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No.224: サン・マルタン運河 (2007.5.2)

ここのところ試験曲ばかりの練習で少々うんざり。
前々回のレッスンで、先生に、「試験の準備をしなければ行かないからエチュードは持ってこなくていいよ。」といわれたので、「えっ、もう少しで1冊終わるのに!」と言ったら、「きみ、エチュードやりたいの?」といわれたので、「やりたい!」と言ったら笑われてしまった。
エチュード、あればあったでしんどいが、なかったらないで少々ものたりない。

夕方、バスティーユにコンサートのチケットを買いに行く。
そのあと、バスティーユから見える運河を散歩した。
この運河沿いの公園に、すごいバラのアーチがあったので、そこがバラでいっぱいになっているところを期待してして来たのだが、あんまり手入れが行き届いてないようで、バラ花のほうはいまひとつさびしい感じ。
昨日、室内楽のメンバーから聞いた情報によると、ロダン美術館のバラがいいらしいので、こんど、時間ができたときには、そこに行こうと思っている。

そこの公園で、デートしている人たちや、ひたすらぼーっとしている人たちや、本を読んでいる人たちに混じって、ロラン・バルトの「表徴の帝国」という本を読む。
フランス人の思想家が日本を旅して書いた日本人論のような本で、『ははは、フランス人にはそう見えるか!』という感じで面白かったが、でも、理屈っぽい固い本で、あんまり公園で読むような本ではないな。



セーヌ川とサン・マルタン運河を結ぶ港のようなところ。
遠方中央はバスティーユ広場の記念柱。右にはオペラ座がすこし見えている。
ちなみに運河は、バスティーユ広場からは地下を通って、サン・マルタン運河に
つながっている。(この写真の反対側はセーヌ川につながっている。)


バラのアーチの方はいまひとつだったけど・・・


あちこちにいろんなバラがちらほら咲いている。

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No.223: 室内楽の練習 (2007.5.1)

きょう、予備選抜試験を受ける夢を見た。
一箇所のミスもなく、完璧に吹けた。技術的にも、音楽的にも、かなりよい感じ。
それで、これはいけるな、と、いい気になっていたのだが、いざ、合格発表の日をむかえてみると、ぼくの先生のクラスの7名(夢の中での設定)のうち、予選を通過したのは1名のみ。ぼくは落選していた。
先生に、「なにがいけなかったんでしょうか?」と聞いてみたら、「ちょっと重すぎたんだろうね。」とのこと。一生懸命吹きすぎたようで、もっと軽くさらっと吹くべきだったようだ。
ああ、しかし、本選コンクールで落ちるならともかく、予選で落ちるとは情けないね・・・
と思ったところで、夢の中で、これは夢だと気がつき、ああ、夢でよかった、と思ったのだった。

・・・いや、でも、なんだか十分にありえるリアリティーのある夢だな。
気負わず、さらっと軽く行こう。

そのあと、室内楽のメンバーから電話があって、「きょうの3時でよかったですよね?」とのこと。えっ? きょう、火曜日だったっけ? と、あいかわらずの大ボケぶりで、あわてて準備して出かける。

ダマーズをやっていて、「もっと軽くしたいんだけど・・・。ほら、オペラ座管弦楽団の演奏って、いいかげんっていうかさ、あのいいかげんに軽くさらっと弾いちゃう感じ、あれ、かっこいいよねー! ああいうのやりたい。」とか言ってみたら、「でも、あれは何十年も弾いてるようなすごい技術的を持ってるからできるんであって・・・」みたいな話になったんだけど、でも、「あれは本当にかっこいい」とか、「せっかくパリにいるんだから、気持ちだけでもあれを目指そうよ」、などと盛り上がる。



練習の帰り。マリ橋の上から見たセーヌ川のほとり。
ここのところパリは暑い。

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No222: バスティーユ・オペラ座 (2007.4.30)

予備選抜試験、もうあと10日ほどとなったが、試験曲の仕上がりのほうは、まあまあかなあ。あとはレッスンで見てもらおう。

そんなかんじで、きょう、急に思い立って、ヤナーチェクの『マクロプロスの秘事』というオペラをバスティーユに見に行く。
というのも、何ヶ月か前、このオペラの舞台の製作現場を特集している雑誌をたまたま見たのだ。
それが、なんとも巨大なキングコングを作っていて、その大きさがまた半端じゃなくて、親指一本が人間ぐらいの大きさのもの。・・・つまり、奈良の大仏みたいな巨大なキングコングの上半身を、細かいディティールまで、懸命に作っているのだ。
それで、そのキングコングを一目見てみたいものだと思って、きょう出かけたというわけ。

今回は、ちょっとキングコングを見てみただけだったので、30分ぐらい並んで、当日券の一番安い席を買う。一番右上のほうのバルコニー席だった。

今回は、とにかく舞台がすごかった!
想像を絶するすごさ。
幕が開けると、モノクロのマリリン・モンローの実写映像がスクリーンに映し出される。
(マリリン・モンローの実写映像、始めてみたが、こんなにかわいい魅力的な人だったんだね。)
そのあと、20m以上もあろうかと思われる舞台装置が、テンポよくつぎつぎと音もなく現れては、入れ替わっていく。
それは、たとえば、舞台の幅いっぱいの、巨大なガラスの部屋のトイレだったりする。
ガラスの部屋の右側には小便器がいくつか取り付けられており、左は大便器の個室。小便器の上には、それぞれ小さなディスプレイが取り付けられており、そこには映像作品が映し出されている。
マリリン・モンローの衣装をつけた女が、男となにやら言いあった後、ガラスの壁で仕切られたトイレの個室に、駆け込んで靴を脱ぎ捨て、ガラスの扉を閉め、そして、そのガラスの壁越しに、男と女の会話を交わしはじめる。そして、女は便器の上に座りこみ、頭を抱えてなにやら煩悶する。・・・と、そんな調子だ。
この、巨大なガラスのトイレのセットの、なんと美しいこと!
そして、なんと現代的な感覚にあふれた新鮮な具体装置であること!
そして、こんなような信じられないほど素晴らしい舞台作品が、次から次へと現れるのである。

そして、例の巨大なキングコングも登場する。バスティーユの大きな舞台を埋め尽くすほどの大きさ! 手のひらの上には、小さく見える歌手を乗せている。
しかし、この迫真の作りこみのキングコング、パロディー的に軽くちらっと登場するだけ。
というか、そもそも、もともとのオペラの劇の進行上は、キングコングはべつに必要としていないようなかんじ。
・・・つまり、一言でいうと、とてつもなく贅沢な舞台なのである。
おそらく、『マクロプロスの秘事』という話自体も、そんなにたいした内容ではないのではないかと思うのだけれど、一事が万事、本質的にどうでもよいようなところに、莫大な労力と予算を使っている舞台なのである。
「贅沢」というのはこういうものか、と思った。
こんなに贅沢なものは見たことがない!
気が遠くなりそうなほどの、究極の贅沢!!



バスティーユのオペラ座の大階段。
ポスターはきょうの演目のもの。


終演時のカーテンコール。


終演後のオーケストラ・ピット。
この幕、たぶん、マリリン・モンローのドレスのイメージではないかと思う。


終演後、側面バルコニー席から見た客席。


帰り。オペラ座の前から見たバスティーユ広場。


ところで、演奏の方は、やっぱり、ふだんのバレエのときの演奏の方が好きだなぁ。
あの、舞台上のダンサーと一体になって、体重を感じさせないような軽くて華やかな音、躍動感のある生き生きとしたリズム、そして洗練された甘くいメロディー。
オペラ歌手に間を合わせているためか、あるいは、ヤナーチェクの作曲上の問題か、きょうのオペラ座管弦楽団はちょっともたもたして、いつもとちょっと違った。

オペラ座管弦楽団の(多くの日本人には物足りなく感じるような)軽い演奏が、ぼくは好きだ。バラの花のように、あるときぱっと華やかな花を咲かせて、あっという間に散ってしまう。バラの木は、なにか哲学や思想があって美しい花を咲かせているわけではなくて、きっと、ただ咲いているだけだ。
音楽は、演奏が終わったら消えてなくなってしまうものだけど、・・・ぼく自身も、なんの意味もなく一瞬の花を咲かせ続けて、そして、花を咲かせられなくなってしまったら、さっさと枯れてこの世からなくなってしまいたい、なんてことを思ったりするのである。

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No.221: 中世美術館 (2007.4.29)

フランス語では、美術館も博物館も「Musee(ミュゼ)」なので、ひょっとすると「中世博物館」と訳したほうがいいのかもしれないけれど・・・、とにかく、今日、そこに行ってみた。

ここは、こちらに来てまもなく見つけたところで、うちのアパートから歩いてすぐのところにある廃墟のような怪しい建物で、興味津々だったのだが、でも、ここは閉館時間がちょっと早い。・・・つまり、ちょっと早めに練習を切り上げないと来れない、という、なんとも無粋な理由でいままで来れなかったというわけ。
でも、きょうは、さっさと切り上げて出かけてみた。

この美術館に入って最初に展示されているのが、コインや、小さな金属の装飾品のようなもの。コインは、現在の硬貨同様、細かいレリーフが施されている。ぱっとみた感じ、けっこうつまらないものが並んでいるかんじなのだけれども、美術館をひととおり見終わった後、この、細かい細工がこの時代のテーマのひとつのように感じる。

全体としては、ほとんどの展示品が教会関係のもの。ほかには、王族関係らしき、小さな装身具など。
どちらにしても、驚かされるのはその手の込んだ細工の細かさだ。
素材は、金属や、木や、象牙などが使われているが、いずれにも、人間の技術の限界に挑むような細かい細工がなされている。たとえるなら、ジュエリーの彫金師のような細工。
そのさまは、500円玉くらいの大きさの中に、まるで宇宙が詰まっているような密度の濃い細かさ。
ふと上を見上げると、そこにも、同じような細かい細工の天井があった。そこにも同じような宇宙がある。

この美術館にはタピストリーがたくさんあり、この美術館の目玉となっているようだ。
しかしながら、その図案は象徴的なもので、ぼくにはその意味するものはわからない。

等身大かそれより小さめの彫刻もたくさんあった。やはり、イエスやマリア像が多いが、他にもいろいろあった。ひとつひとつの表情などを見て歩いたが、生々しい感情のようなものは感じられない。作者の意図するようなものも感じられない。
ただ、この彫刻像たちを見て思ったのは、特にイエスやマリアのまわりでうろたえている一般の人たち、・・・そういう人たちの表情が、とても凡庸で、その凡庸さがなんだか妙にリアルだったということ。
特別教養もないような、凡庸で朴訥な顔をした人たちがいて、目の前のイエスの惨事にただただうろたえてる・・・そんなところが、妙に写実的でリアルに感じられた。



廃墟のような、なんだかインパクトのある外観の美術館。


タピストリー等が並ぶ展示室。


おそらく象牙だと思うけれども、これは実際はとても小さなもの。
各部分の天井の装飾にいたるまで、とにかく細工が細かい。


タピストリーの展示室。上を見上げると、小さな装飾品を
そのまま拡大したような天井があって、驚く。


関係ないけど、美術館の入り口の脇にある井戸。
昔話に出てくる井戸の、実物のようなかんじ。


ちょっと覗いてみた。


この美術館の展示品たちから受けた印象をひとことで言うと、じぶんからは遠い時代にあって、作品、あるいは作者と、なにかしらの意思の疎通のようなものをとることはできないような、そんなかんじ。・・・あるいは、当時の価値観としては、そういうものは排除されているのかもしれないけれども。
いずれにしても、紫式部くらいの時代のものを、外国人のぼくが感覚的に(あるいは本質的に)理解するのは難しいだろうとは思う。

その点、装飾美術館の相対的な中世の展示は、ぼくにとっては分かりやすかったなぁ、などと思う。

逆に、バロック以降の年代のものは、それがどういう種類のものであれ、なにを意図しているのかさっぱりわからないということは起こらないのだけど、それは、きっと、バロック時代に、現代のぼくらにも通じるような大きな価値観の転換があったんだろうなぁ、などと思う。
それは、きっと、なにかすごい出来事だったに違いない。

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