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 『夜の光に追われて』読了


 『夜の光に追われて』(津島佑子・講談社文芸文庫)を読了した。
 2001年6月、今年の誕生日にあわせて絵本『よあけ』とともに注文し買って読み始めた一冊。たまに乗る電車の中などですこしずつ読みすすめ、ゆっくり、半年かけて読み終わった。
 じっくり腰を据えて長編を読むのは久しぶりだった。何をするにも気力に乏しく、これまで、短編集を読んできらきらと光るそのひとひらひとひらのお話を歓ぶのがせいぜいだった。

 すこしずつ、すこしずつ、物語をたどっていって、約半年、鞄に入れて連れ歩いて、文庫本を覆う紀伊国屋書店のカバーがもう擦り切れてボロボロになっていて。……ああ、もうすこしで終わってしまう、あとすこしでこの物語とのFarewell(日本語で言い表せずこの語が最も適した)の時がきてしまう、と本を読んでいてそれまでたどり経験してきた数々の場面出来事物語をたどり返し思い返しては名残惜しくさみしく切なく嬉しく有難く思った。こんなにも強くそれを感じたのは初めてだった。ゆっくり時間をかけて読んできたために、半年もの間ともに過ごしてきたために、不思議な愛着が湧いていたようだ。そのことに、読み終わりそうになるまで気がつかなかった。

 小説も漫画も女性による作品が自分は好きだと思っていた。男性である自分にはどうしても薄からざるを得ないだろう女性性に、濃くも薄くもどうしても裏打ちされて生み出されている作品が。作品の裏にかならず息づく女性性が体温のように伝わってくる作品が。女性性、自分自身からは縁遠い彼岸のもの。
『夜の光に追われて』いやむしろ津島佑子が読みたくて書店を探したが見つからず代わりに見つけて購入し読んだ津島佑子の父である太宰治は、男性による作品としてはめずらしく(その時点では自分にはめずらしいことだと思った)自分に合致して、非常に好ましく読めたのだが、逆に、太宰の直後に読んだ津島佑子は、女性による作品ながら、意外なことに、あまり好みの作風ではないように思えた。これはもしかしたら女性性があまりに濃厚で(というふうには今のところ感じてはいないのだが)自分に響きあうものが薄すぎたためかもしれない。
 作品の性格だけに原因があるのではなく、あるいは自分の向いている方向が変わってしまったのかもしれないと今かえりみて思う。好みの方向が、というだけではなく、もっと漠然と広く、内面の向きが。いや、それこそが単に好みの方向というだけのものなのかもしれない。
 文学作品全般の自分の好みを考えて、とくに意識的にでもなく漠然と「やっぱエロスよりタナトスだよね」(エロスとタナトスの言葉を咄嗟に安易に当て嵌めたものだが、この時のイメージでは、女性の内含する生への指向性と男性の内含する死への指向性、その指向からくるエネルギーが作品に響いて作品をかたちづくり支配しているように思われた)なんて男性作家好みを表明する自分に気づいたのも、『夜の光に追われて』を読み終わった日の夜、この作品のことを思い浮かべたふとした瞬間だった。太宰や鴎外、漱石らが念頭にあった。これまで好んで接してきた女性性に、かえって疲れてしまっていたのかもしれない。また、『夜の光に追われて』を読んだことの影響は確実にあるのだろうし、このところずっと、音楽において男性性タナトスの美学の極北であるデス/ゴシックメタルを浴びるように聴いていたのも影響しているのかもしれない。自分もタナトスの世界に染まっていたのか。
 それでも山田詠美は好きだし、少女漫画と呼ばれるものもやっぱり(おそらく少年/青年漫画を凌駕して)好きだし、自分の毛嫌いする文学作品の多くは男性作家のものだし。それでも太宰治には愛着を覚えたし、絵画では男性の作品を好んでいるし、音楽では女性性をナイフで切開して迸った体液で作ったような椎名林檎やハイポジなどの作品も好きだけどそれ以上にデスメタルのような救いようもない滑稽なほどのタナトス支配のものに愛着を感じるし。いい加減なものだ。が、そんなものかもしれない。
 女性による作品を好み、男性による作品に愛着する。自分の男性からくる、当然の帰着か。なんだ、面白くない。

 もうひとつ、この作品とは直接関係のないことだけれど、この作品ひとつを読み終えたのをきっかけに刺激され想起し考えたのが、完全なものほど脆いものはないということ。文章、絵画、建築、服飾等、広くあらゆる「作品」において。
 完全なものであればあるほど、それはほんの些細なきっかけで崩壊しそうな危うさを孕み、見る者を寄せつけず、却って魅力を感じさせない。
 ある程度不完全なものほどしなやかさを持ち、完全なものへの指向に由来する大きな力を秘め、また人なつこく、与える印象も強い。
 しかし、その土台は完璧さを目指したものでなければならない。正確に精密に緻密に強固に構築されたものでなければ、その作品は成立することができず、弱く、自ずから崩壊してしまう。
 今書いていて気づいたのが、人間と同じだということ。人間には人格があり、作品には品格がある。作品と、それを生み出す人間は、親密に似通っている。だから、作品に愛着を感じ、作品に対して好き嫌いを持ち、作品を愛することができるのか。
 いまさらといえばいまさらという気もするけれど。『夜の光に追われて』を読み終わって、あたらしい登山口からあたらしい道すじをたどって、あらためて同じ山頂に到達しあらためて気づいた次第。

 読み始めのころはつい太宰と比較してしまうこともあった。文章はあまり(きわめて高い次元の話だが)上手くはないんだな、などと。読点の打ちかたにも癖があった。とにかく徹底して読点を打ち込んでいる感じで独特だった。……やがて慣れた。いや、一文一文の表現を吟味しながら読んでいるうちに、自分が津島佑子の表現にひっぱられてつりあうところまで連れてきてもらったというほうが適切かもしれない。そこに綴られるひとつひとつの言葉、文、および文章は、それ以上適切にそのことを表現できるし方がないという、その極点できわまった切実なもののはずで、実際それらはどこまでも切実に書きつけられたものだと思えた。好ましかった。

 この作家はあまり好きじゃないかもな、という印象をもって作品を読み始めたが、思い返すと、それは自分の好みのタイプに当てはまる作家かどうかという、たったそれだけの問題でしかなかった。
 作品の最初からずっと、好感をもって、書きつけられた文章に誘われていろいろなことを想い描きながら、じっくりと吟味して読んでいたという事実。そして、半年をかけてゆっくりと読み、読み終わった今、確実に言えるのが、この作品を、自分は結局、好きなのだった、ということ。

 作品から、いいものをたくさん貰った。
 いい作品に出会ったのだ。

『夜の光に追われて』 津島佑子 1989 講談社

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