>> 決死行
物心ついた時にはそう、俺はあの細いが何故か大きく見える気高い背中を追い掛けていた。
いつも俺の先を進む長い黒髪のその男は、時々立ち止まり振り返ると緩やかに笑って、俺に手を差し出すのだ。
『どうした、スービエ? あんまり遅いと、置いていくぞ』
俺より少し年上で、だから俺より僅かだが背も高く歩幅も大きい、大人のワグナス……そんな彼の背中を、まだ小さかった俺はいつだって必死についていこうと小走りで近づいていた。
まだ小さかった俺はあの頃、いつもあの人の背中を追いかけて。だけどとうとう追い抜けなかった、そんな気がしていたから。
『大きくなったじゃないか、スービエ? 見違えたぞ! ……立派になったな』
背ばかりどんどん伸びていき、並んであるけば俺のほうが速く歩けるようになった時、やっとあいつと同じ世界を見て歩けるんだ、そんな気持ちになって、くすぐったいような歓喜を覚えたのは幾年月すごしていてもまだ心地よい記憶として俺の中に残り続けていた。
『少し待ってくれないか、スービエ。キミの足が速いから、私は追いつくのもやっとだよ?』
そう言って、少し先を進む俺は昔ワグナスがしてくれたように優しく手をさしのべる。
ただ身体が大きくなっただけ、そんな単純な事だが、俺の方が少し先に歩けるようになっていた。
それが少しだけ、だけど本当に嬉しくて……悠久の時を過ごしても、まだ記憶の片隅にこびりついているのはきっと、ずっと、置いていかれていた俺が、やっとおいつけたのだと、そんな風に思ったからだろう。
だけどそれは、所詮俺の思い違いで、やっぱりワグナスの背中は近くにあるようで、とても遠くて。
『大事な研究の最中なんだ、危ないからそれには触らないでくれよ?』
難しい研究を続けていたワグナスは、いよいよ自分の研究室を持ち見た事もないような装置にかこまれ、見たことのないような数式を組み替えて、見たこともないような液体から見たこともないような結晶を取り出して、俺の頭じゃ到底理解出来ない魔法のような言葉を友人……ノエルと話すようになった時、そんなワグナスを前にまた、何も出来ていない自分に気付いて……。
やはり自分は、ワグナスと一緒の世界を見るなんて烏滸がましい事なのだ。
その事実に打ちひしがれて、ただ、愕然として――。
悔しくて、悲しくて、出来ない自分が憤ろしくて、眠れぬほどの怒りを抱えたまま、空に慟哭した事さえあった。
どうして世界はワグナスという天才のそばに自分という思慮の浅い人間を作り出したのだろうと嘆き、どうしてせめて、ワグナスが素晴らしい才能をもつ本物の天才だという事すら見抜けない愚鈍な存在に作り出さなかったのだろうと得体の知れない恨みを抱くようになっていった。
だからだろう。
『スービエ、お前に頼みたい事があるんだが――』
ワグナスがそう言いながら手をさしのべた時、脳裏に浮かんだのは幼い頃の思い出と、この手をとればまた同じ世界が見られる……そんな願いに近い喜びだったから。
だから俺は、何も恐れていなかった。
あの美しい目が、どんなにも恐ろしい未来を予見していたとしても。その艶やかな唇から、どんなおぞましい命令が語られたとしても、その指先がどれだけ多くの血を求めていくのか知っていたとしても。
ただ一つの俺のよろこび。
まだワグナスと同じ世界を見ていて良いのだというこの歓喜と比べれば何て些細な事なのだろうと、心の底から思っていた。
「俺はさ、バカだから……難しい事はよく、わかんねぇんだよ」
差し出された手を眺め、俺は自分の思いを告げる。
「だけど、俺はワグナスを信じるぜ」
同化の法。
それがいかに恐ろしく、呪いのように精神を蝕んでいくのかは聞かされた。
強さのために必要な犠牲の大きさも、人である事すら難しい程の苦痛を伴うという事も。
だが、そんな事ワグナスが俺を信頼して声をかけてくれた事実を前にしたら些細な事だ。
ワグナスは俺を信頼してくれた、だから俺はその信頼にこたえる。
「俺の力が必要だってのなら、喜んで力を貸すぜ! だからアンタは、安心してその知恵を使ってくれよな。俺がこの力を目一杯つかって、アンタの背中守るからさ!」
やっと巡ってきた、同じ世界を見る機会のために。
この先にある道は、きっと深い闇と血の道なのだろう。
だけど俺は後悔しない。
『ありがとう、スービエ……』
ただ生きていても、海に浮かんだ小枝のように居場所も定まらず、何処か孤独であった俺が、一番手に入れたかった居場所をやっと手に入れたのだから。