの吉田君は思い切って髪を切れれば、より男の子に近づけたのではないだろうか。都会っ子の弱々しい男の子という面を強調したかったのかも知れないが、村の子と対決する面をもう少し強調したら良かったように思う。
その他、ゴンゾ役の佐藤君、体格を生かした役作り面白かった。高校生も何人か巻き込んでの作品づくり、稽古時間の問題など課題が多かったろうが、楽しめる芝居だった。
にれの感想は全く書けなかったが、こども劇場の歴史の違いを感じさせる堂々とした作品に仕上がっていた。

釧路演劇集団2001年6月3日公演
 『結婚契約破棄宣言』観劇記      劇団河童団友 田丸 誠
 前日の紋別に続いて、6月3日は、釧路へ布施氏と釧路演劇集団第26回公演『結婚契約破棄宣言』(作・北野ひろし/演出・尾田浩)を見学に、早朝北見から出かけました。 
会場は市の中心街にある北海道立釧路芸術館アートホールでしたが、最初場所が分からずウロウロする羽目になり、開演午前10時30分には何とか間にあいました。道立釧路芸術館はレンガ作りの瀟洒な建物で、中では展覧会が開催されておりました。釧路にこうした道立の施設があることは、北見人には羨ましいことです。
会場は普段講演会や学習会などで利用されているホールらしく、したがって舞台として配慮されておらず、
出入口が片側一カ所しかなく、実際の上演中でも、客が出入りする度に外光が入りこんできました。出入口外部に衝立を立てるなど、一工夫がほしかったところです。そのホール平場前部に舞台が設定され、観客は後方の固定階段席(席数は 150席ぐらいでしょうか。)で観劇するようになっていました。
舞台は教会経営の幼稚園の教室が結婚式場控室になっている設定で、正面に大きな廊下窓が見え、その両脇に出入り口があり、平場には園児用の小さな椅子と机が十組ほど置いてありました。緞帳なしの明かりで場面転換しておりました。
 プロローグは薄明かりに中、花嫁とそれを囲む男性陣による踊りで始まりました。訳あって親たちを呼ばずに、結婚式をあげることになったことが花嫁から告げられ暗転します。
明転すると、結婚式場控室になり、そこには主人公のカップル、渋谷政幸(高橋ひろと)と山田さくら(あんざわ めぐみ)の友人たちで、夫婦別称を実践している笹岡(たまだ
まさき)と平根(畑山祐貴子)の教員カップルがおり、そこへ浮気が発覚して別居中の政幸の姉夫婦、榎田一郎(清水秀紀)・榎田佳子(みき ちよこ)がやってきます。
やがて田舎から政幸の伯父夫婦もやって来て、そこにさくらの関係者らしい田島(中山知征)・結婚式場パート世話係さなだ(如月志帆)も入りまじって芝居は進行します。
都会でフリーターをしている政幸は結婚して田舎に戻り、伯父の世話で仕事に着こうと
しているのですが、婚姻届を書かされる段階になって、若いカップルが日本国憲法第24条第1項「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し夫婦が同等の権利を有する事を基本として相互の協力により維持されなければならない」ことを踏まえて、1年ごとに結婚を更新する「結婚契約」を考えていることが明らかになり、ここから俄然「デスカッションドラマ」の様相になってきます。
 伯父夫婦は旧世代の常識を象徴して「籍」に入ることが家庭の安定の基であると主張し、友人夫婦は「籍」などは問題ではなく、お互いが経済的・精神的に独立した人格として結婚生活を営む事が大切だと主張します。姉夫婦は離婚寸前の自分たちの姿から結婚を再度考えさせられることになります。
 途中から、男性達は年限で結婚契約をすることは自分たちに不利と考え、婚姻届を絶対出すべきと結束し、女性軍はそれ対抗し、その間を実はさくらに雇われていたレンタルファミリー会社の田島が女性軍についたり、金に釣られて男性軍に加勢したりするという誇張されたドタバタもあります。 
最後には、さくらがアメリカで離婚を「生物学的」に裏付けたと話題になったヘレン・E・フィッシャー著『愛はなぜ終わるのか』の「愛は4年で終わる」説を根拠にして、結婚生活に自信がないと言い出す始末。題名どおり、「結婚契約破棄宣言」されるのです。
ここで、政幸が「籍」とか「契約」とか形式ではなく、「さくらを愛していることが大切なんだ」ということを必死で訴えて、それにさくらが答え、結婚式に向かうところで終わりとなりましたが、幕切れは唐突な感を免れませんでした。
 「結婚とは何か」、まじめに考えてみることは大切なことだと自分も考えます。人間は、たしかに生物であることは自明ですが、それだけで自分の行動(例えば浮気)を正当化することはできません。人類は人間として進化し、意識をもって独自の文化や社会的制度をつくりあげてきたのです。それらは作られたものである以上、完全ではなく、絶えず改革されるべきであります。しかし、そこで守られている中身について、知り、考えることは大切なことです。私は、両性が「人間として尊重しあえる相互関係」を持てることが大切だと考えます。生物的な攻撃衝動を緩和し、社会的な生活を営む為に性的関係が大きな位置を占めることは、類人猿ボノボの研究でも明らかになってきています。人間は類人猿以上に思考力を持っているのですから、自分の行動を思考力を持って制御できるはずです。まさに「反省のポーズだけなら猿でもできる」です。人を愛することは、その人の生命をいとおしく思うことです。その生命を守るためにどうしたら良いか、考え、行動すべきことはたくさんあります。
 芝居全体をみると、問題提起に力点があって、人物、特に主人公カップルがあまりよく書き込まれていない本の弱点があったと思いました。「相互の協力の維持」の根本になる経済的自立が、田舎に帰って伯父の援助を頼りにしなくてはならない矛盾。形式を嫌ったはずのさくらが雇う親戚がわりのレンタルファミリー。その他、色々矛盾がありました。 しかし、その本の弱点を補って余りある楽しい芝居にした釧路演劇集団の演出・役者の皆さんの実力に私は敬意を表したいと思います。伯父役はおいしい役で、私もやってみたいと思いました。客演だそうですが、政幸の姉役のみきさんも上手に芝居を引っ張っていました。義兄役の清水さんも楽しませていただきました。皆さんそれぞれの持ち味が出ていました。
これに続いて、10月には"冠婚葬祭二部作"として『煙が目にしみる』を公演するとのことで、是非拝見したいと考えております。(実は、河童も11月に同じ芝居をやる予定ですので、釧路の皆さんに負けないように努力して「笑われたい」と思っております。)

偉人舞台2001年6月2日紋別市文化会館公演
 『月夜に咲く薔薇』観劇記      劇団河童団友 田丸 誠
 6月2日、布施氏の車に同乗させてもらって、久しぶりに北見から紋別に出かけ、劇団偉人舞台第8回公演『月夜に咲く薔薇』を観劇しました。今回の芝居は、劇団「海鳴り」の代表、我孫子夫妻の長男である泉氏が東京で主宰している「偉人舞台」による、弟の令氏が作・演出した一種の凱旋公演ともいうべきものでした。
開演1時30分には、会場の紋別市文化会館1階のホール、250席はほとんど満席で、以前「劇団さっぽろ」に役者として籍を置き、現在は紋別市議会議員である、なつかしい北原氏の顔もありました。
狭い舞台一杯がオカマ・バーという設定で、黒い壁面に赤いバラを散らし、店の出入り口は正面の山形に
組まれた3層階段正面で、そこが踊りのステージにもなるようになっており、下手に従業員に控室、上手には主人公の事務室がある設定でした。
開演前から場内ではミラーボールが回り、モダンジャズが流されて、雰囲気を盛り上げていましたが、私の好みではうらぶれた艶歌でも流してもらいたかった。
 定刻、にぎやかな女性漫才仕掛けの注意の「前説」があって、その後に役者総出顔見せである、活気溢れる女装オカマと男装の麗人軍との乱舞、その余韻の中での主人公ミカド(我孫子泉)が女装から男装への着替えながら登場。
話は、不景気なオカマ・バーを立て直すにはどうしたら良いか悩んでいたママ・ミカドが、世界を流浪して舞い戻ってきた友人で恋人カキ(鹿島良太)の力を借りて、ショー・パブ「ローズ・ムーン」にリニューアルするというのが筋でした。
 リニューアルに先だって、新規従業員のオーディションがあり、わけありなニューハーフ美人2人、こぶ付きの失業サラリーマン、元プロレスラー見習など、見ているだけでも面白そうな人々が集まり、その後「コーラス・ライン」をパロッたダンスシーンがあったり、軽妙なやりとりの中で劇は進行します。
 当然、古参と新参者との従業員同士の軋轢があったり、女性なのにニューハーフと偽って参加する謎の娘がいたり、神経症のニューハーフがいたり、改装祝いで泥酔した元サラリーマンが世間一般の偏見を吐露して大ゲンカになったり、次々起こるトラブルの中で次第に「肉体の性」と「精神の性」の矛盾、「性同一性障害」問題が浮き出てきます。
 美しくなりたいだけで、十分な精神的な適性も検討せずに男性器を切除して「性転換」しても、老いて男と女のどちらにも属することができず、その上に世間の好奇の目にさらされて、精神を害してしまう。華やかな表舞台の背後には、こうした重い現実のあることが神経症のニューハーフを通して明らかになります。
 そんな心労のはて、昔ママが女性と結婚し、一人娘がいたことをエミリに告白してしまいます。ママは妻を愛していたが故に、正直にゲイである事を言ってしまい、そのことが原因で妻に逃げられ、父親にも勘当されて故郷を捨てた過去が明らかになります。その娘が実はニューハーフと偽って参加したエミリでした。「瞼の父」に出会うことができた娘に、父であるママは「住む世界が違う」と突き放します。皆が手探りで、それぞれ悩みながら「自分らしく生きられる世界」を探している。ママにはこのオカマの世界こそ、「自分らしく生きられる世界」なのです。
 どうしても、こうした舞台を見ると、私などはフランス映画のコメディ『ミスターレディ』を思い出してしまう。あの映画は、子供の結婚相手の両親にオカマであることを伏せて、普通の男親を演じるおかしさがありましたが、この芝居では日本的なお涙頂戴の「母子もの」ならぬ、父を尋ね歩く「父子もの」となっているものの、私の正直な感想では中途半端な印象をまぬがれませんでした。
この親子関係で言えば、ママもカキも年齢設定が50代前後ということになりますが、どうしても役者の実年齢の30歳前後という肉体の若さが表面にでてしまい、「盛り」を過ぎて老いを目の前にしたオカマの哀歓が出てこなかったのは、仕方のないことでしょう。 ママが「秘密の仮面」をつけて暮らしていることを心理的に象徴させて、仮面をつけた人物を、芝居の節目に登場させていますが、これは必要ないような気がしました。
 全体的に、後半に大きな問題を提示して芝居として少々重くなった気がしました。どうしても才能があると、アイディアが浮かび、あれもこれも芝居に盛り込みたくなるのは分かりますが、もう少し絞り込んで見たら、もっとすっきりしたのではないでしょうか。
しかし、役者もこなし、劇作・演出・作曲もものにして、東京で舞台を立派に展開している若い才能たちに心から拍手を送りたいと思います。この日、目にした紋別のお客さんの暖かい声援も羨ましい限りでした。夜の部は昼以上に、立見もでるほどの盛況であったと聞きました。何はともあれ、おめでとうございました。


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