>> 曖昧な微笑






 物心ついた時から、俺は誰からも必要とはされていなかった。


 「あの」「あれ」「その」「あいつ」


 無数に投げかけられる言葉はすべて俺を指し示していたが、名前を呼ぶモノ誰もいない。
 周囲にとって俺は名前を呼ばれる程価値のある男でもなければ、名前を覚える程重要な存在でもなかったからだ。

 当然のように注がれる侮蔑の視線は俺の自信も尊厳も根こそぎ奪い取り、知らぬうちに俺は失態と屈辱の連鎖から抜け出せないでいた。

 それでも俺はどこか自分の運命を楽観視していたのだろう。
 この泥沼のような運命からも、いずれは誰かが手をさしのべて助けてくれるのだ。堪え忍んでいれば、いつか周囲を見返す程のチャンスが訪れるのだ……。

 そんなおとぎ話のような空想を心の支えにして、ただ「あれ」と呼ばれる日々に曖昧な笑顔を浮かべ道化のように生きていた。
 だが運命は俺が思っているより慈悲もなく、日々ただ生きているだけで俺の存在は軽んじられていった。

 「あれ」「あの」「あいつ」
 そう呼ばれていた俺はいつしか「卑怯者」「臆病者」「下っ端」「クズ」「ゴミ」……。

 そういった、半ば罵倒のような言葉に変化していった。

 それでも俺は、笑っていた。
 ふつうの人が当然のように出来る事でさえ俺は、人一倍の時間をかけなければなし得る事ができなかったからだ。

 よしんば人並みに仕事を終えたとしても、投げかけられる言葉は謝辞ではなく「愚鈍がやっと終わったか」そんな心ない言葉ばかりだった。
 いや、言葉をかけてくれるのならまだ俺を気にかけてくれているのだろう。
 大体の場合が「あぁ、そう」という興味のなさげな視線を注ぐだけで言葉すら交わさないのだから。

 そうやって、生まれた時から呼吸するように蔑まれていた。
 そんな中生きる術として俺は感情を麻痺させて、いかなる罵倒も悪態も、暴力にさえも、曖昧な笑みを浮かべ堪え忍ぶ術が自然と身体に染みついていた。

 何時からか誰もが俺を力ない愚者だとあざ笑い、虐げるのが当然となっていた。
 まるで俺に与えられた唯一の役目が、それであるかのように。

 存在は軽く。
 だがその運命は、鉛のように重く息苦しい。

 そんな地獄のような世界にあっても、俺が俺自身を壊す事なく生き続ける事ができたのは、俺のちっぽけな自尊心が存外に強かったからだろうか。あるいは俺という存在自身が最初から壊れていたからだろう。

 知恵が回らないのを馬鹿と罵られても。
 仕事が遅いのを愚鈍だと虐げられても。
 責任から逃れ雑用ばかりする姿を卑怯と蔑まれても。

 それでも俺はいつか必ず何かを成し遂げるのだという、そんな根拠のない自信とプライドとで、俺は辛うじて生をつないでいた。

 だけどそんな虚勢も、ほとんど無限と思える寿命で耐え続けるのは酷く困難だった。
 ただ誰かに見下され、虐げられ、乱雑に扱われても構わないといった運命からどうにか抜けだそうと自分なりに努力をした事もあった。

 しかし結局のところ俺は卑屈が骨の髄まで染み込んでいて、何をしても思うように行かなかったから。


 「助けてくれ、ワグナス……」


 それがどんなに恐ろしく、危険でそして覚悟のいる所行かもろくすっぽわからないまま、俺はただ夢中で縋り付いていた。
 周囲から天才と呼ばれ、英雄の名も欲しいままにするワグナスであればきっとこの、ドブネズミより薄汚い俺の運命に光を与えてくれるとそう思ったからだ。


 「力をくれ、ワグナス。あんたならできるんだろ? 俺は確かにクズで愚鈍な卑怯者かもしれないけど……力が、もっと力がほしいんだよ!」


 悲鳴のような懇願を、ワグナスは何も言わずただ黙って聞いていた。
 ほかの連中が当たり前のように言う罵声をただ、言われない事が俺は何だかうれしくて。


 「クジンシー……」


 久しく呼ばれなかった名前で呼ばれた事が何だか、くすぐったいようで。


 「この決断は、戻れないほどに大きなものになるかもしれない。それでも……かまわないんだな」


 名前を呼んでくれた。
 人らしく扱ってくれた。

 そんな当たり前の事が何より喜ばしかったから。


 「あぁ、かまわない。俺はもう魂だってあんたに預けたっていいさ。そう、力が得られるなら……」


 迷わずそうこたえた時、俺の心に宿ったのは「この境遇から抜け出したい」なんて卑屈な精神だけではなく「ワグナスにならついて行きたい」そんな献身にも似た思いだった。

 そうして力を得た俺は、貪るように力を求めた。
 かつて俺を何もできない愚鈍な男と罵っていた連中はすっかり萎縮し、英雄として敬うようにまでなっていた。

 化け物の能力を文字通り「喰らう」事で力を得ていく、ワグナスの与えてくれた知識は俺の身体も意識も少しずつ異形に近づけていったが、それさえ恐怖でなかったのは「自分はワグナスに尽くしている」という信仰にも似た感情を抱いていたからだろう。

 強くなった事で俺はみじめな境遇から抜け出す事に成功した。
 後はこの力でワグナスに認めてもらえれば、俺のすべてが報われる。

 ただそれだけを信じて、俺はがむしゃらに力を求めた。
 自分の身体が崩れ落ち、異形へと変貌していく事など気にしないまま。

 このまま何も知らず、何もおそれず力に溺れる事ができれば俺はきっと幸福のまま全てをワグナスの意志に捧げる事も出来たのだろう。
 だが俺は、知ってしまったのだ。


 (みてくれ、ワグナス。俺の力を……)


 そう願っていたワグナスの目が、最初から俺になんて向いていなかったという事に。


 (どうして見てくれないんだ、ワグナス。俺はこんなにも強大になっていったのに……)


 ワグナスは最初から、自分の研究とその結果として古代人たちの平穏が守られる事、それにしか興味がなかったのだ。


 (ワグナス……)


 言うなれば、俺は駒だ。
 俺だけじゃない、スービエもダンターグも自分の思い通りに動くだけの便利な駒なんだろう。

 いや、スービエやダンターグは「望まれて」英雄の道を歩んだのだからいい。

 俺はイレギュラーだ。
 「かわいそうだったから」そんな憐憫の思いから同情で助けられただけだ。

 名前を呼ばれた時はワグナスだけが俺の事を見てくれていると舞い上がったが、実際はどうだ。
 誰よりも俺の事を蔑んで、哀れんでいたのがワグナスだったんじゃないか。


 「あんな奴でも……役に立ってくれてるさ」


 偶然聞こえたのはノエルとの会話が一部だった。
 どうしてあんな奴を迎え入れたのか……疑惑の視線を向けるノエルに対して、ワグナスは淀みなくそう返事をしていて……。

 ……結局のところ、誰も最初から俺の事なんて信頼してないのだと気づいた。

 だが、それなら俺はそれでいい。
 誰も俺を信じないのなら、俺も誰かを信じない。

 それなら俺はこの力を存分にふるって、世界のすべてが俺の名をおそれるようにすればいい。

 長い封印を経て、俺が胸に抱いたのは自分たちを欺き裏切った古代人への復讐なんかではなかった。
 むしろそんな過去の事、俺にとっては下らない。

 ただ恐怖と、そして絶望を。
 俺がこれまで味わった屈辱のすべてを世界に蔓延させる、俺の意志はただそれだけだったから。

 だから俺は曖昧に笑い、仲間たちに背を向ける。
 俺の受けた理不尽な仕打ちを等しく、この世界にも届けるために。

 それが俺が力を得た、たった一つの理由となっていた。






 <きらわれものなんやで!>