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大明英宗睿皇帝実録巻之三百四十九より

 

貢院火 −科挙試験会場で火災 死者多数−

 

天順七年 [1463] 二月
乙丑(6日) 礼部より、全国の挙人を対象に会試を行なうことが陛下に奏上された。陛下は礼部右侍郎兼翰林院学士陳文、尚宝司少卿兼翰林院修撰柯潜を考試官に任命し、礼部に宴会を賜った。
戊辰(9日) この日、夜になると大風が吹き、科挙の試験会場で火災が起こって、受験生の死者が多数出た。翌日になって、礼部は陛下に報告した。陛下は八月に改めて試験を行うことを命じた。
己巳(10日) 試験会場が火事になった件について、知貢挙(科挙の責任者)及び試験官等、礼部左侍郎鄒幹、郎中兪欽、主事張祥、監察御史唐彬、焦顕等を投獄した。その後鄒幹は赦され、元の職務に復帰した。
辛未(12日) 試験会場の火事で焼死した受験生の遺体は、その親族でも見分けられずに埋葬できないでいる者が非常に多かった。それを聞いた陛下は哀れみ、関係部署に命じて棺を用意させ、朝陽門の外に埋葬させた。
丙子(17日) 礼科給事中の何j等が言った。「国子監丞の閻禹錫は試験会場の火事について報告した際、このように言いました。『受験者で火事に遭った者は多い。彼等は、かつては有学の士であったが、ある晩、何の罪もなく忠義を抱えたまま死ぬこととなった。死体の油は土壁に塗られ、肉は鳥に食われてしまった。囲いを越えさせて外へ出させた者は全員灰になったように生気がなくなってしまっている。周りを見回して嘆く者が多く、志は失われてしまったが、進士の名を賜うことを願い、顔色には合格者の表情が表れている。』我々が焼死した者達を見ると、朝廷は既に担当部署に回して棺桶を用意して埋葬しております。受験予定の学生達はその恩恵を間近に見、全て感激して励まされない者はおりません。どうして生気をなくし志の失せる者がおりましょうか。閻禹錫は巧言を弄して大袈裟な事を言い、ほしいままに振舞って、しかも陛下にお答えする内容は事実ではありません。その罪を糾すべきです。」陛下は「お前達の言う事は正しい」とおっしゃり、閻禹錫を錦衣衛の獄に下して取調べを行なわせた。
庚辰(21日) 礼科給事中の何jを通政司右参議とした。
丙戌(27日) 工部左侍郎霍[王+宣]、工部右侍郎薛遠等を錦衣衛の獄に下した。当初、礼部が試験会場が狭くて窮屈なので火災が発生したのだとし、城中の空地を選び、改めて試験会場を設けたいと願い出たので、工部が手配した。[王+宣]等は安仁坊草場を選んで、そこを改めて試験会場とすることを願い出、薄い板張りの建物を造り、受験場とした。しかし建築の費用を陛下に報告したところ、陛下は「試験会場はやはり元のままでよい。戸部の管理する空地を勝手に変えてしまってよいはずがない。[王+宣]と遠は自分から六つの罪状を告白し、それによって[王+宣]と遠は弾劾され、とうとう部下の郎中等の官と共に獄に下された。
   
天順七年 [1463] 八月
甲午(8日) 礼部は会試行うことを願い出た。陛下は太常寺少卿兼翰林院学士彭時、侍読学士銭溥を試験官に命じ、礼部に宴を賜った。
辛亥(25日) 礼部は会試の受験資格をもつ挙人の呉銭等二百五十八人を引率し、陛下に謁見した。

 

 

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