三公、三孤
役職名 |
人数 |
秩 |
太師、太傅、太保 |
定員無し |
正一品 |
役職名 |
人数 |
秩 |
少師、少傅、少保 |
定員無し |
従一品 |
皇帝が陰陽のことを取りまとめ、国家を治め、徳を広めるための補佐をするものであり、その職務は非常に需要である。
定員は設けず、一人だけに授けるものではなかった。
洪武三年には李善長に太師を授け、徐達に太傅を授けた。
これより以前には常遇春に太保を贈っている。
三孤は他の官と兼ねることはなかった。
建文、永楽年間は公や孤の官を置くのをやめていたが、仁宗代になって再び置くようになった。
永楽二十二年八月にまた三公、三少の官を置いた。
成祖永楽帝は永楽二十二年七月庚寅に崩御した。仁宗洪熙帝が即位したのは翌八月丁巳である。
逾年改元なので翌年が洪煕元年となる。
『明史』巻八 本紀第八 仁宗には、
「永楽二十二年八月の己未、また三公・三孤の官を置き、公・侯・伯・尚書に兼任させた。」
とある。 |
宣徳三年に太師・英国公の張輔、少師・吏部尚書の蹇義、少傅・兵部尚書・華蓋殿大学士の楊士奇、少保兼太子少傅・戸部尚書の夏原吉にそれぞれ担当している職務をやめさせて皇帝の側近くに置き、政治に関して意見を述べさせるようにした。
この頃には公や孤の官は、ほとんど一人だけに授けられるようになっていた。
『明史』巻一百十一 表第十二 七卿年表一の宣徳三年戊申には、
吏部尚書の段→蹇義 十月吏部の任を解く。給料はそのまま。
戸部尚書の段→夏原吉 十月戸部の任を解く。給料はそのまま。
とある。
楊士奇については洪煕元年正月に兵部尚書となるが、ほとんど名誉職のようなもの。実際には別に兵部尚書がいる。 |
蹇義、夏原吉が亡くなった後は、楊士奇を内閣の業務に戻した。
これより後、公や孤の官は実質の伴わないものとなり、功績のあった文武の官に加える、または死後贈るだけのものとなった。
しかも文官では生きているうちに三公を加えられた者はおらず、ただ死後に贈られるだけであった。
嘉靖二年に楊廷和に太傅を加えようとしたが辞退された。
その後文官で三公の地位を得られたのは張居正のみである。万暦九年に太傅を、十年には太子を加えられた。
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