>> 甘えて、そして甘やかして






 部屋に帰った佐藤春夫が見たのは、春夫のベッドで横になる太宰治の姿だった。
 随分とへこたれているのか、ベッドの上でうつ伏せになり大の字をつくってるため、その表情はうかがえない。

 だが太宰が春夫の所に来る理由は大体きまっていて、何か泣き言や愚痴を垂らしたい時か、逆に振り切れるほどに興奮して誰かに何かを話していないと落ち着いていられない時が大半だった。

 今日は春夫が部屋に戻ったというのに、起きようとする気配もない。
 きっと沈んだ心の行き所がなく、春夫の部屋に逃げてきたのだろう。


「おい太宰、俺のベッドを勝手に占領するな。ほら、起きろ……話したい事があるなら聞いてやる」


 そういって背中を軽く叩いてやるが、太宰は起きる気配もない。
 曲がりなりにも師匠のベッドに靴ごと寝転ぶという図太さをもっている癖に、自分の事になるととんと繊細で弱腰になるのが太宰の昔からの悪い癖だった。


「おい太宰、おきろ。寝るならせめて靴を脱げ」


 春夫は今度はすこし強い口調で言うと、ぴょこんと飛び出た太宰の前髪(?)を軽く引っ張ってそう告げる。
 だが相変わらず、太宰は立ち上がる気力はなさそうで枕に顔を突っ伏したまま動こうとしなかった。
 試しに手を持ち上げて話せば、太宰はその手をだらんとベッドに投げ出すだけ。
 全然自分で動く気はなさそうだ。


「まったく、しっかりしろ太宰……」


 呆れたように頭をかけば、つい口はそう動く。
 その言葉を聞いたとたん、太宰は飛び跳ねるように起き上がるとまるでレストランでたっぷり1時間待たされたのに注文とは別の品物が来た客のように熱烈な勢いでくってかかってきた。


「また春夫先生もそういう事言うんだ! いっつもいっつも、どいつもこいつも 『しっかりしろ太宰』 とか 『やればできるぞ太宰』 とかそんな事いってさ。
 俺は確かに天才だけど、俺だって1年365日、24時間しっかりできるワケないでしょ!?
 それだってのにいっつもいっつも俺にばっかり、やれしっかりしろだの、頑張れだの……俺だって頑張ってるんだよ!?
 でもできないんだって、そういう時って誰にでもあるでしょ?
 でもさ、どうしてみんな俺ばっかり頑張れっていうわけ? しっかりしろっていうワケ? 俺だってさ、すっごい頑張ってる日の方がよっぽど多いんだよ?」


 堰を切ったように話し始める太宰の訴えを聞きながら、春夫は困った顔をしながら腕組みをする。

 太宰は普段から気分の浮き沈みが激しい。
 筆の乗っている時はやかましいくらいだし、大口を叩いて他人の顰蹙を買う事もしばしばあるトラブルメーカーだが、一度気が塞ぐとどん底まで落ち込みすぐに死の影を纏うという厄介な性格をしていた。

 勿論本人にとっては気分が乗っている時も、沈んでいる時も「辛い気持ち」であるのはそうなんだろう。
 気分が乗っていると見える時にした道化のような行動を、沈んでいる時に深く後悔するなんて事は日常茶飯事だ。

 その浮き沈み、ビッグマウス、普段の態度から太宰はどうも「真面目に生きていない」ような印象を他者に与えてしまう。
 子供っぽくワガママな気質もいかにも大人になりきれてない大人で、つい「しっかりしろ」と言いたくもなる。

 だがそのような言葉は、太宰にとって苦痛なのは春夫にも分かっていた。


『太宰くんは、多分心の有り様が子供のままなんだよ』


 以前特務司書はそんな事をいっていた。


『それは本人の性格というか、性質というか、気質というか……とにかく、本人の根本に根付いているもので、他人があぁしろ、こうしろって言っても、多分できないんだよ。
 うん……何というかな。
 普通の人間では何てことないような事でも、太宰くんは躓いてしまう……そういう気質なんだ。
 心が普通より過敏で、たぶん俺たちが普通に日常をおくってる時でも、太宰くんは普通よりずっと沢山のストレスを受けていると思うんだよね……こういう人、けっこう居るんだって。
 俺の時代でようやく研究されはじめたけど、太宰くんの時代はやっと精神病なんかが理解されはじめた頃だから……誰も、太宰くんのそういう苦しみはわからなかっただろうねぇ』


 その時特務司書はやけに饒舌に語った後、深いため息をついていたのを春夫は覚えていた。
 特務司書は、太宰のもつ「天才肌」の気質は逆に彼の「生きづらさ」に即したものではないか、と分析しているようであった。


『他人からするとそんな事、と思うような事でも、本人が苦しいと思ったら苦しいんだ。それを理解されなかったのは、きっと辛いだろうねぇ』


 特務司書はどこか遠くを見るようにしみじみと語ったのはよく覚えている。

 春夫は……この門弟に酷く振り回され、困らされ、その上でこの図書館でも「先生、先生」となつかれて休まる日もない程だが、別に太宰を邪険にしたいワケではない。
 むしろ一度は死に別れており、それは長らく後悔として心にこびり付いていたのだから太宰の苦しみや苦悩を何とか分かりたいと思っていたのだが……。


(俺とは心の形がもう違うんだろうから、太宰を理解してやるのってのは難しいのかもしれないな……)


 春夫はぼんやりとそんな事を考えながら、目の前で泣き言を言い続ける太宰を見て居た。
 特務司書が以前言ってた通り、太宰の言い分はワガママで子供っぽく、おおよそ成人した男性が辛いと嘆いて吐き出すような事ではなかっただろう。
 だが、特務司書は 「本人が辛いと思っている事は、他者がどんな些細に思う事でも実際に辛いのだ」 と言った。

 ……自分は、そういう所の理解が足りないのかもしれない。


(だとしたら、俺はどうしたらいいんだろうなぁ……)


 春夫は漠然とそんな事を考えながら、太宰が占領する自分のベッドへ腰掛ける。
 不意に距離を詰められ、怒られるか叩かれるか警戒したのだろう、太宰はベッドの端に逃げると、今更のように靴を脱いだ。


「……わかった、太宰。おまえが一生懸命なのも、これ以上頑張れないくらい身体がしんどいのもな。だが、それを俺は変わってやれないし、心から理解もしてやれない……ふがいないとも思うが、俺はお前の師匠になれるがお前自身にはなれないからな」


 その言葉を、太宰はきょとんとした顔で見ていた。
 怒られるかまた 「しっかりしろ」 とはっぱをかけられると思っていたのだろう。だからこそ、春夫がそう語るのに驚いているようだった。


「だから、正直に聞くぞ。……太宰、お前は俺にどうしてほしいんだ?」


 その言葉を受けて、太宰はうつむき考えるような素振りを見せる。だがすぐに顔を赤くしながら春夫の方を見ると。


「え、えーっと……春夫先生に、甘えたい……ってか……あの、ぎゅーっとして……ほしい?」
「そうか、わかった」


 春夫はそう告げると、特に迷う様子も見せず太宰の身体を強く抱く。
 春夫の腕の中で太宰の温もりが伝わる。その鼓動はやけに大きく感じた。


「……よし、よし。太宰……悪かったな、辛い言葉ばかりかけていたから、お前をこんなにも恐れさせてしまったのは、きっと俺たちのせいだろう」


 春夫の口から、驚くほど滑らかに労いの言葉が出て来たのには、春夫自身も驚いていた。
 きっと太宰を抱きしめて顔が見えないのと、その温もりで太宰を「太宰治」という一人の作家から「津島修治」という一人の人間をより強く意識できるようになったからだろう。

 きっと、井伏鱒二は自然に「それ」ができていたに違いない。
 だが自分はこうしてみないと、それが実感できなかった……太宰は天才だからやれる人間なんだとどこか楽観的に考え、彼の精神とは向き合おうとはしなかった……。

 いや、散々太宰に振り回された春夫だったから、太宰をどこか面倒に思い、意図的にその精神と向き合わなかったそのツケが、「太宰の死」だったのだと今は思う。
 だから今度こそ、間違わないようにしたかった。


「……他にしてほしい事はあるか?」


 抱きしめたまま太宰の頭を撫でれば、太宰は春夫の身体にしがみついて。


「き、キスして……く、くれませんか? 春夫先生……」


 そんな事を強請るのにはすこし驚いたが、春夫はそれすら拒む気はしなかった。


「あぁ……目を閉じててくれ」


 顎に指先を添えると、ぎゅっと目を閉じ緊張した面持ちになる太宰のその身体をほぐすような気持ちで唇を重ねれば、太宰は一瞬びくりと身体を震わす。
 だがそれが本当に静かで優しいキスだと知ると春夫の身体に抱きついて、そのキスを受け入れた。

 口の中で舌を愛撫すれば、太宰もまた辿々しく舌を絡めてくる。その舌がどこかぎこちないのはキスが不慣れなのではなく、春夫相手に緊張しているのだろう。
 だがその様子はやけに初々しく、改めて春夫は太宰の事を「面倒で厄介な門弟」であると同時に「可愛い門弟の一人」なんだと認識した。

 唇を離せば二人の間に、名残惜しそうに唾液が糸を引く。


「……他には?」


 春夫の優しい笑顔を前に、太宰は何だか夢見心地のような表情になると。


「も、ももっ、もう、いい。もういいです、俺っ……これ以上はなんか無理といいますか、キャパシティが……とにかく大丈夫です、ありがとうございます!」
「そうか……」


 と、そこで春夫は太宰の肩をすこし乱暴に掴むと、そのままベッドに押し倒した。


「ふぎゃっ! は、はるお……せんせい?」


 ベッドの上に仰向けになり、春夫を見上げる太宰に、春夫はやれやれとため息をついて自分の頭を掻いた。


「まったく、司書サンの言葉を受けてお前に優しくしようと思ったが……俺はやっぱり、ダメな師匠だな」
「は、はるおせんせ……」
「今からお前にちょっと酷い事をするかもしれないが……いいか、太宰」


 春夫はそう告げると妖しく笑い、唇を舐める。
 その姿は抗う事ができぬほど男の色香に溢れていて。


「ふぁ……あ、っ、はい。はい……せんせ、や、やさしく……お手柔らかに頼みますっ……」


 声を震わせ耳まで赤くする太宰を見て、春夫は静かに唇を重ねる。

 その日、二人がより互いに対する「理解」を深めたかは定かではない。
 だが、翌日の太宰は随分と明るくおとなしくなっていた、という事には触れてもいいだろう。






 <でぐちこちら。>